蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

僕の宗教になってください

の近所の坂の上に、小さな白い教会がある。

慎ましく荘厳さはないものの、直方体の塔の壁は白く格式があって、十字架が硬く堂々と屹立している。住宅街にうまく融け込んで、とても古そうなのだけど清らかさを感じさせる、静かな教会だ。

 

門に「今週のありがたいお言葉」みたいな格言が張り出されていて、毎朝私に戒めを与えてくださる。

「くちびるの皮をむくな」とか「ごぼうは水に浸けておく」とか「Wi-Fiの無いところでは動画を見ないようにする」などといったくだらないことではなく、たとえば「自分を愛せない者に他人を愛することはできない」とか「愛は分かち合うものではなくわかり合うものだ」とか「祈りは第一の動作であり心である」などの、なにやら有難く含蓄のある言葉である。

言葉、というか、お言葉、である。

 

日曜日に教会の前を通ると、ミサが開かれていたのだろう、スーツを着た人やサンダルにラフな格好をした人、老婆に子ども、さまざまな人々が集まり、談笑をしたりお菓子を配ったりしている。

その光景は、なんというか、その教会の壁のように白く清らかで、いつまでもお日様がやわらかい、陽だまりのような光景なのだ。

豊かさではなくて、尊さと慈しみの心がその陽だまりに丸く浮かんでいる。

あの人たちのためと、私のようなそうでない人たちのために、私も祈りたいとすらおもう。

 

   ↓

 

さいきん、宗教をもつ人が羨ましい。

教祖になってお布施でいい感じに暮らしたい願望もあるのだが、それはそれとして、信仰できる圧倒的なものを知っている人のことが羨ましい。

 

子どものとき、親って神様みたいなものだった。良くも悪くも。

親というか大人全般だ。

大人の言うことに従っておけばよかったし、大人の考えが世界を回していたし、私はその世界に組み込まれた砂のひとつぶにすぎなかった。すくわれることもあれば捨てられることもあったし、相手にされないこともあった。

良くも悪くも大人は神さまだった。

大人の言うことがすべてだった。

 

今、大人になってみると、あのころの大人を信頼しきっていたころが懐かしく、羨ましくなる。

大人になるって楽しいことだし、ぜひすべての人間が大人になって大人を楽しんでほしいものだけど、大人は大変だ。自分で決められる代わりに、自分で決めなければならない苦しみがある。

誰かに従っていれば自分は正しかったという、子どもの頃の生来的な免罪符は、大人になると効果が薄れて失われていく。

 

そうなった今、宗教をもって、絶大なものに我が身を任せて、祈りを捧げてみたいとおもう。

有無を言わさぬ圧倒的なものに頭を下げて、楽になりたいと、少しおもう。

迷わない人生は楽だろうけど、宗教があれば、迷いがまた道になる。

信じられる絶大なものが心のよりどころとしてあるだけで、どれだけありがたいだろう。

 

なんとなく時代も、そういった絶大なものを求めているような気がする。

 

   ↓

 

恋人は宗教ではない。神でもない。同じ人間で、一緒に迷ってくれる羊だ。

 

   ↓

 

誰かのために祈りたいとおもう。

そうして自分が赦されたいと考えている卑怯なことを、とりあえずここに告白する。