信号待ちをしていたら、向こう側にジャイアンツのTシャツを着ている人がいて、今日は試合でもあるのかな、なんて思ったときにふと、ジャイアンツのTシャツ以外は目に入っていないことに気づいた。
いや、それは当たり前だろうが、と皆さん思われることだろう。
それは、たしかに当たり前のことだ。だってジャイアンツのTシャツに注目して見ているのだから、それ以外が見えていなくて当然だ。
私もそのときまで、こんなこと当然だから、疑って考えすらもしなかった。
でもそのときは、私は自分の目をたまたま疑ったのだ。
ジャイアンツTシャツを見ている。それに「注目」している。それだけが見えている。でも目の端というか、視界の端というか、視界にはもちろんジャイアンツのTシャツ以外のものも入っているわけで、なんとなくそれらを認識しているわけで、富良野は寒いわけで。
視界の端に映る居酒屋の看板に書かれた文字を、ジャイアンツTシャツから目を逸らさずに読んでみる。ギリギリ、認識できている。
ではさらに、その居酒屋から意識を逸らさずに、その3つとなりの看板の文字は読めるだろうか……。
これが結構難しい。そうなってくると、もはやジャイアンツのTシャツに視点は合っていても、意識が向いていないからTシャツは「見えていない」状態になる。
つまり、「注目していない」=意識の向いていない他の部分については、見えているけど見えていない状態になっているのだ。
27年生きてきて、今更そんなことに気づいた。
ほほう、これが「注目」というやつか、と思った。私が今まで見えていると思っていたものはほとんど見えていなかったのだ。
ここまで書いてきて読み返して見たけど、なんだか伝えたいことがうまく伝わっていない気がする。なぜなら、書いてあることが「当然」のことだから。
見えていなかったのだ!って喜んで書いてるのが馬鹿みたいだ。
この発見の不気味さを伝えたいけどうまく伝えられない。悔しい。「伝える技術」みたいな本を買って勉強すべきかもしれない。私が太宰だったらここで筆を折ってる。
さて、ほんとうに怖くなったのはこのあとからだ。
横断歩道を渡った私は、ジャイアンツファンを尻目に、なんとなく前のほうを見ていて、視界の端に映るビルの窓の中を認識しようとした。
これが、できない。
さっきから「注目している場合」の話をしているけど、べつに「注目」してなくても、周りのものって見えていないのではないか?と気づいた。
「注目」していない場合でも、周りのものなんて見えていない。
エアコンでも電球でもいいので、対象をひとつ決めて見てみてください。「注目」というほど注視しなくて大丈夫。いつも通り、ああ、見てるな、って感じでなんとなく見てください。
どうだろうか?
その対象以外の周りの風景って、もちろん見えてはいるだろうけど、かなりぼんやりしていないだろうか?
エアコンの中心部を見たときでさえ、その中心から目を逸らさずに、隅の方にある電源ランプに書かれた文字をはっきり読むのはやや難しい。
こうなってくると「注目」ってなんだ?ということになる。視点に意識がある状態を注目というのなら、私たちは常に「注目」していることになるのか?
いや、それはないだろう。ただ視点がなんとなく定まっている、そんなときのほうが多いはずだ。
じゃあそのとき、私たちは何を見ているのだろう?
いや、何が「見えている」のだろう?もしかしたら、なににも注目していないとき、私たちはなにひとつとして、見えていないのかもしれない。
私たちの目って、かなり狭い。
ほとんど点みたいな範囲しかちゃんと視覚で認識できていない。それ以外のなんとなく見えている部分は、自分の想像で補っているのかとすら思えるほどに。
もしかしたら大人になるにつれてその想像力が発達し、周囲まで視界を巡らせる必要がなくなり、私たちは盲目的になっていくのかもしれない。だから慣れた場所だとキョロキョロしなくなるのか?(それはこじつけか?)
私たちが「注目」できる範囲なんてたかが知れていて、瞬間的には物事の側面の、しかも点しか見えなくて当然だ。しかも歳をとるにつれて、そのひとつの点すらもちゃんと見なくなっていく。
私たちは総じて目が悪い。