蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

回転寿司を「浴びる」

曜の夜、仕事終わりに彼女と待ち合わせて回転寿司へ行った。

着席後、とりあえずビールを注文し、目の前を流れてきた「つぶ貝」を手に取る。たまたま目の前を流れてきたのが「つぶ貝」だっただけで、絶対に一皿目は「つぶ貝」がいい!なんてこだわりはなく、しめ鯖でもいいし、サーモンでもいい。ビールのアテになるのならシーザーサラダでもよかったのだ。その日は「つぶ貝」だった。それだけのことだ。

それにしても「とりあえずビールを注文」というのが、今書いてても気持ちが良かった。

ビールっていまだになにがどう美味しいのか説明できないし、苦いし、お腹も膨れるし、結構最悪な部類の飲み物なのだけど、これ以上に美味しい飲み物は無いね。断言できる。不思議だけど、この感覚はまったく矛盾していないと思う。

なんていうか、自由の象徴なのかもしれない。ビールは「解放宣言」なのかもしれない。

仕事終わりの汗ばんだ体をキンキンに冷えたビールが通り抜ける素晴らしさ、それだけで一週間が救われる。

労働解放宣言。Beer of holidays , by holidays , for holidays.

「つぶ貝」に続いて「炙りえんがわ」を取る。

回転寿司は目の前を流れてきたものを随意に取れるというのが素晴らしい。なにも考えなくていい。食べたいものが流れてきたら取る。それだけ。

これって、たとえば森の中でたわわに実った桃をもぎ採るのと同じように、私たちはコンベアに流れる寿司を「収穫」してるんですね。

採れたての桃をその場で剥いて齧る。乾いた喉に果汁が染み込む。コンベアで取ったばかりの寿司を頬張る。「炙りえんがわ」の脂が五臓六腑に染みわたる。

楽しさ、みたいな観点ではまったく同価値の事象が、森と回転寿司では起こっている。

 

コンベアを流れてこない場合は普通に注文する。いくつかのネタと「わさび巻」を頼んだ。

私は「わさび巻」が大好きだ。

これは食事というよりも一種のアトラクションで、刺身のネタに飽きたらガリと共に口に放り込むのだ。

醤油をチョンと付け、口に入れるとその直後から辛味とは言いがたい「痛み」に襲われるので、急いで咀嚼して急いで飲み込み、お茶をひと口啜る。このときは絶対にお茶の方が良い。わさび巻はお茶が合う。

すると痛みは嘘のように消え、鼻のあたりには爽快感が漂う。敏感にエアコンの風を感じる。なにか一仕事終えたような達成感もある。

彼女にも一個あげたら鼻と目をかっぴらいて、なんか顔を全体的に3倍くらいの大きさにして悶絶していた。人が食べているさまを見るのも面白いのでいよいよエンタメじみてくる。

ただ、わさび巻って6個もついてくるから多くて。

本当は3個でいい。

正味、わさび巻でお腹いっぱいにはなりたくないんだよな。

 

その後、まぐろ、サーモン、あなご、ほたて、たまご、真鯛かつお、などなど楽しんだ。寿司ってすぐにお腹いっぱいになるから良くない。酢飯だから意外と味が濃くてね。

先日、寿司で刺身だけ食べてシャリを残す人が炎上していたけど、ちょっと気持ちはわからないでもない。

でもさ、シャリ食わずして寿司にはならねぇんだよな。そんなら刺身最初から食っとけって話。

シメにうどんを啜ってこの日はあがり。うどんは蛇足だったかもしれないけど、「寿司屋でうどんを食べる」楽しさを優先してしまった。ここが回転寿司のいいところだ。

 

回転寿司は楽しむものだ。

そもそも寿司がコンベア移動している時点で面白いのであって、そのコンセプト自体に「楽しんでよ」という魂胆が見えている。よって私たち消費者は回転寿司ではなによりも「楽しむ」必要があるわけだ。

大衆諸君が大わらわになって、子どもが騒ぎ、店員が手足を8本にして忙しく立ち回っているこの状況を受け入れて、寿司を食べ、味を楽しんで、気持ちよくなるのが目的なのだ。

落ち着いた雰囲気がいい人は高級寿司にでも行けばいい。金が無いならスーパーで買えばいい。テイクアウトすればいい。

回転寿司に来てやれ落ち着かないだの高級寿司に比べて味が劣るだの小汚いだの文句を言う人は、川に釣り糸を垂らしてマグロが釣れないと腹を立てるくらいお門違いだ。

カタカタ動くコンベア、流れていく寿司、びかびか光る店内照明、効きすぎのエアコン、冷えたビール、熱すぎるお茶、ちょっと色の悪いマグロ、ツナ軍艦、プリンアラモード、泣いてる子ども、注意する父親、居心地の悪そうな老夫婦、そのすべてを受け入れて、自分もその一部になってから初めて回転寿司の楽しさははじまる。

こうなるともう回転寿司は「食べる」じゃなくて「浴びる」と言った方がニュアンスが通る。