蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

会社のロビーで飲む缶チューハイの適切な温度

事を辞めるのなんて簡単だった。

唯一難しかったことは、上司にどのように話を切り出すかタイミングを見計らうことだけで、でもこれだって勢いに任せればなるようになり、辞める理由の嘘なんてその場の思い付きで充分だった。日頃からブログで嘘を書きまくっているから慣れていたのだろう。

 

「実家の喫茶店を継ぐことにしました。そこ一本でやっていけるかはわかんないんですけど(こういうご時世ですしね)、でも父母ももう齢だし、私自身カフェが好きだったので、いつか継ぐつもりではいたんです。年初めに母が腰悪くしちゃって、それで帰省したタイミングでそういう話が持ち上がりまして……。継ぐタイミングが図らずもちょっと早くなってしまったので、急なことになってしまったんですけど……」

よくもまぁスラスラと言葉が出てくるもんだ。饒舌な私にたじろぎながら、課長はメモにペンを走らせ、話を訊ねた。

「実家って、茨城の?」

「はい、栃木寄りの」

「そうか、それはそれは……遠いな」

入社したときに地元を偽っていてよかった。あの頃、心を開けていない人たちに地元を教えたくなくて、なんとなく嘘をついてしまったのだ。でもそれが今になって活きた。

結局、誰にも心を開けなかったな。

 

 

あとはもう簡単。流れに任せればいい。

上司のさらに上の上司に話が伝わり、小さな面談をいくつか重ね(面談では一人も私を引き留める人はいなかった)、会社側の都合に合わせる形になったが、最初に話を切り出してから一か月半後の3月に退職が決まった(私は誰にも引き留められず、残念だとも言われなかったことに、しかしなにも思わなかった)。

私は辞めるべくして辞めるのだ。

 

次の仕事はもちろん決まっていない。

神奈川の実家に帰る選択肢もない。仕事を辞めることは誰にも話していない。知ったらきっとびっくりするだろうな、としか思わない。そして知る由もないから驚かないだろうな。

どうして仕事を辞めたの?と訊かれたらどう説明しよう。

実のところ、私にもうまく言語化できないのだ。

朝起きて、今日は熱海へ行き、温泉へ入りたいと思う。でも仕事があるから反対方面の電車へ乗ることは許されない。

朝起きず、15時くらいに起きて、そこから凝った食事を作りたい。でも仕事があれば15時は支払い伝票を作成しなければならない時間だ。

電話を取りたくない。伝票を打ち込みたくない。相手先と日程調整をしたくない。誰かのために働きたくない。自分のために生きていたい。海を見たい。風を感じたい。

無い実家のカフェを継ぎたい。

 

 

たぶん「自由になりたい」も理由として正しくないのだけど、うまく言葉にできるとすれば「自由になりたい」が最も言語化できない部分を説明してくれようとしている。

 

私は「自由になりたい」のです。

 

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退職の餞別にAmazonギフト券をもらった。

好きなものを教えたことのない私に贈る餞別として、これ以上のものはない。

 

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最終労働日、部署の皆さんの前で挨拶をした。言葉を尽くした絢爛な挨拶の一部をここで紹介できたらよかったのだけど、あいにく何を言ったか忘れてしまった。また出まかせの嘘をついたのだろう。なにも言っていないことと同じだ。

挨拶が済むと他の方は足早にデスクに戻り、仕事を続けた。

私は荷物をまとめ、あとは一瞥もせず、オフィスを後にした。

 

エレベーターホールまで課長と先輩が送ってくれた。

「それじゃあ、元気でやれよ」課長が私の肩を叩く。

「はい。ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」

「  」

先輩もなにか言ってくれたが、忘れた。それが出まかせの嘘だとわかっていたからだろう。なんだっていい。この先輩に会わなくていいのだと思うと晴れ晴れする。それだけだ。

 

 

ビルテナントのローソンで一番高い缶チューハイを買った。

度数のはなし。

ロビーには曇りガラスのしきりに囲われたテーブル席がいくつかあり、その一角に座って、退社する人々の靴音を聴きながらプルタブを開けた。張りつめた炭酸の抜ける音は天井の高いロビーにこだまするには弱弱しく場違だった。

冷蔵庫に入れたばかりだったのかひどくぬるくて、ツンとしたアルコールのにおいが安っぽい。弱者の飲み物は名前と数字だけ威勢よく強がるものだ。酒が私を支えてくれたことなんて一度もない。

 

曇りガラスに囲われているから外は見えない。ずらずらと靴音が連なって、スーツを着た人たちが退社する日常の音が向こう側から聞こえてくる。足音はひとつの塊になって、そうと知らなければ巨大な虫が這う音にも聞こえる。

あのうちのひとつは嫌いだった先輩のものかもしれないし、人のいい課長かもしれないし、名前は知らないけど可愛かった新人かもしれない。私は曇りガラスを隔ててそれを確認する術もない。曇りガラスに囲われたこのスペースの隅は何もかもから死角になっている。

なんにせよ確かなことは、私の足音はあの中にもういない、ということだ。

ぐびり。

Amazonギフト券、どうやって散財してやろうかな。口座の残高は怖くてもうずっと見ていない。でもなんとか生きてるし、これから死んだっていいのだ。

自由なんだから。

もうおれは、あちら側じゃないのだから。

ぐびり。

退職したらぜったいにここで酒を飲むって決めてたんだ。ずっと前から。

ああ、ツマミも買っておくんだった。ぬるいなちくしょう。