同棲をはじめて、偉いことにほぼ毎日自炊をしている。
休日に作りだめをしておいたり、野菜だけ切っておいたりする。そうしないこともある。
仕事終わりに料理をするのは結構負担だが、料理が嫌いではないし、苦労でもなく、ただ仕事終わりで腹ペコなのにすぐに食べれないということがつらい。
料理をいくつかやってきて学んだことはたくさんある。
料理本の指示には基本的には従った方が良いこと。
料理本の指示には従っても料理本の思想には従わない方が良いこと。
そして、勘で作らない方が良いこと。
下の画像は、余った牛乳でチーズを作ろうとしたときのものだ。
前日の夜にテレビで手作りチーズのやり方をほんの少しだけ紹介していて(VTRの一部だった)、その曖昧な記憶を基に、勘で作ろうとした。
牛乳を任意の時間煮て、満足したら任意の量のレモン汁を加えて、なんか成分が分離するので、いいかな、とおもったらキッチンペーパーを敷いたザルに濾す。
濾す時間も、だいたい2時間くらいで、なんならこれも任意の時間で良い。
任意の時間が経つと、キッチンペーパーにはなんか固形物が残るので、絞る。
そうして残ったものが、チーズである。
よくわからないのだが、絞ったら何も残らなかった。
私は2時間かけて「無」を作った。
残りかすの「無」を口にしたら、一瞬「毒」かと錯覚するほど不味かった。
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このような勘による丁寧な作業を通して、ときどき失敗作を作ってしまう。
先日も余ったカボチャの種に閃きを得て、それをオーブンで加熱し、さらに乾燥させたのちに満足したら炒めて塩と胡椒を振って、カボチャの種のツマミを作ったのだが、結果としてできたのは「焦げた種子」だった。
恋人に「焦げた種子」を与えてみたところ、う~んと言って顔をしかめ、ゴミ箱に直接吐き出した。「食べちゃいけない」と彼女は言った。
あれだけ乾燥させたのに種はしんなりと湿気り、焦げの苦みの中に塩気がジメっとまとわりついていて、たとえばこの世の憎しみを料理にしたらこういうものになるのだろうといった味わいであった。これを「味わい」とするのも烏滸がましい。
そして昨日も失敗した。
ゴーヤチャンプルーである。
ゴーヤチャンプルーで失敗することなんてあり得るのだろうか。
自分が失敗するまでそうおもっていたが、失敗した。
実家で作ったとき、ゴーヤの苦みを取るために切ったゴーヤを塩揉みにしていたのだが、その時は塩揉みが足りなかったしゴーヤをやや厚く切ってしまったために苦くなってしまった。
そこで今回はゴーヤを薄く切り、念入りに塩揉みした。
結果、ゴーヤは「塩漬け」状態になり、とても食べれる代物ではなくなった。
ゴーヤが海の植物だったとして、海水の塩分を吸い取って成長する性質のものであったらば、採れたてのゴーヤはこれくらい塩辛いのだろうな、というくらいの塩気を含んでいた。
スパムと豆腐だけなら食べれないことはないのだが、ゴーヤがひとかけらでもあると「塩」になるので食べられない。
あの「焦げた種子」が憎悪を司る料理だとしたら、このチャンプルーは悲哀を司る。
涙の味がする。
ゴーヤを取り除いて食べた。なにをやっているのだろう。
最悪。
食材を無駄にした罪、お金をドブに捨てた罪、そして不味いもので腹を満たす罰。
つくづく自分が情けなく、食べながら泣きそうになったけど、泣いたら余計塩辛くなるので堪えて、「ニガウリ」と言うよりむしろ「シオウリ」と化したゴーヤたちに謝罪の弁を述べた。
恋人に食べさせるわけにはいかなかったので、恋人の分の夕食はお惣菜を買ってきてもらい、私は2人前の失敗作で腹を満たしたのであった。
丁寧に丁寧に、失敗する。
勘でやっちゃいけない。