蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

髪を切ることは縁を切ることじゃない

 の毛が伸びた。

 伸びたなんてもんじゃない。野生化してまるで一個のべつの生き物のようになってしまった。非文明的であった。野蛮であった。

 四字熟語で表すなら、邪知暴虐。

 私は激怒した。かならずかの邪知暴虐の髪を切らねばならぬと決意した。私には政治がわからぬ。微分積分もわからぬ。エスペラント語わからぬ。だけど散髪屋に行かねばならないことはわかっていた。

 

 いつも髪を切ってもらってる美容室は、キチ○イのジョージ、略して吉祥寺(きちじょうじ)という街にあって、イケメンの美容師(ほんとうにイケメンです)に良いように整髪してもらっていたのだが、なにぶんこの時分、電車で片道1時間半もかかる街に繰り出すのは気が引けるし、目下緊急事態宣言に伴いわざわざ東京をうろつくことは能わないので、散髪を先延ばしにしていた。

 しかし緊急事態なのは私の髪にしても同じ。いまや苛政をはたらき、市民から表現の自由を奪おうとしている。焚書坑儒している。

 6年くらい吉祥寺の美容師さんに切ってもらっていたのだが、仕方がない。私は家の近所(徒歩20分)の美容室を予約した。

 

 吉祥寺の美容師さん、ごめんなさい。蟻は浮気いたしました。

 事態が落ち着いたら必ずあなたのもとへ馳せ参じ、散髪してもらいます。どうか、どうかお許しを。

 浮気妻の気持ちになって、土曜日、新しい美容室へ繰り出した。

 

 近所の美容室はまだ新しい店舗だったが、それなりに繁盛しているようだった。

 スタッフはもちろんマスクをつけ、窓はすべて開かれて換気は充分に行き届いている。

「今日はどのようになさいますか?」

 そう訊かれて私は困る。

 いつもの美容師には馴れた仲なので適当な注文をしていたのだ。「もうすぐ夏でしょう。だいぶ伸びましたからね、なんていうか、夏が楽しみになるような、それでいて梅雨の陰鬱さも意識したような感じで」なんてなことを言っていたのである。

 だが、新しい美容室で初手からかますわけにはいかない。

「あ、えと……あは……」とか言って、持ち前のコミュ障を発揮し、「夏、なんでね……えへへ……」と泣きそうになっていると、どうやら美容師はベテランらしくなにかを察して、「刈り上げはしないかんじで、たとえば全体的に軽めにして~」と具体的な提案をしてくれて助かった。

 私は「あい」と泣きそうに返事をして、あとは任せた。

 

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 切った髪の量はものすごくて、怨念、って言葉が脳裏をよぎった。

「重かったでしょ?」美容師は言った。

 重い重い、怨念だった。頭髪はおかげさまですっきりし、見違えるようになり、文明の光が差していた。

 かくして苛政が暴かれ内閣は総辞職を余儀なくされ、心新たに夏の髪型が決まったのであった。

 仕上がりもかなりよくて、気分もすっきりしたし、値段もそこまで高くはなかったので、よかった。

 家から近いし気分のいい美容師だったから、なんかちょっといいかもなぁと思ったが、そのとき吉祥寺の美容師がふとちらついて、おれはもしかしたら寝取られたのかもしれない、とショーウィンドウにうつる新しい自分の髪型を見て、嘆いた。

 

 それくらい、すごくよかったのだ。