好きな映画を5本あげて、といわれたら『インターステラー』は必ず入る。他に入る映画は『リトル・ミス・サンシャイン』『シン・ゴジラ』『AKIRA』あと一つはなんだろうってかんじ。
先日久しぶりに鑑賞したら、前半の1時間半くらいでもう涙が止まらんくなって、視聴を一旦やめた。
『インターステラー』はそれくらい泣ける。
ネタバレをせずにこの映画を語るのは難しいが、ネタバレをせずに語ろうと思う。つまり、ここからは「感覚」のお話しかしない。
そもそもこの映画は難しい。
なんかずっと難しい理論に則って、難しいことをやろうとしている。バナナがなぜ黄色いのか?を論理的に議論しながらメロンを投げ合っているスマトラトラのような、難しさがある。相対性理論とか宇宙物理学とかよくわからない。
よくわからないのだが、わからないなりに面白いからすごい。映像の凄みとか、演出の巧みさがそうさせているのだろう。
この映画を撮るためにスタッフが博士号を撮ったらしくて、それはすごいことだし、この映画で描いたブラックホール像は、のちに実際の望遠鏡で捉えられたブラックホールと同じ見た目をしていたらしい。
精度の高い知識と理論に基づいて作られたSFであり、だからすごく難しいのだけど、しかしながら面白くて、わんわん泣けてしまうのは、この映画のテーマが壮大さと痛みを感じられるほどの身近さでできているからだ。
難しいことを言っているくせに、テーマは卑近で切実なのだ。
そしてこの身近な想いこそが、時空を超えるのだと教えてくれる。
まるでそう、宇宙の果てがこの目の前にあるかのような、そんな壮大さと身近さだ。
この映画で示される身近さとは、家族のことだ。愛のことだ。
遠く離れた家族、愛していて、時に憎く、理解し合えず、通じ合い、話を聞いているようで聞いていなくて、いつも気にかけている、最も距離が近くて、遠い、自分の家族が描かれる。
主人公は愚かな選択をして、宇宙への旅に出る。
二度と帰ってこられないかもしれない旅に。
本当に大切なものや、大切な想いや、本当に知りたかったことは、実はものすごく近くにあって、毎日触れることができたのに、それに気付くのはあまりにも孤独な宇宙の果て。
家族と地球を守るための旅路のはずなのに、なにもかも捨てて宇宙の果てにいる。
主人公は旅の始まりから終始、地球に帰り、家族に会うということを目標に動いている。
この映画は骨太なSFなのだが、作品の軸となっているものの一つが「家に帰る」ということなのだ。このテーマが、骨太なSFの壮大な物語を、「自分事」にするほどに、身近にする。
時間の流れは残酷で、失われた時間は二度と戻らない。どれだけ距離が離れていても、どこか別の銀河にいたとしても、時間の流れはつきまとう。
光がどれだけ速くても、時間の流れまでは変えられない。
平等に残酷で、相対性理論は理不尽だ。
でも抗いようがなく、科学は時として神のような存在でもある。
そういった理不尽の前で、私たちは本当に大切なものを見つける。
それは、ありきたりで、古臭くて、平凡で、まったくSFじゃなくて、むしろファンタジーなもの。
「愛」だ。
この話は、骨太なSFも、壮大な科学も、豪華な映像も、「愛」という根幹のテーマを装飾するものでしかない。
「愛」とかいう、ブラックホールよりも曖昧で未知数のものが、この作品の芯をなしている。
SFファンからしたら興醒めだろう。
でも私はこの作品のそういうところが好きだし、そのテーマだけは数千年前から古びれないように、これからも新しくあり続けるのだろうと思う。そう信じている。
そんなことを考えながら見ていると、泣きすぎちゃって1時間半くらいで耐えられなくなる。
それくらい好きな映画。