蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

魂という現象

というものが実際に「ある」ものと仮定したときに納得ができないのは、それに「重さ」が存在しないという点だ。

だから重さ──質量という観点で考えると、魂というものは「存在しない」ということになる。

だが、世の中の奇妙な話や、一般的に信じられている慣習の中には、魂の存在無くしては理解ができないものや整理のつかない物事がある。

あるいはもしかして、そういったものにとりあえず「魂」という名前をつけているだけなのかもしれない。

 

宮沢賢治の『春と修羅』序文は次の言葉で始まる。

 

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 

これを読んだときにふとひらめいた。

魂とは「物体」ではなく、「現象」なのかもしれない。

美しい景色を見たときや、寂しい人に接したときや、猫を抱きしめたときや、冷たい川に足を浸したときや、そのほかのすべての物事に自分が関わったときに脳が電気信号を発して感情が起こるというその現象こそが、魂なのかもしれない。

魂も心も、電気信号のゆらぎという現象。

たしかに「現象」は「ある」けれど、質量は「ない」。

 

私たちはその電気信号的現象を五感のセンサーでキャッチして、現象とその結果を客観的判断でもって「魂」だと認定しているだけなのだ。

たぶん、高精度なロボットが微細な電気信号を放って人間らしい感情を発露したら、そのロボットには魂がある、と私たちは断ずるだろう。それがプログラムされた単なる信号であろうとも。

 

この事実が悲しいことなのかどうかはよくわからない。

魂を現象だと仮定すると、肉体の停止と魂の「消滅」はイコールになってしまう。だから、天国なんて存在しないことになる。魂は行き着く先を持たないのだ。

天国がないとなると、いくつか困ることも出てくる。たとえば、生きる気力がいつも以上に失われてしまう。死ぬ意味もないので生きる意味もない。

まったくだ。

でもこの場合、いいニュースもある。

私も含めて多くの人が死後に強制送還される地獄もまた、存在しないことになるのだ。