相対性理論について書き出そうと思う。
バンドの話でもなければ、宇宙物理学の話でもない。ましてや民族舞踊や二毛作についてでもない。
アイン・シュタインが子どもたちに「相対性理論ってなぁに?」と訊かれたときに、「独りですごす1時間と恋人と過ごす1時間は同じ1時間でも感じる長さはぜんぜん違うだろう?そういうことさ」と答えたという、その「相対性理論」について書き出そうと思う。
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アイン・シュタインと区切るべきではない。
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休日の24時間と平日の24時間はまったくちがうはやさで進む。
平日の24時間、それも主に仕事をしている昼間の8時間は休日における1.7日分の長さがある。
土日は瞬く間に過ぎていくというのに、平日の二日間は麺棒で引き延ばされたかのように長く冗長で、感覚がマヒするほど薄い意識で拡大され凝縮される。そのうち生きながら「意識」だけを損ない、哲学的ゾンビになるかもしれない。哲学的ゾンビになったことさえ気付けないのだ。
一方で休日は驚くほどはやく過ぎさり、最近では金曜の夜からすでに月曜の朝のことを考えているため心はなかなか安寧を得られず、もはや休んだ気がしない。もっと休むべきだ。
これが日常的な「意識」の相対性理論である。
どうにかして、平日を休日と同じはやさにできないものか?
一日中寝ているしかないのか?
意識の相対性理論であるということは、意識を変えればいいのではないだろうか。
どうすれば変えることができるだろう、と考えたときに閃いたのがやはり物理学の相対性理論と同じ論理で、長大な視点を持つことによって意識を変えることができるという仮説だ。
相対性理論についてほとんど何も知らないので、あるいは物理学の相対性理論にそんな視点はないかもしれない。
長大な視点とはなにか。
それは「人生」を尺度に持つことである。
24時間を「人生」という単位の中に当てはめると、1人生(JN)中わずかな時間にしかならない。
1JNのうちの24時間は誤差程度のノイズでしかない。
それも積もれば1年という時間になって、10年になって、と人生(JN)の円グラフにするとそれなりの配分を占めることになるけれども、たとえ平日の5日間があったところでそれくらいは誤差でしかなく、グラフにしても見えなくなるだろう。
これを念頭に置いておくと。
たった5日間働くくらい、なんてことないように思えてくる。
5日なんて誤差だ。たいしたことない時間じゃないか。
休日が終わるように、平日だって終わるんだ。
休日があっという間であるように、平日もあっという間なんだ。
そう考えるように努める。平日の時間も光陰の矢と同じく取り返しのつかない尊い時間なのだと自分に言い聞かせる。
すると、アラ不思議。
平日はあっという間に終わるけど、休日はさらにあっという間に終わる。