蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

この世のすべては特別でできている

勤電車の窓から、川沿いのコンクリートの土手に、黄色い花の群れが見えた。

美しい。

それ以上でもそれ以下でもなく、そこに花があるという当たり前の景色が特別に見え、なにかこの世は奇跡の連続で連なっているのではないかと寒気がしてきて、わけもなくあたりを見回してしまった。それは寒気ではなくて「気づき」の鳥肌だった。

同じ車両に乗り合わせた人々。

規則正しく揺れる吊り革。

陽光。

速度。

なにもかもが特別だ。

私たちは奇跡の連続を次第に当たり前と思うようになり、味のしないガムみたいな景色になにも思わなくなり、奇跡から特別を奪っていく。赤ちゃんや子どもの頃はなにもかもが新鮮で驚きに満ち、時計の秒針や10円玉のデザインさえも、いつまでも飽きないものに感じられたのに。

やさしさに包まれたなら」の歌詞で「すべてのことがメッセージ」と歌っているのはそういうことだ。子どもの頃、何もかもが新しく新鮮で、世界が自分を中心に回っているかのように思えた頃、すべての物事は特別だった。

だから逆説的に、なにもかもが慣れた存在になった今、すべてのものが「最後」だと思うと、途端にその存在の不思議なほどの美しさに目が行くようになる。

遠い旅先でこの場所に二度と来れないだろうと悟ったときの、旅の終りに見た景色や街の灯りが特別なものに見えるのと同じことだ。

その意識を持つことで、家の前のなんてことのない電信柱さえも貴重な愛しい建造物に見えてくるし、犬の小便くさい雑草の花の中にすらも詩に歌いたくなる可愛らしさを見いだせる。

毎日を新鮮に、そして大切に過ごすコツは、「もうすぐ死ぬ」と思うことだ。

もうすぐ、と漠然な期間ではなく、次の誕生日までに死ぬ、くらいのスパンで考えよう。だいたい1年くらいがいいと思う。一か月では短すぎて愛おしむ余裕がないし、10年では長すぎて現実味がない。

 

私は最近、この考えを導入してから、調子が良くなった。

これまで何とも思っていなかったものに目を向けられるようになり、嫌いな雨や冷たい風もなにか尊い恵みのように思えている。

ネックなのは、ほんとうにあと1年で死ぬような気がしてくることだ。