蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

本を捨てる覚悟、後悔、気付き、提案。

は捨てないと場所を取る。

場所には限りがあり(日本の領土は狭い)、同居人との折り合いもある(彼女の機嫌を損ねてはならない)。一度読んだきり二度と開かれない本だって少なくない(たとえば教授の800ページに及ぶ怪文書と変わりのない論文集)。

 

そういうわけで本はなにかを機に捨てなければならない。

古本屋に売ってもいい。

だけど一度に数十冊も持って行くには車が必要で、自動車を持ってないのでレンタカーせねばならず、自動車がないなら馬に曳かせればいいじゃない、と言われてももちろん馬もいないので(多くの場合、馬がいる家庭には高級な自動車もある)しかたなく回数を分けて重い重い言いながら手で運ぶしかないのだが、そんな苦労をするくらいなら資源ごみに出した方が手っ取り早いとおもってしまう。

だけど捨てるのは心苦しい。売るのと同じくらい心苦しい。

どちらにせよ心苦しく、夜な夜なうなされるくらいなら本は書架に保管しておけば最も平和的なのだが、先にも述べたいくつかの理由により、本は手放さなければならなくなる。

 

「でももう読むことはないだろうからな」

そうきっぱり決心をしてしまえば、案外あっさり捨てられるものだ。

「実際、もう5年くらい開いてもいない本じゃないか。それなら捨てちまったほうが実際生活にはいいじゃないか」

その通りだ。

実際の生活を考えて実益を得んとするならば、5年以上触れていない本は捨てた方がいいだろう。

すでに本棚はひっ迫しているし、あるいは引っ越し先にこの本を収納するスペースがないし、もしくは急な小遣いが欲しいし、……そういうわけで本は手放される選択を受け入れることになる。

 

のだが。

 

本を手放してから2年後くらいにふと、ああ、あの本また読みたいな、と思い、本棚を探すが、ない、という場面がたまにある。

そして思い出すのだ。過去の自分の愚かな選択を。

まったくくだらない選択をしたものだ。どうして私は自分の魂の一部を、痛みも感じずに手放すことができたのだろう?と悔しくなる。

今になって痛みの無かった傷が痛みだす。

 

私は森博嗣のミステリーシリーズ3作をすべて手放した馬鹿者だ。

私は さくらももこや高田郁のいくつかの単行本と文庫本を置いてきた痴れ者だ。

私は企画展の画集を捨て、太宰や宮沢賢治泉鏡花を売り飛ばした恥知らずだ。

 

   ↓

 

kindleはスペースを取らないけど、一年くらい使用してみて、やっぱり紙の本がいいな、とおもう。

ページがすすみ、左手から右手へ紙の厚みが移っていく実感が好きだ。読み終わって本棚にしまい、背表紙を眺めて物語の物思いにふけるのが好きだ。そこに紙の本の充実感がある。

私が本で楽しんでいるのはただ単に物語や論旨の「情報」だけではないということに気付かされた。

 

kindleではハードカバーの単行本を買うようにしている。単行本は重くて持ち歩きに不便だからだ。

だけど単行本は本棚に飾ってこそ、その魅力を発揮するものだから、kindleでは満足できず、kindleで読み終わった後に紙ベースでも買いたくなってしまう。

金とスペースの無駄である。

kindleで買えばのちのち実際の紙の本を半額以下の値段で買えるというサービスは無いものだろうか。