蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

それって愛じゃんね

は聴覚の記憶から失っていくものらしい。

だから人の顔や匂いなんかは何年経っても思い出せるものだけど、人の声ってどんなだったか思い出せなかったりする。数日なら思い出せても数年経ったらどうだろう。前の職場の人、高校の担任、中学の同級生……覚えてはいるだろうけどちゃんと思い出せているのかどうか、よくわからない。

これは忘れているのではなく、うまく思い出せない類のものだと思う。聞けばわかるし納得もできるけど、自分の中からうまく出力できない記憶なのだろう。覚えている。忘れているわけではない。思い出せない、という言葉も芯を食ってない。この状態を表す言葉はまだない。

 

人が亡くなったら、まずその人の声を忘れてしまうみたいだ。

10年くらい前に亡くなった祖父の声を思い出そうとしても、記憶に鍵がかかったみたいに、取り出せない。片鱗を思い出せても、姿や体温に比べたら曖昧模糊としている。

もしも妻が亡くなったら、あの声を忘れてしまうのだろうか?それはひどく寂しくつらいことだ。

今、妻の声を思い出してみる。

妻が私の名前を呼ぶ。

さすがに毎日会話をしているから頭の中ですんなり再生できる。

こうやって毎日練習しておいたほうがいいかもしれない。私は妻より長生きをする方針で生きているのだ。

 

妻の声を思い出そうとしたときに頭の中の妻が言葉にしたのは、私の名前だった。私が妻の声として記憶しているのは、私を呼ぶ声だったのだ。

無意識だったから、あとになってそのことがじんわりと嬉しくなった。

私は妻に名前を呼んでもらえているのだ。無意識に思い出せるほど、たくさん。

それに気づいたらじんわりと、嬉しかった。

 

妻に、私の声を思い出してみてほしい、と聞いてみた。そして頭の中の私は妻になんと言ったのか。

「気をつけてね、いってらっしゃい。だな〜」

私はあまり妻の名前を呼んでいなくて、日々さまざまな「あだ名」で呼んでいるためにそうなったと考えられる。

毎朝、私より先に家を出る妻を玄関で送っている。朝に限らず、ちょっとどこかへ出かけるときも必ず玄関で送る。

「いってらっしゃい」は私なりの祈りなのだ。