蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「最後の晩餐」の列席者はみんな「はやく帰りたい」と思っている

 「最後の晩餐」って絵画について。

  レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた壁画で、世界でもっとも有名な絵画作品のひとつと言っていいでしょう。

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 絵画についてあまり詳しくないので、どこがどう凄いのかは説明できないが、なんか人物に動きがあって、どうやって動いているのかなんとなくわかるし、なにを囁き合っているのか、どういう心情であるのか、ざわつきと動揺が画面の向こうから伝わってくるようで、巨大な壁画ともなれば、実際に見たらその臨場感は迫りくるものがあるのだろうと思う。

 

 だけど、よくよく観察してみると不思議というか、不可解というか、なにこれ?って部分が多い。

 その「なにこれ」部分を考察したいと思う。

 例によってなにも調べずに、かなりテキトーに書き連ねていくので、一切信用しないでいただきたい。

 

   ↓

 

 不気味な構造の部屋だ。

 通用口が八つもあり、それぞれがおそらく壁で仕切られている。八つの入り口は通路ではなく部屋なのかもしれない。だけどドアが無い。カーテンのような仕切りもない。

 入り口はのっぺりと描かれて立体感が無い。本当ならこの入り口の中も描くはずだ。いやむしろ真っ黒なカーテンなのかもしれない。

 不自然だ。

 手抜きか?

 人物を描いて満足しちまったのかもしれねぇ。

 

 ほかにも不思議な点がある。

 座りかたである。

 普通、大人数で食事をするときはカウンター席に座らないだろう。

 車座になるとか、いくつかテーブルを組み合わせるとか、場合によっては二組に分かれて各テーブルで食事を楽しむだろう。

グレープフルーツサワーのお客様?」

「ああ~それあっちのテーブル~!」

 なんて会話がされるだろう。

 

 宴会なのにカウンター席に座っている異様さ。そこしか席が空いてなかったのだろうか?宴会なら事前に予約しておくべきだ。

 お通しのパンも乱雑に置かれてるし、しかもこの中に「裏切者」がいるという。最悪だ。はやく帰りたい。

 だけど、さらに観察して気付くのだが、ふつうカウンター席にテーブルクロスを掛けるだろうか?厨房の仕切りに位置するカウンター席は壁と一体になっているのでクロスは掛けられないはずである。

 それにこれがカウンター席だとしたら、部屋の中央にカウンターがズドンと設置されたかなり中途半端で居心地の悪い部屋になりそうだ。

 だからこれは、カウンターではなくテーブルなのだ。

 

  ↓

 

 テーブルだとして、どうしてこんな座り方をしているのだろう?

 全員がイエスの隣に座りたかった結果、こうなったのだろうか?

 それともなにか映画とかスライドショーをやりながら食事でもしていたのだろうか?

 あらゆる可能性はあるが、一番考えられるのが、「テーブルが狭すぎるから」である。

 

 イエスの差し出した左手を見てほしい。

 テーブルの幅は目算で50cmほどだろうか。狭すぎる。学校の机くらいしかないんじゃないか。

 学校の机ほどの幅に向かい合って座ってお弁当を広げると大変狭くなることは皆さんもご存知の通り。友だちがいなかった人は想像してください。私のように。

 あの狭さで、6人ー7人で向かい合って食事をしたらどうなるか?取り皿を置くところもなく、ジョッキを常に持っていなければならず、食事は手づかみで、しかも列席者のほとんどがおっさんだし、お通しのパンは乱雑だし、「裏切者」もいる。角席なんて地獄だ。すぐ後ろが壁でとても狭い。

 はやく帰りたい。

 「最後の晩餐」の列席者はみんな「はやく帰りたい」と思っているのだ。

 

   ↓

 

 というのは、まぁ冗談として、座り方を考察するうちに気付いたのだが、光の当たり方がなんだかおかしい。イエスにスポットライトが当たるように中心が光源になり、両サイドに暗くなっていく。

 ありえない。どんな部屋だよ、とますますわからなくなる。

 

 多分だけど、この絵画はイエスを中心にした世界で構成されているのだ。

 イエスを中心に据えて、遠近法がイエスの背後に収束していくのがわかる。だから部屋の構造もなんだか不自然で、イエスを魅せるためにノイズが一切ないのだ。

 この仮説を経て、座り方の説明もつく。

 イエスを魅せるために、この座りかたなのだ。だって向かいに誰か座っていたらイエスが見えないし、別の角度から描いたらイエスが中心ではなくなってしまう。

 現実的な考証のある絵画ではなく、実に舞台装置的な趣のあるフィクション的絵画なのだ。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは自然科学やあらゆる学問に精通していて、絵画中の小物や植物の造詣も深かった。リアリティを追求した。

 だからこそ、「最後の晩餐」の不自然さは完璧な計算のうちに構築された、絵画のための不自然さなのではないか。

 「はやく帰りたい」と思っているのは裏切者ただ一人だけだ。