生きにくい世界だったので生きやすくしようとして、多様性、が殊更に叫ばれているが、それもまたそれでなんだか生きにくいよな、と思う。
「多様性」は誰かの生きにくさを認めてくれる便利な言葉だけど、細かくてさまざまな部分や物事を認めたり一括りにしてしまうので危険な言葉でもある。
「私は私の着たいものを着て生きていく」とか「やりたいことやって生きる」みたいな主張は従来の価値観や閉塞感を打破する言論の形のひとつで賛同する方は多く、日々「個人の意思を持ってやりたいことをやろう!」みたいな声が随所で上がるのを聞くと、たとえば私みたいにそんなことどうでよくて、なんとなく生きてて、なんかもういろいろと考えるのを放棄したくて、空気のように穏やかに、周りと合わせて波風立てずに生きることを幸福としている人間からすれば、「やりたいことをやろう」はイコール「自分のやりたいこと、自分のビジョンをはっきり持った人間になろう」に聞こえてきて暗に自分の体たらくを批判されているような気分になり、余計なお世話じゃボケ、おれはおれの好きなように生きたいからお前が余計なこと言うなカスそれは多様性と違うんかい、と、まるでトートロジーなのだけどそのような反感を抱いてしまい、心の矮小さに嫌になる。将来ヤバいジジイになる前に死にたい。
はっきり言って誰がどう生きようがどうだっていいので、みんな好きに生きていけたらいい。思想としてそれを押しつけるのはやめてくれ、と思うだけだ。
私はみんなに興味がない。みんなが私に興味がないように。でもみんなが幸せになればいいとは思ってる。どうでもいいなりに。
なんだろう。
人って価値がなきゃいけないのかな。価値を見出さなきゃいけないのかな。有用じゃなきゃいけないのかな。
疲れるよほんと。
空って、青だったり夕焼けだったり雨だったり夜だったり、雲が浮いてたり、雲が浮いてなかったり、自由じゃん。そこに定まった価値はなくて、ただ人間によって「晴れた空はいいなぁ」と思われてるだけだし、乾期には「雨降れ」と逆に晴れを忌まれて、雨が降り続けたらまた晴れを望まれるように価値は定まっていない。結果、空は空としてあるだけでそこに評価はなく、人間の猥雑でチャチな尺度では測りようもないのだ。
なんかそうありたいな。うまく言葉にできないけどさ。
「価値」がなきゃいけないという雰囲気がなんとなくある気がしていて、それがわざわざ多様性を叫ばなければいけない世界にも繋がっている。本来個人のあり方はどうあろうが認められて然るべきなのに。
病んでるみたいだけど病んでなくて(病むって言葉も軽薄で嫌いな言葉だ)、ただなんとなく最近考えてる自分の生きづらさというか、この息が詰まる感じはなんだろうって考えたことを書いた。
日曜の夜はビールを飲みながらカレーを作って、シュウマイを作って、鯛の刺身を切った。午前中には掃除機をかけ、便器を磨き、洗濯物を協力して干した。よく働いて満足だ。
恋人は美味しいと言ってシュウマイを食べてくれた。鯛も安くて腐りかけていただけに熟成しているようで旨味があった。鯛は好きだ。自分の身も鯛みたいな味だったらいいと思う。いつか恋人に食べてもらう日に美味しく食べてほしいから。
「あなたは物凄い灰汁が出て最後は茶渋みたいな搾りカスしか残らなそう」
たしかに。
なにもしたくない時間がだらりと肉みたいに垂れ下がっている。日曜の真夜中。