蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

料理ができないのではなく、やったことがないだけだ。

 理する小説書きたいな……と思い続けて半年、全然書けないでいるのは、構想が雑然としていてまとまりがないのと、私が料理に造詣が浅いためまったく想像できないからである。

 家庭科の授業でピラフを作ったり、カステラを焼いたりしたことはあるが、さて、今作れるかと言われると、作れるわけがない。ピラフが「炊くチャーハン」であることしかわからない。その認識だって正しいのか不明だ。

 

 料理をする人は、外食したときに「これどうやって作るんだろう……このソースは作れそうだけど」などと不可解なことを言う。母や恋人がたまにそうである。「家でも作れそう」などと言う。

 私はぜんぜん料理をしないので、まったくわからない。どうやって作るのだろう、という思考がない。炒めたらできるのではないか、くらいしか乏しい経験では浮かび上がってこない。

 カレーだってどうやって作るのかよくわかってないくらいなのだ。煮込むのだろうか?ルウは何粒入れるのだろうか?カレーが作れればシチューとハヤシライスも作れるのだろうか?

 

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 こんな私だが、一時期実家に嫌気が差して独り暮らしをしていたことがあり、自炊を行っていた。

 米を炊き、味噌汁を作り、一品ではあるが、おかずをこしらえていた。

 米はボタンを押せば炊けるし、味噌汁はお湯を注げばいい。おかずは、大抵なんらかの肉をモヤシなどと炒める、魚の切り身をフライパンで焼く、冷凍食品を使う、などであった。

 こんな向上心のない料理では料理スキルが上がるはずもなく、24歳になろうかという歳になっても卵すらうまく割れない。あんなもの、破壊せずに綺麗に割る方が難しい。

 

 料理、できるようになりてぇ~~~~。

 

 格好良いじゃないですか。料理ができる男って。「簡単なもので申し訳ないけど」と言いつつ、ちょっと凝った料理をさっと作って客人をもてなしたい。

 そう、料理向上のひとつの要因となるのが、「誰に作るか」である。

 自分自身のために作っても、スキルは向上するとは思えない。なぜなら、どんなに上手に作ったって、独りで食べるとぜんぜん美味しくないからだ。やはり大切な人と食べてこそ、食事は美味しくなる。

 自分一人で食べるなら料理なんてする必要がない。食事面で節約するのはそうとうやりくり上手じゃないとできないし、やりくり上手とは料理上手とニアリー・イコールであるがゆえに、料理をしない人には不可能である。食材を無駄にするだけだ。農家に謝れ。

 食べてくれた人が「美味しい」と言ってくれたら料理を頑張ろうと思えるだろうし、一緒に作ったら楽しいだろうな。

 

 なんか、書いていたら作りたくなってきた。

 

 今から作るので、ちょっと見ていてください。

 

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 卵なんてなんだっていい。鶏卵であることだけがここでは重要視される。

 それをボウルで白身がなくなるまでかき混ぜたら、塩とコショウを振る。それだってなんだっていい。塩とコショウであることだけが重要なのだ。

 次に白身魚の切り身をフライパンで炒めるのだが、この白身魚オヒョウに限る。それ以外の魚は許されない。オヒョウはスーパーではときどき「ヒラメ」と名を変えて陳列されているので、ヒラメを買えばいい。脂がのっているものが最適である。

 魚に塩を振って片栗粉をまぶすのだが、このときジップロックに片栗粉を入れてその中で切り身にまぶすとまんべんなくまぶされるし片付けも楽なのでおススメだ。

 そうしたら冷蔵庫に入れて、少しの時間寝かせよう。

 シエスタ(午睡)をとらせることで魚の筋肉がほぐれてあとで焼いたときにホロホロとした舌触りになるのだ。ここで言う「少しの時間」とは、恋人とカフェに入り、熱々のコーヒーが冷めてしまうまで愛を語り合うくらいの時間である。

 寝かせている間に、ソースの準備をする。バジル、バルサミコビーンズペースト。バ行の食材は大抵異国の味がするもので、そうでない料理は馬刺しくらいのものである。このソースの材料でわかることは、これが和食ではないくらいのことか。自分でも何を作っているのかわからないのだ。

 湯を沸かしておこう、小さい鍋で良い。あとでマカロニにも使うので、塩を入れておくと効率的だ。

 バルサミコとペーストを混ぜたら、沸騰した湯にバジルをさっとくぐらせて、料理ばさみで刻み、ソースに混ぜる。そのときの香りはきっと、いつかの時代を思い出して泣きたくなるはずだ。

 そしてマカロニを湯に投入する。これは経験があるのだけど、マカロニは見た目以上に膨らむので「まだ食えるな」と思って必要以上に投入するとあとで大変なことになるから、抑制が必要である。本日の料理の場合は、一掴みで充分だろう。

 マカロニが茹で上がったら、ざるに出して、冷水でしめる。意外に思うかもしれないが、こうした方が小麦粉の香りがより立ち上るのだ。後悔はさせない。自分で責任を取ってもらうから。

 冷蔵庫で寝かせていた魚の切り身ももう良いころだろう。どんな愛の話だって冷蔵庫の中で語り合えばすぐに冷めるから、心配いらない。もう良い時間だ。

 フライパンに多めのバターを敷いて、半分揚げるようなイメージで切り身を焼こう。このとき片栗粉の色合いの変化が焼き具合の頃合いを教えてくれるので、注視する。

 その色が秋めいてきたらすぐに皿に移し、さきほどのソースを半身にかけ、マカロニを添えたら、完成である。

 

 この料理に名前はまだない。

 文章で、無意識を利用して、想像だけでテキトーに作り上げたからである。

 だれか実際に作ってみてはくれないか。

 

 ぜひお試しあれ。

 

 

 

 

 

 読み返して気付いたのだが、冒頭で混ぜた卵のことをすっかり忘れていた。