蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

バターを入れるためのケース

ターを入れるためのケースを欲しいと常々思っている。

一週間に8回は「欲しいなぁ」と思っている。

 

そもそも「バターを入れるためのケース」が存在していることが私は好きだ。

どこかの誰かが、あるいは同時発生的にさまざまな場所で多くの人が「バターを入れる専用ケースがあったらいいよな」と思った結果、なんらかの力が働いてこの世にバター・ケースが誕生したのである。

人間が考えることはいずれ実現可能だ、という格言を思い出す。動き出せれば夢は実現するのかもしれない。勇気を貰える。

 

我が家ではバターを買ったときのまま銀紙に包んで保存しているのだが、あの銀紙は使用するうちにぐずぐずに崩れて、破け、時には破片が混入することもあり、きわめて煩わしい状況に陥ることが100%確約されている。100%、間違いない。

このせいでバターを使うのをためらうことすらある。

食パンにジャムを塗るにしても、先にバターを乗せて焼いておいた方が甘じょっぱくなって美味しくなるのだが、バターの銀紙と格闘するのが平日の朝には重労働に思えて「もうええわ」と小さな豊かさを放棄し、無感動なジャムパンを胃に詰め込む最低限度の生活にあまんじてしまうのだ。バターを塗ったら美味しいんだけどな、と思いながらパンを飲みこむのだ。

レーズンパンや あずきパンもバターを乗せた方が7倍美味しくなる。

しかしその美味しさを放棄して、私はバターを乗せられない。

なぜなら、あの銀紙が煩わしいから。

人はこうして堕ちていくのだろう。

 

ぼろぼろになった銀紙を外し、新たにアルミホイルで包んでみると、これまた不思議なことにアルミホイルの方が破けやすくてまったく使い物にならない。

まだ銀紙で──ボロボロの銀紙で包んでいた方がマシなのだ。

タッパーに入れるにも大きさが合わず使いにくそうだし、バターサイズのタッパーを買うくらいならガラス製のバター・ケースを買った方が精神衛生上よろしいと思われる。

 

でも正直、バター・ケースって無くてもなんとかなるんだよね。そういう心の声が聞こえる。

そう、バター・ケースは必需品ではなく、地味だがあくまで「便利グッズ」なのだ。生活に余裕のある家庭が、戯れに買うものなのだ。洗濯機や包丁や靴とは違い、無くても大丈夫なものだ。

 

しかし、それがどうした。

 

私は今年中にバター・ケースを買うだろう。

なぜなら私は人生を豊かに過ごすために生きているのだから。

銀紙の煩わしさを消し、容易にバターを使用できる生活は──ジャムパンにバターを塗って食べる生活は──豊かな人生の第一歩だと思う。