蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ウィルス対策(ソフト)

  コロナ・ウィルスが流行していると同時に、私の会社でもウィルスメールが飛び交いITグループの私は対応に追われているが、おそらく、というかまったくの偶然である。

 

 流行病について思いを馳せよう。

 SARS鳥インフルエンザエボラ出血熱など、私の生きている間にもいくつかの驚異的な病原菌が流行したけど、そのたびにそれを契機として対応技術が高まるあたり、社会とはひとつの生き物みたいだと思う。

 私たちの体は一度かかった病原菌には抗体ができて、仮に再度罹患しても軽くなるようにできている。

 社会もそれと同じことで、ある流行を機にその経過をまとめたものとマニュアルが作成され、訓練や医療技術の発展に伴い感染への社会的な抗体力を強めていく。次なる脅威が来たときに、より被害を少なくするために。

 もちろん、そうしても次なる病原菌は誕生し、進化して私たちに襲い掛かるし、対応技術の効果が表れるのはずっと先の未来のことで、我々の生きているうちにはせいぜい「徐々に技術が高まっていく」というわずかな実感しか抱けないだろう。

 その対応力の効果的測定は歴史統計が証明してくれる。

 

 パンデミックについて思いを馳せるとき、私は世界史の授業で習った黒死病(ペスト)」を思い出す。

 14世紀だか13世紀だかにヨーロッパで爆発的に流行し、人口のおよそ3分の1が死亡したものだ。全滅した村もあったという。

 医療技術の低かった当時では、もはや病が過ぎ去るのを待つしかなかったのだろうか。

 当時の医療と言って思い出すのは、これだ。

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 ペストマスク。

 高校生くらいのとき、これ、めちゃくちゃ欲しかった

 めちゃくちゃ欲しくて、売ってる店を探した。ヴィレッジ・ヴァンガードとか売ってそうだけど売ってなかった。

 ペストマスクつけて、原宿を歩きたかった十代。

 口のところにハーブなど香草を詰めて使ったらしい。そんなもので感染を防げたかどうかは疑問だ。

 全身を黒いマントに包(くる)んで感染経路となる糞便や吐瀉物に触れないようにしたとか。それなりに合理的だったのかも。

 

 大人になった今でこそ、ペストマスクはもう別にいらない。

 憧れはあるし、「あげる」と言われたら喜んで貰って部屋に飾るが、なんかこのデザインは安直にすぎるというか、いかにも中二病の十代が好きそうなデザインをしていて、大人になった今では多少いただけないな。

 「狐面」と似たような中二性を感じる。

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 じゃあ狐面もペストマスクもいらないのか、そうなのか、と言われたら、いる、と答える。

 くれるなら貰う。

 部屋にないよりかはあったほうが絶対に良い。

 おみやげで買うことはないにしても、足を止めて、値段を見て、安かったらもしかしたら買うかもしれない。やっぱり欲しいんじゃないか。

 やれやれ、病気は治っても中二病は治らない。

 

 話がぜんぜん逸れてしまったな。

 

 ↓

 

 コロナ・ウィルスについて、感染拡大は怖いけど、仕方がない気もする。

 大切なのは個人単位での予防と正しい情報の選択だ。

 感染拡大によるいわれのない噂や流言飛語による、たとえば人種差別とか迫害といった社会的二次被害はぜったいに阻止しなくてはならない。

 そのためには情報ソースを確認する、官庁のサイトで新しい情報を得る、怪しいメールは無視する、添付ファイルを開かない・保存しない、などの個人単位での情報セキュリティ意識が求められる。

 

 また話がちょっと逸れたな。
 

コインランドリー・ナイトメア

  れは今思い出しても悪夢的な出来事だった。2017年夏のことだ。

 その夏のあの日は雨が降り続いた一週間の最後の方で、私のアパートの部屋は湿気で溺れ死にそうになっていた。部屋干しで乾くわけもなく、湿度は増すばかり。

 エアコンで除湿しつつ、除湿器も稼働させたがすぐに水いっぱいになってしまい、どんだけ空気中に水が飛んでいるのかゾッとした。これがいずれ衣服や壁紙にカビを発生させるのだ。

 すでに私の頭はカビが生えたように鬱屈としていて、洗濯物を乾かせない悲しみに濡れていた。また部屋の湿度が上がる。悪循環だ。

 コインランドリーに行こう。

 もはや着る服も最後の一着となって、私は決意した。

 大量の洗濯物を抱えて、いちばん近所にある、ほんとうに6畳ほどしかないぼろぼろのコインランドリーへ傘を差し走った。

 

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 見るからに古い洗濯機と乾燥機がごうんごうんと回転している。乾燥機は空いていない。

 コインランドリー・バージンだった私はコインランドリーのシステムがよくわからなかったので、とにかく空くまでそこに待つことにして、置いてある漫画雑誌に手を伸ばした。

 これもまたボロボロになった少年ジャンプだった。発行日付を見ると、半年前のものだった。ページをぱらぱらめくっても知っている漫画はもう載っていなくて、知らない漫画を途中から読むことほど時間の無駄もないので、おなじく置いてあったこち亀のコンビニ本をめくった。よかった。「こち亀」は不変だ。安心のクオリティで、同じ型で、話は進行もせず、それなりにおもしろく笑えて、時にはへぇ~と頷かせる。

 

 「こち亀」を読んでいると他の客が入ってきて、止まった乾燥機から衣服を取り出し、去って行った。

 その乾燥機に私はたんまり溜まった乾かない洗濯物をつっこみ、300円投入した。

 現代の硬貨が通用する機械なのか不安はあったが、その乾燥機にはボタンがなく、金子(きんす)を投入して扉を閉めると、勝手ににゴウンゴウン回転を始めた。

 やれやれ。一安心だ。

 さっきの客を見ると、どうやら扉の取っ手に袋をぶら下げておけば外出してもいいらしいことがわかった。私は大きなビニール袋をそこに提げて、スーパーへジュースを買いに行った。

 

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 スーパーでジュースを買い(たしか豆乳を買った)、飲みながら戻ってきたとき、コインランドリー店内から稲妻のような音がした。

 なんだ?

 機器の故障だろうか?まったく、これだから古い機械は。

 やれやれと思って店内へ入ると、その音は外に聞こえているよりも凄まじく、雷が転げまわっているような鋭く鈍い音がして、たとえば「軋轢(あつれき)」に音があるとしたらこんな音なのだろうな、って感じだった。

 

 ガンっ!!!!ガラガラガラガラッ!!!!ギャリギャリギャリギャギャギャギャギャギャギャ!!!!!!グアアアアアアアアア!!!!!!ガガガガガガガガガガガガガガガ!!!!!!!!!!ガンガンガンガンガンガン!!!ガガガガギギギギギギギギ!!!!!!!ギャインギャインギャインギャインギャイン!!!!!ギュインギュインギュインギュイギュギュギュギュインギュインギュインギュインギギギギギギギギギギギギギギギギガガガッガンガンガンガンカラカラカラカラガガガガガガ!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 地獄の番犬が踊り狂いながら殺戮しているような音。

 なんなんだ一体!何が起きてるんだ!

 管理者に問い合わせた方がいいのだろうか?このままだと近隣住民に通報されるのではないか。

 しかしその音を聴察すると、どうやら乾燥機の内部から音がしているらしく、しかも対象の乾燥機は私の衣類を乾かしているそれだった。

 

 え?

 

 なにこれ、死ぬのかな?

 自然にそう思った。コインランドリー・バージンには手痛い洗礼である。私が何をしたというのだ。やめてよ。怖い。紀文の豆乳ドリンクがわなわな震えた。

 乾燥機の扉にはいくつか注意書きが書かれている。どうにかして止める方法がないかそれを読みこんだ。

 

 ・乾燥中は扉がたいへん熱くなります!

 ・羽毛製品を入れると発火する恐れがあります!

 ・金属類や石など硬いもの、プラスチック製品は入れると故障の原因にもなります。

 

 なにやら不穏である。これは止めた方がいいだろう。それに音で耳がおかしくなりそうだ。

 だが、「停止」ボタンがどこにもなかった。扉を無理矢理開けようにも開かないし、熱くてかなわない。がんがん叩いても止まらない。

 乾燥機はひたむきに、ただひたすらに己の使命を全うしようとしている。その間も雷は転げまわる。

 

「もうやめてくれぇぇぇえええ!!」

 

 つい叫んだが、乾燥機は止まらない。音が凄まじくて自分の叫びも自分でよく聞こえないほど。「~~~~~~~っ!!!」ってなってた。

 なんなんだこいつは。

 己の使命を全うしようとするあまり、目的と手段をはき違えてるんじゃないか。愚直すぎる。上官命令への従順さは評価に値するものだが、はたしてその命令が虐殺を指示するものだとしてもこいつは愚直に上官の命令に従うのだろうな。ただ目的と手段をはき違えて、自らの出世のために命令通り計画通りに民族浄化を推し進めるのだろう。凡庸な惡。サタンめ。誰しも惡になりうるのか。

 と、批判して気分を紛らわそうとしても鳴りやまない悪夢。

 「こち亀」を呼んでも内容がほとんど頭に入ってこないので、外に出て他に客が来ないか見張ったが来ない。雨の中の孤独は10分弱続いた。 

 

 ↓

 

 終りはじつに静かだった。

 とつぜん痛みが引くように乾燥機は停止し、満足そうでも不満そうでもなかった。「やるだけやりました」と無垢な面持ちですらある。

 私の耳は暴音にやられ、その静寂ぶりがまた恐ろしく、いよいよ鼓膜がやられたかと思ったが、茫然と立ちすくむうちに しなやかな雨の音が聞こえてきて、ああ、乾燥は終わったのだと、ようやく現実に目を覚ますことができた。

 

 服は完璧に乾いていて、ふっくらとあたたかく、清潔なにおいがした。

 と、カラン、なにかが落ちた。

 それは、100円玉だった。

 

 あ、思い出した。

 

 これ、コンビニ行ったときの釣銭で、スエットのぽっけに入れたまま乾燥させちまったんだ。

 ずばり暴音の正体はこいつだった。

    なんてことだろう。あまりの呆気なさ、情けなさに、100円玉を踏みつけたくもなった。

 100円に泣く日が来るとは。

 踏みつけず、自業自得と戒めて拾おうとしたらものすごく熱くなっていて、ぎゃん、と鳴いてしまった。乾燥機は高温なのだ。15分も中で暴れ狂えばそれなりの温度にもなるだろう。

 ギ、と睨みつけ、しかし拾えないので、冷めるのをちょっと待つ間「こち亀」の続きを読んだ。

 

 両津のバカはどこへ行った~!クスクス。

 

ガレットが思い出の食べ物でよかった

  宿でガレットを食べた。

    ガレットというのはフランスのクレープみたいなもので、スイーツではなく食事である。

    見たほうが早いだろう。

 

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    こういうやつ。

    なにか特別な小麦粉だか蕎麦粉だかを使っているのだろう、普通のクレープよりも生地がしっかりしていて浅黒い。

    こんなお洒落な食べ物、知らなくても恥じゃない。ただ都会ではこういったお洒落な食事がなんの特別感も感慨もなく当然のように消費されているので、田舎から出てきたばかりの村娘はびっくりするかもしれない。だけどそれは、恥じゃない。

    よし、田舎者を馬鹿にして筆が温まってきたぞ。がんがん今日のブログを書いていこう。(最低か)

 

 

    ↓

 

 

    ガレットを恋人と食べた最初は、今から3年以上前の、付き合って間もない頃だった。

    たぶん、付き合って1週間とかそんくらいだったろう。

    恋人は大学3年生、私は2年生だった。

    その日は2人とも午前中で講義が終わったので、新宿でなにかランチしようかということになって、それならガレットを食べたいとお洒落なものに敏感な恋人が提案した。今でもそうだけど、私は恋人の提案を無碍にしたことはない。彼女と2人でいられればなんだっていいのだ。

 

    その頃はまだ2人で並んで歩くと、大学の同級生に見つかるんじゃないかとか、ここで手を繋いだら恥ずかしいだろうかとか、そわそわしていろいろ考えてしまう時期だった。

    でも結局大胆で、手を繋いで歩いていたと思う。見つかっても知るか!って感じで、その頃から私たちは2人だけの国を持っていた。

    ガレットを食べるのだ。これから。その事実が美しく、嬉しい。

    初めて恋人と、恋人になってから初めてのランチをするのだ。それにガレットを選んだ。手を繋いで新宿南口を歩いた。

 

 

    付き合いたての頃の恋人は、サークルの先輩だったこともあってなんだかしっかり屋さんでキビキビしていてときどき可愛くて基本的にシュッとした印象であった。

    頭もいいし、友達も多いし、家庭環境も良さそうだし、浪人してないし、私と正反対の座標の人であった。よく私なんかと付き合ってくれてるよな、と不思議でさえあった。

    もちろん私は当時のそんなシュッとした恋人のことが好きだったけど、ちょっととっつきにくさがあったというか、この子で大丈夫だろうか、これから傷つけてしまうのではないかという不安があった。

    そんな心持ちだったからこそ、初ランチの局面は重要であった。

 

    しばらく並んで、店に入り、ガレットを注文した。提供されるまでの間、なんの話をしたかは覚えていない。覚えてないからたぶん大した話はしていない。講義のこととかフランス語の豆知識とかフランス語の嘘知識を吹聴していたのだろう。ガレットはフランス語で綴ると"galette"で、"lette"は「女の子」って意味をもち、"gal"が「包む」って意味を持つ接頭語なんだよ。私はこの手の嘘をつくのが得意だ。重要な局面で嘘をつくなよ。

 

    やがてガレットはやってきて、私たちの前にそれは眠るように横たわっていた。

    さくっとナイフを入れると思いのほか硬い。生地が薄いのにしっかりと存在感を持っていて、パリパリもちもちしている。

    具はピッツァでいうビスマルクで、目玉焼き、ポテト、ベーコン、チーズ、コショウ……シンプルだけど嫌味がなくてご機嫌な味がする。マーチでも行進したくなる。

    私はざくざく切っては食べ、喋るのもそこそこに食事に集中した。それだけこのガレットは美味しかったし、食べるのが難しくもあった。硬く、どこからどう切り分けて食べるのが正解かよくわからないのだ。

   一方で 恋人は、ガレットを食べるのに相当苦戦していた。

    ナイフとフォークの使い方が甘いのか、単に力がないのか、ガレットを初めて食べるからどこを切ればいいのかわからなかったのか、ともかくガレットに苦戦していて、私が4分の3ほど食べたところで彼女はまだ5分の1くらいしか食べていなかった。

    唖然とした。

    あの、なんだか完璧で、さっぱりしてるイメージの恋人が、ガレット程度に苦戦して、涙目になって半笑いで顔を赤くしている。

「くっ…くっ……くくっ…全然切れない…」恋人は恥ずかしそうに言った。

    なんだかそれがおかしくて、可愛くて、その人の自然の姿を見た気がして、実際にそれが自然の姿で、私はこのとき安心してこの人と恋人になって大丈夫だと思った。

 

    結局あの日のあのガレットは、相当時間をかけて私が切り分けるのを手伝ったのだったなぁ。

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          (今日食べたデザートのクレープもシンプルでめちゃくちゃ美味しい。こういうのでいいんだよ。)

 

 

    ↓

 

 

    今日、付き合って3年以上経った私たちはまたあの店でガレットを食べた。

    美味しい。3年数ヶ月前と変わらず美味しい。たぶん、ここのガレットがいちばん美味しい。

    ざくざく切り分けて口に運びながら、3年数ヶ月という月日の長さと短さを想った。変わったことと変わらなかったことが良くも悪くもいくつかある。

   「あの頃よりかは上手く食べれるようになったと思わない?」

    私が4分の3ほど食べたところで、恋人は5分の2ほど食べていた。

 

 良かったことのひとつとして、3年数か月という年月が二人のものとしてここにあり、またガレットを食べることができたことだ。

 

tabelog.com

    

 

    

猫の名前を考えよう!

 昨年、我が家の二頭の犬が去ってから家庭内環境は悪化を辿る一方であった。

 いなくなってから半年もすれば慣れるものだろうかと思っていたが、淋しさは増悪して歯止めが利かず、たとえば信号待ちの時間にふと犬たちのことを思い出して、あのにおいとか呼吸とか毛並みとか笑顔とか面白かったことを思い出しては、涙ぐむ日々が続いていた。

 自分の死に救いがあるとすれば、あの世で可愛いあの子たちに会えるというそのことだけだ。そしてそれで充分だ。

 特にこの一年間は父だった男の死のせいでやたらと面倒なことが立て続けに起こり、現在も父の最後の妻となる3人目の奥さんが毎日家に押しかけてきてインターホンを鳴らしまくるなど常軌を逸した状況が続いていて、はっきり言って家庭内は病んでいる(このことについてはいずれ機会を改めて書きたいが、警察沙汰になる可能性が充分にあるので公表は遠い未来になるかもしれない)。

 こういうときこそ、病んでいるときこそ、犬たちが必要であった。

 癒しが必要であった。ぬくもりが必要であった。

 ぬくもりが必要なのだ。

 

 そんな、完全に人間の都合による理由で、私たちは猫を飼うことに決めた。

 二匹の保護猫である。

 理由が「犬がいなくなって寂しいから」なんてエゴだけど、仕方がない。この世の中はあらゆる都合によって成り立っているのだ。

 でも、犬たちを忘れたいわけでもないし、猫を道具にしたいわけでもない。

 猫と一緒に暮らしたい、ただそれだけなのだ。

 ちなみになぜ保護犬にしなかったかというと、妹が犬アレルギーになってしまったからである。

 

 猫たちは2月に我が家にやって来る。

 私たち家族は、これから増える家族について、まずは名前を決めようと日夜会議をしている。

 私は村上春樹が好きなので、氏の小説タイトルから「世界の終り」「ハードボイルド・ワンダーランド」ちゃんにしようと提案したが、却下されてしまった。

 格好良いのになぜだ。

「動物病院で、その名前で呼ばれることになるんだよ?猫たちの気持ちもようく考えてみなさいよ」妹にそう刺された。

 格好良いじゃないか。

「お兄ちゃんはなんでもオモシロければ良いと思っているけど、それは間違っている。もっと世間を知った方がいい」

 妹は大学生になってから言葉に含蓄を富むようになった。よく勉強している証だ。兄は誇りに思う。

 

 と、こんな感じで案を出しては却下、採用、また却下が続き、議論の余地しかない。

 

「なんかさ、格言とか諺(ことわざ)から名前を取りたいね」私は言った。

猫に小判

「豚に真珠」

「猫に関連性のある名前がいいよ」

「じゃあコバンちゃんかな」

「いいねそれ」

 

 こういった感じで話はすすんでいく。

 

モカリちゃんはどうだろう」私は言う。

「なにモカリって言いにくっ」妹が疑問を呈す。

「猫の手も借りたい、からとって、モカリ」

「どうせそのうち『モカ』になるよ」

「じゃあ、羊(ひつじ)ちゃんはどうだろう」

「は?」

「羊って、かわいいじゃん。あたたかいしさ」

「え?猫だよ?」

「うん」

「狂ってるの?」

「そうかもしれない」

「かもしれない、じゃねぇよ。そうなんだよ」

 

「羊羹(ようかん)」「ビスク」「テンキー」「ほら貝」「剣(つるぎ)」「アマデウス」「この世の限り」「ミシマ」「@」「XYZ」「バナナ・パンケーキ」「吾輩」「88」「リトール」「猿楽(さるがく)」「影裏(えいり)」「スノーマン」「ストーンズ」「未華子」「シャルル」「チーパ」「リラゴ」「ローゼン」「雪影」「アンコウ」「センパイ」

 名前の案なんていくらでも出てくる。

 こうやって、花開く未来について思いを馳せることは楽しく、名前を考えている時間が愛しい。

 思いのほか私は猫をすごくすごく楽しみにしている。

 

身長差が好き

 「身長差いいよね」と恋人が言った。

 私の恋人は、私たちの身長差が好きなのだ。

 私と恋人は、細かい数字は忘れたけど、たぶん15センチくらい身長差がある。

 二人並んで写真を撮ると、私の首に恋人の顔がすぽっと収まるくらい。

 この身長差が愛しくて、恋人を守りたくなる。たとえば夜の電車の窓ガラスに映る二人の影が、私はこよなく愛しい。

 恋人は私たちの身長差を、私が思っているよりもずっと深く愛していて、よく「身長差、いいわぁ」と口にする。私はそれが嬉しい。

 なぜって、「身長差」は二人の人間がいないと生まれないものであり、私たちの身長差は私たちによって生まれるもので、二人の関係がないと愛しいと思えないものだからだ。

 

 人間は基本的にオスが大きくて、メスは小さい傾向にある。

 だけど、魚や爬虫類や虫、哺乳類でもメスの方が大きい。

 アンコウなんてオスはメスの体に比べたらアクセサリーくらいの大きさしかなくて、メスに吸着したオスは生殖器官を遺していずれはメスに吸収されてしまう。はっきり言って羨ましい。だって好きな人の体の一部になれるのだよ。魂を別にしたまま、同じ温もりの中で暮らしていけるんだよ。深海はどれくらいあたたかいところなのだろう。

 メスは子どもを産むためにたくさん力を備えなきゃいけないし、子どもを守るために強くなきゃいけない。オスはそれに比べると、巣をつくるだけだったり、結局強い遺伝子を残すために他のオスと戦うだけの、なんだか生殖のためだけに作られた矮小なもののようにも思えてくる。

 動物に詳しくないから、例によってテキトーなイメージの話だけど、私にはそう思える。

 ライオンの鬣(たてがみ)や雄鹿の角やセイウチの牙も、そうやってオスを捉えるとどんなに立派でも急に虚しく小さく見えてくる。

 そう考えはじめると、男としての尊厳を失いそうで怖くなる。私は自分が男であることを誇りにも思うし、楽しくも思っているのだ。なんてったって、髭が生えるのが良い。

 

 なんの話だったかと思いだせば、そうだ、私と恋人の身長差の話だった。

 私はヒョロガリ「しなびたほうれん草」と妹に揶揄されているけど、それでもそのへんの女性よりかは筋肉があるわけで、力があり、大きめの段ボールを運ぶことだってできる。そういう大きなものや重いものを運ぶと、単純な話だけど、男としての自信が出てくる。

 恋人と並ぶと、その身長差に──下から覗き見る恋人の視線に──私は彼女を守りたいと思い、なにか大きなものを運びたいと思い、彼女のために八重垣を作りたくなる。

 八重垣作る、その八重垣を。 

 

 私は、私たち二人が愛しくてたまらない。

文章のにおい

 章にはにおいがある。

 「蟻迷路は頭のおかしいことを書いておけばウケると思っているから無視しよう」そうおっしゃる有象無象の声が聞こえるけど、まぁ、ちょっと読んでくれ。例によって感覚的な話だけど。

 文章にはにおいがあるなり。

 書いた人の、においがあるなり。

 それは文体とも言い換えられるが、文体、と断言するにはいささか感覚的なことで、もっと特有の呼吸というか、型というか、リズム感というか、なんだろう、なんなんだろうね。雰囲気?見た目じゃない何かのようで見た目の何かでもある、文章全体から漂うものなり。

 

 書いた人のみならず、時代のにおいもある。

 明治時代の文章には明治時代のにおいがあり、昭和初期には昭和初期の、戦後には戦後の、平成には平成の文章のにおいがある。

 江戸時代のにおいがあり、平安時代のにおいがある。

 その時代の文章にはその時代の文章にしか出せない雰囲気のようなものがあり、それこそが文章の時代性を表出している気がしてならないのだ、私は。

 

 もっと具体的に、その時代の文章を読むとどういうことになるか例を述べるならば、そうさな、その文章を読むとその時代の活気や街のにぎわいやあらゆる感覚が、明記されずとも漂ってくるものなり。

 それこそが「におい」で、その「におい」はその時代の文章にしか出せない。

 なぜなら、書いた人がその時代の人で、その時代の文脈の中で生きていて、それが文章に染み出ているからなり。

 

 と、ここでさらに論をかためるために具体的な文章の例を出してもいいのだけど、まず一にそれは面倒くさいのでやりたくないし、一部を抜粋した具体例を挙げたところで納得されるものではなく「におい」は文章全体から漂ってくるものであるから抜粋は難しく、たとえ時代ごとに似たような文章箇所を見つけ出そうとしても私は浅学の輩なので良い具体例を抜き出すことができない。

 この世の物事にはあらゆる理由で断念せざるを得ないことが多い。

 それにこれは論文じゃなくて、勝手好きに論拠の乏しい妄想的なアイデアを書き連ねるだけのブログなり。許してほしい。神さま。

 

 と、言い訳を満足できるだけ書いたので本題に戻ろう。

 

 この「におい」はどうしたって自分の生きている今の時代のものしか習得できない。

 タイムスリップして室町時代で30年くらい暮らせば室町時代のにおいを習得できるかもしれないけど、ドラえもんがいないから無理な話。

 令和の作家が江戸時代を舞台にした小説を書いたところで、たしかに街の賑わいや活気を江戸時代を再現して書くことはできても、それは映画のセットのようなもので、賑わう人々はエキストラみたいなもので、江戸時代を包み込んでいるにおいの文脈までは再現できない。

 読む側としても「これはセットだ」という感を心のどこかで抱いているはずなり。

 抱いてない?

 抱いてないなら、まぁいいけど……。

 

 これはあるいは悲しいことかもしれないけど、喜ばしいことでもあるなり。

 なぜなら、令和のにおいの文脈は、今を生きる私たちにしか書き出せないものだから。

 ゆえに、昔の本を読むのもいいけど現代の本も読むべきだし、それ以上にニュースや社会情勢や世間の話や人間関係や巷(ちまた)に興味を持って、自分もその一部にならないといけない。だけど、どこか一歩身を引いて客観的でなくてもならない。そして、そういったことは時代を生きていれば、時代の奔流の中で自然と身についている宿命的なものなり。

 

 こうやって「なり」を連発してもこの文章が江戸時代にならないのは、文体や内容や文章を構成する要素の中から漂い出す「におい」のせいなりよ。

 

大なり小なりの違和感

 なり、小なり、という変な名前の記号がある。

 “>” と “<” である。

 どっちが「大なり」でどっちが「小なり」かわからなくなるけど、口に出して使う頻度は高くないのであまり困らない。文字にするときは「大なり」とわざわざ書かず、「>」と表記するし。

 

 ところで、大なり、小なり、を習ったのはいつだったか。

 たぶん、高校生のときだ。

 不等式のお勉強で習ったのだ。

 中学生だったかもしんない。

 わからないけど、ティーンの多感な時期に教わったことは覚えてる。こんなこと、多感な時期に習うべきことなのだろうか。

 頭の禿げて色黒の痩せた数学の先生(陰でガンジーと呼ばれて親しまれていなかった)が「大なり」とか言っていたのを聞いて、ティーンの私は最初、その言葉が冗談だと思った。

 「>」の名前が「大なり」とは到底思えなかった。

 だって「大なり」って言葉の響きは完全に古文のそれなのだ。

 「大(だい)」は名詞、「なり」は体言に接続する【断定】の助動詞「なり」の終止形である。

 今どき「~なり」なんて使うのはコロ助かベトベトしたオタク君くらいだろう。その二つのイメージだって令和では古い(私がティーンの頃は平成だったけど)。私は古文が嫌いだったし、数学はもっと嫌いだった。授業中はほとんど寝ていた。冒涜的睡眠、と揶揄されるくらい寝ていた。寝る子は育つ、なんて嘘だと私が浪人することで証明した。

 それなのに(どれなのだろう)、「大なり」なんて古文調で言ってやがる。

 さてはこの教師、ガンジーのナリしてふざけてやがるな。

 私はその言葉の違和感をその後数年間、今に至るまで残したままである。

 

 今日仕事中にふと「><」の話題になって(こう書くとなんかつらい人の顔文字みたいだ(>_<) )そういえば大なり小なりっておかしな言葉だよなぁと思い出したのである。

 100年くらい前に廃れた文語を今なお使用しているとは、どういうことか。

 おそらく用語として100年前に定着したので、術語として現在も使われるに至ったのだろう。

 言葉のシステムにおいてはそういうことがたまにある。時代が変わってその言葉の響きには違和感があるにもかかわらず、学術的に定着してしまったがゆえに変更がきかないのだ。

 「たまにある」と書いたのでなにか例を出したいのだけど、ぱっと出てこない。

 

 

 しばらく考えたけど出てこなかったので、まぁ、よいとして話を終りにすすめよう、言葉は時代によって意味や読みなどが変るものだけど、ルールとして定めてしまえば永劫変わらないのかもしれない。

 もちろん、使う人がいなくなればいちばん変わることがない。

 

 これからは積極的に「なり」を使ってオリジナリティを出そうかな。

 かなりクセなり。