蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

音楽は内臓で聴け

楽は爆音で聴くべきである。

聴く、というか、それはもう、体験、である。

内臓で音圧を感じるべきである。

 

イヤホンして聴く場合、音漏れには充分配慮しつつも、周囲の音がほとんど耳に入らなくなるくらいとにかくデカい音で、耳に入ってくる凄まじい熱風以外なにも考えられなくなるくらい大音量で聴いた方が楽しい。

「そんなの耳にして歩いてたら危険でしょ。それに耳を悪くするよ」

正論だ。

でも、ははは、笑っちゃったんだけどさ、正論だから、なに?

正論であることとこれは関係ない。おれは今、音楽は爆音で聴くべきだと言っている。それだけだよ。お前にはわかるまい。お前がなにを言ってんのか聞こえねぇよ。こちとら爆音で ゆら帝聴いてっから。

 

なぜ大音量がいいかというとこれ単純で、楽しいから、これである。

ここには論理的な説明もないし、論拠もない。

ただデケー音で聴いた方が圧倒的に楽しいのである。音の原初的なおもしろさがあるのだ。

音楽は内臓で聴け。頭でわかるな。感じろ。

 

イヤホン、もちろん素晴らしい発明だけど、どうしてもやっぱイヤホンで聴いてると、肉体で聴いてる感じがしないんだよね。

イヤホンじゃ音圧で内臓は揺れなくて、鼓膜の揺れと脳みそだけで聴いてるもんだから、なんていうか音の情報をインプットしているような気分になる。それはそれでまぁいいのだけど、音楽の楽しいところを十二分に楽しめているかと言われると頷きかねる。

じっくり聴ける良さももちろんある。イヤホンが悪いわけではないのだ。

全身に音を浴びる音楽とイヤホンの耳の中だけで済ませる音楽は、感じ方がまったく異なる。

全身で浴びる音楽は体の底から、脊髄の網目の隙間の脂の組織の底から、「わかる」感じがするものだ。

イヤホンの中で完結する音楽は、頭の中で音を咀嚼して解体し再構築するようで、「理解する」感じ方になる。だから歌詞をじっくり聴きたいときはイヤホンの方がいいかもしれない。

「わかる」と「理解する」は同じようで質がまったく異なる。

 

家の壁が薄くて大音量で音楽を流さないというそこのあなた。

正しい。

近所迷惑は避けるべきだ。私の家も壁が薄く隣の部屋の体温まで伝わってきちゃうくらいなもんだから、音量を「6」以上にはあげられない。

悲しい。

でも私は社会人として周囲のことを考えて行動できるいっぱしの大人である。独りよがりに爆音で住宅街を揺さぶったりなんてしない。音楽が「害」であってはならない。

だからそういう偉い私たちは、音量を絞るかわりに、ベースだけ出力を上げよう。

すると音が小さくても音圧が上がって臓物に響くようになる。

ひとまずこれで納得しとこう。えらいから。

 

将来的には防音設備のシアタールームのある家に住んで、もちろん素晴らしいオーディオを設置して、ライブ映像を楽しんだり、レコードやハイレゾやふつうにCDとかとにかく好きな音楽を流して悦に入りたい。

レコードで聴くユーミン大瀧詠一はほんとうにすごいんだぜ。

そんな生活ができるようになったらみんなにも聴かせてあげる。