金曜の仕事終わり、駅のホームで電車を待ちながら、今日も1時間くらい車内で立ちっぱなしで疲れて揺られながら帰るのかと思うと遣る瀬無くなって、踵を返してグリーン車の列に並び直した。
グリーン車であれば確実に座ることができる。
通常料金に+780円で座席を確保することができるのだ。
780円というのは安い値段ではなく、1日の昼食代よりも高いが、逆に昼1食ぶんでグリーン車に乗れるのだと考えると安いような気もする。
ここで言いたいのは値段ではなく、「乗ろうと思えばグリーン車にだって乗ることができる」という事実である。
私はグリーン車に乗り、1時間ほど座りながら優雅な気分に浸ることができた。
仕事帰りにグリーン車に乗ってやったぞ。
隣の席のおっさんは缶ビールを飲みつつ柿ピーをつまみ、列を挟んだ席のおっさんは新聞を堂々と広げて読んでいた。グリーン車では、普通席では与えられない自由の権利が780円のもとに保障されている。
なんだか自分が大人になった気がした。
私は日夜賃金を稼ぐ社会人で、自分のために稼いだ金を自分のために自由に使うことができるのだ。
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それと似た話。
グリーン車に乗ったことで思い出したけど、私たちはできないことよりもできることの方が圧倒的に多いという話。
空中浮遊するとか自分の内臓を裏返すとか物理的に不可能なことはもちろんあるけど、たいていのことは金銭と機会と意志さえあればなんだってできるのだ。
できる・できない、ではなくて、やる・やらない、の次元なのだ。
本気になってやろうと思えば月にだって行けるし、手段を問わなければ国を作ることだってできる。事実だけでも欲しければ結婚だってできる。ほとんどたいていの場合は、不可能と思われることはできるのだ。
その結果に満足できるかどうかだけで。
それも自分の心持の次第だが、ここで私が言いたいのはできる・できない、ではなく、やる・やらない、の次元なのだということだ。
結果がどうあれ、出来がどうあれ、とりあえずやってみてできたことについて、その事実が自分に多少でも自信と経験をつけてくれるかもしれない。
やってみてできなくても、時間があってクオリティさえ求めなければたいていのものはなんだってどうにでもなる。
もちろんこれは理想論的と言うか、例によって妄言だけど、物事をそうやって捉えるだけでなんだか自分はなんにだってなれるな、と希望が湧いてくる気がするのだ。