蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

向かい合って座るタイプのカウンター

京駅には星の数ほどの飲食店が入っている。

改札外に飲食店街があるというのはまぁわかるんだけど、東京駅は改札内にも無数の飯屋が軒を連ねており、しかもどこも混雑している。ちょっとした居酒屋みたいなものやオイスターバーなどもあって、さすが天下の大都市といった様相だ。

日本人のみならず、中国人や韓国人、その他アジア系から白人黒人など自由自在に跋扈(ばっこ)しており、国際都市とはこういうことかと突きつけられる光景が広がっている。

店が無数にあるとはいえ、そこはやはり改札内。ゆったりとくつろぐような店構えではなく、どの店も駅蕎麦の少し穏やかなバージョンになったようなもので、暖簾のゆらめきは忙しない。

いかに人の数をさばくか、効率よく回すか、長居をさせないか、という意図のある店舗設計が随所に見られる。

カウンター席が多くて、場合によっては牛丼屋のように、カウンターがコの字形になっていて、カウンターの向かいの席の人と顔を突き合わせることもある。これが、人見知りな私としては、ツラい。

どうして知らん人の顔を見ながら飯を喰らわないかんのか。『人間失格』で主人公がみんなでご飯を食べるのが嫌だ、などと言っていたシーンがあったかと思うが、それに近いような居心地の悪さを感じる。

自分が目の前の人の顔や食べ方やお茶の啜り方を見ているように、私も誰かに見られている。

そう思うとおちおち漬物も噛めない。ぽそぽそと米粒を拾っては、小さい口で後ろめたく飲み込む。そんな食べ方になってしまう。

誰かに見られているかもしれない──。

 

だが、これはとんだ自意識過剰であることがわかった。

店内を観察していて気付いた。

ほとんど全員が伏目がちに食事をしているではないか。

よくよく考えてみれば当然のことで、私が人の食事風景を見ていたくないように、人だって私の食事を見たいわけがないのだ。目が合えば気まずいし、なんていうか、食事風景というのは、時としてセンシティブなことすらもある。誰が好んで見たいだろう。

つまり、私が自意識過剰になる必要はどこにもない。誰も私のことなんて見ていないのだ。

むしろ私こそ、人間観察をやめるべきだ。私がこんな性格で、人間観察なんてしているから、みんなが私のことを観察しているなんて思い込み、自意識過剰になって漬物を音を漏らさずに奥歯で擦り潰して食べる、気味の悪い草食獣みたいになってしまっているのだ。

敵は己の中にいる。

私は私自身から解放しよう。

 

食べ終わってすぐ、カウンターの居心地の悪さに、あまり長居はしたくないな、と思った。こういった形態のカウンター席には居心地の良さよりもむしろ悪さが付与されている。

知らん人同士を向かい合わせることで居心地を悪くさせ、客席の回転効率を上げているのだろう。

行動心理学を利用した高度な設計だ。

 

店の思惑どおり、そのまますぐに退店し、私はこの街からも、みんなの前からも、姿を消した。