蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

書道教室の思い出

  小学生の頃、書道教室に通っていた。

 たしか小学3年か4年生の頃から、中学2年生まで、週に一回、通っていた。

 私の字を母が「あまりにも汚すぎる。文字というより一種の生命体みたいだ」と見かねて、通わせたのだ。

 近所に住む中学生のおねえさんに引率されて、小さな書道教室へ通うことになった。

 私は、書道教室が好きだった。

 

 その書道教室は「離れ」の小さな家でこまごまと開かれており、ほんとうにヨボヨボのおばあちゃんが一人で営んでいた。

 おばあちゃんの背中は丸く、立ち上がっても小学生の私より小さくて、喋り方もヨボヨボだったし、いつも小さく震えていた。

 だけど汚らしい老婆ではなく、立ち振る舞いには気品があったし、声は芯があって、私の話に小鳥のようによく笑い、半紙のように白い髪はきらきらしていて可愛らしく、美しかった。

 いつも褒めてくれたし、にこにこしていたし、遅刻をしても怒らなかったどころか、よく来たねぇと歓迎してくれた。優しくて、きれいで、見た目ではなく内からただよう うつくしさみたいなものがあって、なんていうか きもちのいいおばあちゃんで、ぼくにもおばあちゃんがいたら、こういうおばあちゃんがよかったなぁとおもえる、そんなおばあちゃん先生だった。

 ぼくは先生がすきだった。

 

 書道教室に通う人は、近所のおばさまたちや、女子校の小中学生ばかりで、男の子が通うのは珍しかったらしく、私はずいぶん可愛がられた。

 お菓子をくれる日もあった。書いた字はたいてい褒められた。

 教室は小さな部屋で、ぷわんと墨の澄んだ香りがして、先生の書いたとおりにならって文字を書いていると、すごく集中できて感覚が尖っていくかんじがした。

 文字は丁寧に何度も何度も書いていると、「はらい」や「はね」や「とめ」のひとつひとつに意識を集中させていくうちに、文字というよりも絵のように思えてきて、偏(へん)とつくりがひとつの物語を語っているようでもあったし、情報を伝達するツールとしての枠を超えて、文字という芸術でもあった。

 どうしてこの「はらい」が汚くなってしまうのか、先生と自分のなにが違うのか、文字を書きながら「意識的」になることは、小学生の自分にとって、原初の自己との対話だったようにおもう。

 綺麗に文字を書こうとすることは、文字そのものとの対話であり、自分自身との対話でもあったのだ。

 あのピリピリした感覚が好きだった。

 

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 中学生になってしばらくは通っていたけど、部活にも入って習い事をする時間がとれなくなり、ついにやめてしまった。

 ゆるゆると、フェードアウトするように、やめてしまった。

 書道が好きだったから通いたかったけど、自然消滅してしまうくらいには通うことが難しくなってしまったのだ。

 

 先生は元気だろうか?

 10年前でかなりヨボヨボだったから、正直不安だ。もう書道教室はやっていないかもしれない。縁起でもないけど、不吉な予感だってする。現実的に考えて。

 

 なんとなく、という義理を通さない辞め方をしてしまったことと、現実的なことが目に入ってしまうのが怖くて、あの書道教室の前を通れない。

 思い出に変わってしまうくらい時間が経ってしまった。

 私の普段書く字は「とめ」「はね」「はらい」のクセが強くて壁に落書きをしても筆跡ですぐにバレるようになってしまった。

 階級の賞状を紛失してしまった。

 

 なんとなく後ろめたくて、心に「はらい」きれないでいる。