七夕は妻の誕生日だ。
誕生日だから一応ケーキを買って帰る。
それにしても毎年思うのだが、このケーキという食べ物は、豪華なくせしてじつに脆くできている。一度も挫折をしたことのない令嬢のように、繊細にできている。
ぐしゃぐしゃになったケーキは悲しい。
黒い影の伸びる黄昏れ時、母親が見せる「女」の顔、きつい労働を強いられる老人、嘘ばかりつく子ども、かつては賑わいを見せていたショッピングモールに入っているセンスが一昔前の服屋。そういった、悲しくつらいものと同列に並ぶのが「ぐしゃぐしゃになったケーキ」である。
それは実に象徴的な不幸だ。ケーキという食べ物は幸福の象徴であるにもかかわらず。
ケーキは安全に運搬しなければならないが、満員の山手線でケーキを運ぶのは至難だ。
そんなことを思いながらケーキ屋に並んだ。意外にもたくさんの人が並んでいて、私と同じような仕事終わりに、家族のために立ち寄った男性客も目立った。
みんなこれから、安全な運搬をして帰るのだ。
その光景が、その愛が、想像するとむしょうに愛おしい。
できるだけ手を振らないように、地面と水平を保つことを意識して、重心をケーキ側に傾けて移動する。
電車内では出入口付近にいたほうがいいように思えるが、実はちがう。吊り革を掴める中程に移動したほうがいい。運が良ければ座れるかもしれない。優先席に「ケーキを持っている人」のピクトグラムも追加すべきだ。
無事に座れて、最寄駅を目指す。
今日は帰ったら肉を焼いて、ケーキを食べて、酒を飲んで、いつもと同じような話をする。仕事の愚痴とか、おもしろかったこととか、最近読んだ本の話とか、そんなことを。
ケーキは2つ買った。2つとも、妻の分だ。
私はケーキが実のところそんなに好きでもないので、紅茶でも啜りながら2つのケーキを頬張る妻を見ていたい。
妻はきっと喜ぶだろう。
私もきっと楽しいだろう。
すべては、安全な運搬の末に。