蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

夏休みへ突入する男/口笛/その他

 事が終わったと同時に、頭の中に甘い言葉や楽しい言葉、そして喜びの言葉がしっちゃかめっちゃかに湧き出てきて、顔面の恍惚をおさえられなかった。

 

 おれは突入するぞ。ばるんばるん。

 跳ねて回るぞ。ばいんばいん。

 GOGOGOGOGO!!!

 うふぅ~ん♡爆乳でキレる女子高生。

 露わなりぃ~!

 風。おれは、風になる。

 

 そういった、実にわけのわからない想念が渦巻き、私は定時と同時にオフィスを飛び出してエレベータに駆け乗って、エレ兵衛には私一人だったので、がたがた揺らしたり跳ねたりして止めてやろうとした。

 

 なぜこんなに落ち着きがないのか?

 夏バテだろうか?脳炎の類だろうか?

 

 ちがう。

 私はたった今から「夏休み」だからだ。

 

 うちの職場の夏休みはシフト制で、私は新人一年生ということで、どこで夏休みをとるか選ぶ権利などなく、8月の末日より夏休みとなってしまった。

 だが、それがいい

 それでいい。

 だいたい、アホな学生共がうようよしている盆に夏休みを取ってなにが楽しいのだろう。アホが伝染(うつ)るだけだ。宿題ちゃんとやれよバカ。私みたいにはなるな!

 

 職場の人たちは遅めの夏休みをとる私に「いいなぁ」と言っていた。「もう一回夏休みほしい」などと垂れている。

 愉悦。

 圧倒的、愉悦。

 皆さんが残業している中、どうどうとオフィスを後にして9日間の休みに突入する私は、久方ぶりの愉悦、悦楽、絶頂を迎えていた。

 

 そういうわけで、すこぶるテンションが高いのだ。

 

 もう、歩いてるだけで楽しい。

 はじめて歩いた時みたいに、何もかも新鮮で味わい深く、刺激的だった。歩くっていいいなぁ、と無駄にちょっと走ってみたりもした。そんですぐまた歩いた。

 笑顔が止まらない。

 笑顔がそのまま顔面から剥がれ落ちて地面に吸収されたら、その養分を吸い取った付近の植物は一斉に咲き誇り、その蜜を飲んだ虫たちは種類をまたいで交尾し始めそうなほど、ハッピーだった。血吸い(蚊のこと)に刺されたってへっちゃらだった。殺しはしたけども。

 

 口笛を吹きたくなった。口笛とはこういう時に吹くものだ。いつ吹くか?今でしょ。

 林修のようなおちょぼ口を作り、軽快に吹く。吹こうとした。だが。

 吹けなかった。

 なぜか、音が出ないのだ。

「ひゅほーっ、ひゅほーっ」と、結核患者の肺の音みたいな冷たい音しか出ない。

 私は急に、口笛を吹けなくなってしまったのだ。

 ついこの間まで口笛くらい簡単に吹いていたし、私は口笛で「エトピリカ」を吹くのが得意だったのだ。風呂場で吹くとさながらオーケストラのようだったのだ。

 それが急に吹けなくなった。

 なぜか?

 原因は全くわからない。肉体が知らないうちに口笛を吹けないかたちに変貌してしまったのだろうか?

 こんな素晴らしい時に口笛が吹けないでどうする。

 あと口笛を吹く場面といえば可愛い女の子とすれ違ったときくらいだが、これでは女の子とお茶を飲むことすらできないだろう。ひとりで酒をあおるしかない。悲しい。

 

 怖くなった。

 口笛を吹けない、意味が分からなかったからだ。

 これで口の中に出来物があるとか歯がすべて無くなってしまっているなど理由が明確であれば、ああと納得できるのだが、あいにく私は健康体そのもので、若干の寝不足があるくらいのもの、口笛を吹くくらい当然朝飯前のはずでなければならないのだ。

 

 口笛を吹けないだけで、心が下降気味になった。

 夏休みだぞこっちは。無敵なんだぞこっちは。

 あらゆる不幸をものともしないんだぞ……。

 

 

 

 

 

 

 帰りに猫の死骸を見た。

 

 夏休みがはじまる。

 

 

 

面倒が臭い家事を楽にしよう

  がこの政情不安定な時期に韓国へ遊びに行っている(仕事だ)ので、家事は自分でやらなければならない。

 

    大学時代は一人暮らしをしていた時期があったので、当然家事はしていたのだが、社会人になってする家事とはかくも面倒くさいものかと辟易している。

    ただでさえ家事は面倒なのだ。仕事終わりにもう一仕事する気力なんて残っていない。

    朝なんて食事をする気にすらならないので、ましてや洗濯や掃除はやる気にならず、帰宅してからやらねばならない。普段は私が仕事している間に母がしてくれていることだ。

 

    二日間の洗い物がシンクに溜まり、見ているだけで悲しくなってくる。

    洗濯物が洗濯機のかたわらで朽ちていて、心が寒くなってくる。

    食卓の上が汚い。月曜日の朝に食べた ぶどうが ふた粒、滲んだ皿からこぼれてる。ぶどう農家が見たら怒りそうだ。

 

    今や、我が家は怠惰を具現化していた。

    大学生の妹は日夜忙しくしており(遊びで)、火曜の夜にスパゲティを茹でて以降、なにひとつ家事らしきものをしてくれない。正直にわがままを言えば、昼間は自室で寝てばかりいるのだから、洗濯物くらいしてほしい。なにも川に洗いに行けとは言ってない、洗濯機に突っ込んでボタンを押せと言っているのだ。

 

    だけども、私はスパゲティすら茹でず、YouTubeやオモコロばかり見てゲッゲッゲッ、笑っているだけであって、そんな自分が妹に「家事をしろ」と言ってもそれは都合がいい話で説得力は皆無、ここはひとつ見本を示し、兄としての威厳も回復したいところだ。普段は足蹴にされ、私と会話するときは目を逸らされて鼻をつまんでいる妹だ。このままでいいはずがない。

 

    私は遅番から帰宅し、夕食がないのでカップ麺を食べ、22時、溜まった洗い物をして、洗濯をはじめた。

    妹は番組観覧のために外出中である。

    帰ってきたら片付いている部屋を見せて、驚かせるのだ。なんてできた兄だろう。みんなに自慢しよう。そう思わせたい。

 

    ぶどうを片付け、ほったらかしになっていた衣服を畳む。これだけでなにやら満足感がある。

    妹が帰ってきた。23時半。

「おかえり!」

「ただいま」

「ねえ、ちょ」と、私が言おうとしたのを妹は聞こえなかったのか、疲れた顔でスタコラ階段を上がって自室へ篭ってしまった。

 

 

    私は報われない家事をした。

 

 

    現在、深夜1時。

    洗濯乾燥機はまだ回転をやめず、私を寝させてくれない。乾燥が終わったらさっさと衣服を出さないと、しわくちゃになってしまうのだ。

    その待ち時間にこのブログを書いている。

 

    ところで私は日付が変わる前に眠らないと、翌日に疲れを持ち越すタイプなので、さっさと寝なければならない。この1週間、疲れを持ち越しているので、そろそろ大きいニキビができる頃である。

 

 

 

    家事をしてくれる母は偉大だ。

    報われない仕事を毎日やっているのだ。手伝わないならせめて感謝をしたいし、感謝するくらいなら手伝ってやりたい。よく考えたら手伝ってた。毎日風呂を洗っている。でも、それ以上のものが必要だろう。

 

 

    一億総労働時代、『夏への扉』みたいな家事ロボットを早急に作って、女も男もその他も楽できる生活にしたい。

    ロボットという奴隷が必要だ。

    奴隷はいつの時代だって、娼婦と同じくらい需要がある。

    そして、母は奴隷ではない。

夢をコントロールしかけ

 まに夢の中で「あ、これ夢だ」とうすうす勘づくことがある。

 これもしかして夢なんじゃないのか?と明確に思うのではなく、夢の中で選択を迫られる場面があって、夢の展開を自分で決めることができるのだ。

 

 ただ、完全にコントロールできているわけではなく、つーかむしろぜんぜんできてなくて理不尽さが増している。

 こうしたいと思ったことはたいてい無意識下の夢の世界に翻弄されて崩壊してしまう。

 たとえば昨晩は夢にピッコロ大魔王が出てきて魔貫光殺法(まかんこうさっぽう)を連射していたのだが、私はピッコロに「もうやめようこんなこと」と言おうと「思った」。

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 森に向かって連射していたのだが、中には人がいるかもしれないし、動物が死ぬかもしれない。森だって延焼していた。たいへん危険である。

 しかし、私は「注意をしようと思った」にもかかわらず、夢の中で選択を迫られる。「言わなくてもいいんじゃないか」と。

 言わなきゃ駄目である。

 ピッコロに夢の中を蹂躙されては困る。ここは私の深層心理なのだ。

 と、夢の中であるにもかかわらず私は思い、夢の中であるからには自分の好きなようにできるはずなのに、なぜか上手く体が動かない。

 ようやく「やめろよ」と言ったのだが、ピッコロは森を焼き殺すのをやめない。

 

 え?

 

 なんでやめないの?

 おれの夢だよ?

 おれの好きなようにできるんじゃないの?

 

 残念ながら、私は自分の夢をコントロールできないばかりか、自己の無意識に呑まれてどんどんハチャメチャが押し寄せてきてパーティの主役になれないでいる。トラブルと遊んでいるというより、遊ばれている。

 本当は夢を完全にコントロールして、夢の中で恋人を召喚したり、IPPAI OPPAIな夢を見たりしたいのだが、まだそこまでの力は与えられておらず、夢の世界は私が考えたことと逆の方向に展開する。

 

  ↓

 

 また、夢の中でそのメタファーを汲み、「これは昨日のことのメタファーなんだな」と夢の中で夢分析することがある。

 

 二つの島があって、私は西島にいるのだが、東側の島とは一時間の時差がある。目と鼻の先に見えているにもかかわらず、情報の疎通には一時間のラグが発生し、東島から返ってきた信号を受信するとそれは一時間前の世界のことで、私はその一時間後の世界の情報をまた信号で送らねばならず、だけどそれは東島からしたら一時間後の世界の情報だから未来の情報であってまだ認識することはできないため情報共有に齟齬が生じ、終始モヤモヤとしてうまくいかない。

 私はこの夢の中で、東島を眺めながら、「これは仕事の夢だ」と思った。

 私のデスクの前には先輩が座っている。私は自分の分の仕事が終わるとそれを先輩に託すのだが、先輩はたくさん仕事を抱えているためになかなかクローズしてくれない。締め切りが迫っている仕事が山ほどあって、今週は火の車になりそうな私のグループである。

 その不安を反映した夢だ。

 先輩が言うことを一度で理解できたためしはなく、それは完全に能力不足の私のせいなのだが、いつか怒られるんじゃないかという恐怖と共に、まだ新人だし大丈夫だろ、という楽観がある。

 そのモヤモヤを映した夢なんじゃないかと、夢の中で分析した。

 

  ↓

 

 夢をコントロールしてハッピーな眠りにしたい。

 私は不気味だったり憂鬱な夢を見る傾向が多く、幸せな夢なんてほとんど見ない。

 だから、憂鬱の夢をコントロールしてハッピーにしたい。

 IPPAI OPPAIな夢を見たい。

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   そんで、元気になりたい。

 

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youtu.be

家に「絵」が飾ってあるということ~あわいさんの絵と さめほしさんの絵を買った~

  絵を買った。

 複製や贋物ではなく、作者本人から買った本物の「絵」である。

 SNSで活躍する「あわいさん」「さめほしさん」の絵である。知っている人は知っている。当たり前だ。

 都内のギャラリーで個展が開かれ、そこでそれぞれ購入した。決して安い買い物ではなかった。精神的にも気高いものだった。

 

  ↓

 

 以前から、絵が欲しいと思っていた。

 母がかつてイラストレイターだったということもあり、うちは「絵」を大切にする文化があって、母が描いたイラストが数枚額装されて飾ってあるし、私や妹の描いた絵も同じように飾ってある。

 昔隣に住んでいた名前の売れていない画家の絵もある。引っ越していく際に記念に描いてくれた植物画だ。

 絵皿も10枚くらい並ぶように飾られ、昔美術館で購入した複製画も飾ってある。こんなに絵が飾ってある家も珍しいのではないか。

 そういう環境で育ったこともあって、好きな絵を購入し飾るということに抵抗感はなかった。

 

 家に自分の好きな絵を飾るということは素敵なことだと、この度2枚の絵を購入してつくづく思った。といってもまだ飾っていないのだけど。

 好きな画家の絵を自分のものにできるというのは、格別のものがある。

 なにせインターネッツ上や個展でしか見ることのできなかった絵を自分の好きなときに眺めたり見つめたり触ったり舐めたりできるのだ。冗談でもそんなことされたら刺すが。

 インターネッツや個展で衆人の目に晒され多くの「いいね」を貰った絵が自分のものになるというのは特別なことだ。好きなアイドルが家にいるようなものなのだ。

 

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 こちら私の購入した さめほしさんの絵画である。タイトルは「ひきさく」。

 抱きしめた人間が生クリームのように崩れていちごシロップが噴出している。独特な線と色分けが魅力的な画家だ。

 この絵は昨日届いたばかりで、まだ額装もしていない。飾るところも決めていないので厳重に箱にしまってある。来週額装するつもりだ。

 ところで、自分の絵なので、こうやって自分のベッドに配置することも可能なのである。好きなアイドルを自分のベッドに座らせたことありますか?ないだろう。

 私にはそれができる。

 

 さめほしさんの絵は個展で購入できるのだが、抽選となっており、買いますと言ってその場で買い手が決まるわけではない。なんらかの方法(くじびき)によって後日抽選が行われ、当選すると画廊から電話がかかってくる。

 電話がかかってきたときの興奮は、言い表しようがない。それ以上に、家に届いた時の興奮は言い表しようがない。

 現実味がないのだ。

 家に好きなアイドルがやって来て、ベッドに腰掛けていたらどうすることもできないように、私はどこか他人行儀になって、包装を解くときは童貞を卒業した夜を思い出したほどだ。

 

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 こちらは購入した あわいさんの絵である。

 

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 かわいいだろ。おれの絵だぞ。おれの所有物なんだよ。

 

 へっへっへ。

 

 あわいさんの絵は個展のその場で買い手を決める方式だった。

「これ、素敵なのでください」と言ったら「ありがとうございます」と言われ、契約、購入、個展が終了すると家に送られてくる。

 

 最初この絵を見たときに、女の子が「好きなもの」を纏って歩いているのかな、と思ったのだが、よくよく見ると、そうではないかもしれないと思った。

 女の子はいかにも真剣な眼差しで真っすぐを見ている。手には行先を決める棒を持っている。その顔は、「好きなもの」を纏っている割にはあまりに真剣で、なににもとらわれていないようだ。

 もしかしたら、この子は「自分が好きだと思っていたもの」を少しずつ解いて、自分の道を見つけ出そうとしているのではないか。流行や周りの人に勝手に好きだと決められたものから解放されようとしているのではないか。新しい自分を模索している迷いの真剣さなのではないか。そう思った。

 そう考えるくらい見つめていた絵だったので、購入したのだ。

 

 

 どちらの絵も、飾る場所を決めかねてまだ箱に入っている。

 時々取り出してはまじまじと見つめ、悦に入る。まるで懐かしい記憶に浸るように。

 だけど、絵は飾らないと自分のものにはならない。懐かしい記憶を思い出して温かい気持ちになるのと同じものではないのだ。絵はそこにある「現在」だ。

 

 夏休みになったら部屋を片付けて、絵のための場所をちゃんと確保し、自分だけの現在の時間を楽しみたいと思う。

 

 

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シャラップ!モスキート

 ちゃくちゃ蚊に刺される体質だ。体温が高いせいかもしれない。子犬並みの体温だから。

 

  ↓

 

 日曜日は恋人と新宿御苑でピクニックをした。

 木陰にシートを敷き、寝転がったり起き上がったり座ったり立ったりして日曜日の平和な秋のはじまりを堪能したのだが、あいにく私は蚊に刺されてしまった。

 

 そりゃ刺すだろ。8月の木陰だもの。

 

 そう短絡的に考えなさる皆様におかれましてはいかがおすごしでしょうか。夏は終わろうとしています。

 蚊に刺されやすい体質である以上、虫よけスプレーをしていたに決まっているではないか。たわけが。

 私は半袖Tシャツに7分丈のモンペを履いていた。肌の出る所に虫よけスプレーを撒く。特に足は重点的にスプレーを散布し、首にもぬかりはないはずだった。毒ガスを体に吹きまくる私の風下にいた恋人は咳き込み、涙目で睨まれた。美しい目だ。

 

 それなりに重点的にやったつもりだった。

 だが、刺された。

 

 まず刺されたのは耳の後ろだ。耳の後ろまで虫よけをしていなかった私が悪い。耳は蚊の羽音を捉えるため、油断して散布をしなかったのだ。私は難聴を疑った方が良いかもしれない。一夏分も血を吸われてしまい、ぱんぱんに腫れあがってしまった。

 次に刺されたのは手首だ。腕は虫よけスプレーを撒く部位の基本中の基本、スタンダードな部位ではあったが、私が差された手首は、スプレーしたときに腕時計をしていたところであったため、部分的に薬剤が付いていなかったのである。私は寝転がった際に身軽になりたさから腕時計を外していたのだ。近代人たるもの、常に時間に縛られていないと駄目だ。反省しよう。

 さらに次に刺されたのはふくらはぎだ。7分丈のところまでしかスプレーしていなかったために、寝転がった際にわずかに露出するふくらはぎの6分目のところをしたたかやられた。

 そして最後にやられたのは、足の指である。靴下を履いていたとはいえ、靴を脱ぐ以上、布の上からでも刺される可能性を考慮すべきであった。注意を怠った。完全に舐めていた。

 

 私は蚊を舐めていた。

 やつらは隙を突いて皮膚を食いちぎるのだから、もっとぬかりなく、恋人が呼吸困難になるくらいスプレー散布するべきだったのだ。周りの人に煙たい目で見られるくらいやらなければならなかったのだ。シートの四方に蚊取り線香を焚き、結界をあつらえるべきだったのだ。

 

 悪いのは私だ。

 

 

 と、言うとでも思ったか。

 蚊が悪いに決まってる。

 なんでそんなに目敏く隙を突いてくるんだ。そんなにスプレーしてなかった恋人の方を一回くらい襲ってもよかっただろ!恋人ははたして一度も刺されなかった。私が「蟲寄せ」になったためである。

 

 蟲寄せ。ファンタジー漫画の特殊な能力みたいだ。

 だがあいにくここは透明の血が流れ続けている現実であって、私に寄る蟲は害虫しかない。

 

 

 蚊は発展途上国をはじめ、多くの国と地域で病原菌を媒介し、年中おびただしい数の人間を殺している。それはそれとして、私がかゆいのはさらに大問題だ。

 絶滅させるべきだ。

 それで生態系がぶっ壊れても仕方がないだろう。私が刺されてかゆみに苦しむ方が世界の終りよりも重大な問題なのである。

 

 ちなみに、蚊の次に人間を殺しているのは「人間」らしい。

 両成敗すべきかもしれない。

 

 

大音量と思考巡転、孤独

 日は昔一緒にバンドをやっていたドラムの新しいバンドのデビューライヴに行ってきた。

 以前は一緒に演奏していたということもあって彼のドラムの良さみたいなものを心底に理解していたわけではなかったのだが、客観的に聴いてみると、心地よい音を出す奴なんだなぁとつくづく思う。

 ドラムという楽器は高橋幸宏さんが言っているように、その人の持つ「音色」が直接出るプリミティブな楽器なので、リズム感は鍛えることができても、根本的な音色を誰かに似せることや変えることはまず難しい。

 私の友だちの出す音は、タイトで芯があって、発散と発露を感じさせる音だ。昔よりずっと上手くなっていて、音色も磨きがかかっていたし、努力がうかがえた。

 ドコドコ叩かれると「雷が落ちるぞ」と昔はよく言ってたものだ。それゆえに、バンドの中では浮きがちになってしまい、聴かせるドラムではあっても、オケとして調和しているかというと首をかしげる部分があって、ボーカルや他の楽器を呑んでしまう。

 彼を飼いならすバンドにならなくちゃいけない。

 だけど、昨日聴いていて、いいぞ、もっとやれ、と思った。

 どういうことかって、彼の音はどうにも気持ちがいいのだ。「怒り」を感じさせるというか、好戦的な気分にさせる。ボーカルとかオケとかどうだっていいので、もっと聴かせろ、と思わせてくれる。バンドは彼のために成長しなければならない。

 そう思わせるドラムを叩ける人は、そういない。

 そして昨日のバンドは他の演奏も良かったと思う。このバンドなら彼のドラムを使いこなせそうだし、充分に飼いならすこともできそうだと思った。

 よく練習していることがわかったしその質も良さそうだ。その辺のアマチュアより全然上手だった。私は昔の自分を恥じたほどだ。そして、伸びしろがまだまだあると思った。

 

 どの口で言っとるんだ。偉そうに。ロックバンドたるもの、こんなわけわかんない批評は気にせず、好きなように狂い咲いてほしい。いいぞ、もっとやれ!

 

   ↓

 

 ところで私はライヴ中、大音量の耳が裂けるような音の渦の中で、体を揺らしながら、さまざまなことを考えてしまう癖がある。

 ベースがブンブン鳴っていると、今書いてる小説の新しいアイデアとか次に書きたい小説の主題とかが思い浮かぶ。

 ドラムに腹を叩かれると腸が蠕動(ぜんどう)してうんこをしたくなると同時に、昨今の世の中の出来事について思うところの頭の整理が進む。

 後頭部を歪んだギターにぎゃーんと殴られると、昔の自分の過ちや後悔を思い出して、ひどく惨めな気分になってくる。

 そしてボーカルが気持ちよく歌っていると、どうして自分はあそこに立っていないんだろうと勘違いも甚だしい劣等感に苛まれ、もう体を揺らさずにはいられなくなるのだ。

 自分でもこの習性がなんなのかよくわからないのだけど、どのライヴに行ってもそうなってしまう。相対性理論スピッツのライヴに行っても、フェスに行ってもそうなのだから、どのライヴでもそうなってしまうのだろう。

 

 孤独。

 圧倒的な孤独感が体を揺らしながら心を揺さぶってくる。泣きたくなってくる。どういう情緒なんだ。

 

 恋人をどれだけ愛しても、友だちとどれだけバカをやっても、死ぬときは自分一人で、心の底の目も当てられないような「自分」を抱きしめてあげられるのは「自分」だけしかいないのだ、という、どうしようもない孤独感。

 セックスをすると肉体が融け合うようで、言葉にならない心のコミュニケーションが図れる。そして自分は孤独ではないのだと思う。だけど、孤独なのだ。言葉もセックスもダンスも、孤独の中和剤に他ならない。私たちは突き詰めてもずっと孤独なんだ。宇宙にぽつんと浮かんでいる名前もない星のように。

 

 そういったことを考えてしまうので、音楽を聴いているどころではない。

 だけどこれは良い兆候で、創作意欲が湧くし、自分が孤独であるということを思い出させてくれることは決して悪いことじゃない。

 なぜなら、孤独を知らないと自分と向き合ってなにかを作り出すことはできないので。

 

 書きながら、面倒くさい奴だな、と思った。

 頭空っぽにして楽しめよ。それがライヴだろ。なんなんだ。

 

  ↓

 

 友だちのバンド名は「THE PLANET WE CAN SEE」です。プラキャン。

 

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 音源もあるので、なにとぞよろしくお願いします。大切な友だちのバンドなんです。

 これから伸び出てくるバンドだと昨日確信した。

 

インターネッツは嘘の掃き溜め

  の趣味はインターネッツで嘘をつくことである。初手、社会不適合者か?

 

    このブログを何度も読んでくれている人はわかるだろうが、私はしょっちゅう、しょうもない嘘をついている。

    たとえば、私が街を歩けば女どもが股を濡らしてすがりついてくるだの、天に手を掲げるとスズメが数羽指先に止まる特技があるだの、およそ話の本筋とは外れたところで嘘をついては顰蹙(ひんしゅく)を売買しているため、すっかり信頼を失ってしまった。これはもう恢復できない。終わった。

 

    また、よく調べもせずに(というか一切調べないで)テキトーな情報を垂れ流しているため、情報そのものの信憑性が低い。ほとんど噂レベルである。だから枕詞で「うろ覚えなのだが」とか「知らんけど」みたいな保険をかけておくことが多い。

    「〜と誰かが言ってた。気がする。うろ覚えなので知りたい人はちゃんと調べるように。」などと、話の後で保険をかけるように決まり文句をつけることにしている。これを枕詞ならぬ、掛け布団言葉という。

 

    また嘘をついた。

 

    でも、インターネッツ上でならいくらでも嘘をついてもいいと私は思っている。

    どうしてかというと、インターネッツ仮想空間であってこの画面の向こうに人間がいる確証など無いからだ。証明し得ない。

    インターネッツは仮想だ。現実じゃない。そういう観念が私にまとわりついている。

    現実じゃないなら、現実ではできないことをやったほうがいいよな、と思う。それがたとえばどうでもいい嘘をつくことだし、テキトーな情報で気楽に話すことなのだ。

 

    ↓

 

    私のような人間がいるから、インターネッツ上の情報はいつまで経っても確たる信憑性を得られないのだろう。だから論文の参考文献をインターネッツから引用できないのだ。

 

    そもそも本当か嘘なのかわからない情報が氾濫しているから、インターネッツをうまく使うには土台となる教養と能力がないと情報の選り分けができない。そういうことのために教養や勉強による土台作りはあるのだ。

    テレビや新聞による偏向報道はひどいものだけど、インターネッツの報道だって本当かどうか怪しいものだ。

    ただインターネッツには情報量があるというだけで、その多角的な情報は自分の頭の中で処理して真偽と立場を判断していかなければならない。それにも教養や能力が必要となるから、インターネッツを使うのはよっぽど難しい。テレビで流される情報を仕入れるほうが思考停止していられるから楽だ。

 

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    私は自分がインターネッツ性虚言症ということもあって、特にTwitterの情報はほぼ信用しないことにしている。

    気になる呟きがあったら、ちゃんと新聞や信頼のおけるサイトで調べてから、真偽を判断する。

    Twitterやブログでは作り話みたいな憎悪を誘発する話や扇動的な話で溢れているけど、それが真実だとは限らない。作り話かもしれない。少し上手な人なら、140字小説を書くみたいに、そのくらいの嘘を軽く作るだろう。

    

    いやいや、無駄に嘘をつく意味ないじゃん、と否定する人は、知らないのだ。虚言症は嘘をつくことに意味などといったものは求めていない。そこにあるのは「意味」というかしこまったものではない。嘘をついてしまうのだ。

    嘘よりも酷いのが、私もよくやる、テキトーな情報をいかにも本当らしく信憑性があるように流す人たちで、奴らは枕詞も掛け布団言葉も置かず、さも真実であるかのように見せかけてくる。

    

    情報の信憑性を判断する最初のフィルターが個々人の教養だと私は思っていて、教養がファイヤーウォールのように、氾濫する無駄な情報をはじいたり、右と左に分ける判断力を与えてくれる。

    高度情報化社会で大切なのは、ツールを使う能力と教養だ。

    でないと、ツールに自分が「使われてしまい」、情報に「扱われてしまう」。

 

     そして、ここまで書いたことを判断するのはあなた自身だ。