国立西洋美術館で開催されているロンドン・ナショナルギャラリー展に行ってきた。
美術館に行くのはじつに半年ぶりくらいで、久々でずっと楽しみにしていたのだ。
チケットは予約制となっている。
もちろん、コロナ対策であるが、混雑分散の目的もあるのだろう。
(会期が変更になってます)
すこし遅い時間のチケットを予約した。
美術館は遅い時間の方が人が少なくて、わりにゆったりと見れるからである。しかしあまりにも遅い時間だと閉館時間と戦う羽目になり、以前、閉館1時間前に入ったときには警備員に追われながら鑑賞したのでぜんぜん集中できなかった。
17時入館。
予約制であることと遅い時間ということもあって、そこまで人は多くはなかったが、しかし少ないとは言えないくらい、混雑していた。
美術館はしんと冷たくて、エントランスホールに靴音がこつんこつんとよく響いた。いよいよ美術館だ。そわそわする気持ちをこつんこつんという靴音が鎮めてくれる。
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展示の印象としては宗教画が少なく、肖像画や風景画が多かった。
イギリス国教会の成立とルネサンスによる人文主義の影響か、神話の中における人間性とか、肖像画による人間そのものに焦点をあてられた作品が多くて、同時代のフランスやドイツやロシアの作品と比べ、芸術視点が違っていたことがわかり面白い。イギリスの作家だけでなく、ヨーロッパ中から、国が自分たちの時代の価値観に見合ったものを蒐集していたことがうかがえる。人間中心主義だったからこそ、いちはやく資本主義を発達させ産業革命にこぎつけたのだろう。
という推論。
もしかしたらこの企画展がそういうテーマ(人間中心主義)だっただけかもしれない。
レンブラント、フェルメールといった名だたる絵画作品を見れたことは嬉しかったが、なんといってもゴッホの「ひまわり」が素晴らしかった。
図録や教科書やポスターで何度も見た、世界一有名な絵画のひとつ。
7枚の連作のうち、ゴーギャンが最も高く評価した1枚。
歴史的な絵画である。
「ひまわり」には個室が用意され、ほのかに暗く冷たい部屋に、堂々と一枚、展示されていた。
ひと目見て、まずその大きさに驚いた。私が想像していたよりもずっと大きなカンヴァスに描かれていたのだ。
つぎに、その黄色さに驚いた。ポスターや教科書で見ていた「ひまわり」はなんだったのかと自分の目を疑いたくもなるような黄色さで、体いっぱいに黄色のパワーが溢れて、額縁からこぼれ落ちてきそうだった。
体の内側から熱。館内が寒いほど涼しいことも相まって、熱に浮かされたときのように、悪寒にも似た熱を体内にかんじた。
血液がばくばくと流れ、毛穴がひらき、網膜はあの黄色を、世界にここだけしかない本物の黄色を、貪欲に摂取しようと拡大し、言葉の情報以上に伝わってくる絵画的な「こころ」の伝達をたしかに受け止めて、気が付けば涙ぐんでいる。
ああ、おれが絵の具に生まれ変わったなら、あの黄色になりたい。
黄色にもさまざまな種類があって、表情がある。単体では黄色でしかない黄色たちは、ゴッホの「ひまわり」のなかでは「ゴッホの黄色」になっている。
レンブラントの光がぼんやりと丸いものだとしたら、フェルメールの光は窓から差す柔らかな日差しで、ゴッホの光は「燦然」のほかに言葉が見つからない。
ゴーギャンと暮らす祝いに、黄色い家に飾るために描いた「ひまわり」。アルルの地の太陽の光が、ゴッホにはあの「ひまわり」のように黄色く輝いて、これからの生活の希望に重なってぴかぴか光っていたのだろう。
なんて素直で、美しく、面倒くさく、愛しいこころだろう。
生命力にあふれ、自分の中で大きな力が動くのを感じる。
生(ナマ)で目にしなければわからないこと、感じられないことはたくさんある。
「ひまわり」の鑑賞はそのひとつだった。
生きているうちにあと何回、この絵画を目にすることができるだろう?
それを思うと淋しい気持ちになる。何度だって、何時間だって、見つめていたい。