蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

不本意な笑い

  路、駅からの道を歩いてたら、どこにでもいそうなおっさんがモコモコのセーターを着て、トイプードルを4匹散歩させていた。

 へぇ、おっさんもトイプードル4匹を飼うんだ。

 そう思った。

 トイプードルにはそれぞれ首にリボンが巻いてあったし、まだパピー(こいぬ)だったから当然可愛くて、おっさんとはどう見ても不釣り合いだった。

 いや、むしろ絶妙なバランスを保っていた。

 おっさんのおかげで、トイプードルたちの可愛さが引き立っている。

 そんなことを思いながら通り過ぎるおっさんと4匹を微笑ましく見ていると、卒爾(そつじ)、おっさんが目を見開き、かぁーーーーーーーっ、と乾いた声を発した。

 大きな声だった。

 警報、それを聞いたとき私はたしかにそう思った。そのくらい大きな声だった。

 なんなんだこいつ。トイプードル4匹飼うくらいだから気が狂ってるのかしらん。と、次の瞬間。

 おっさんが、大きい痰を吐いた。

 痰は犬たちの頭上を越えて、道路の真ん中に「ぺしっ」と音を立てて張り付いた。

 

 あまりの出来事に、絶句した。

 ただの通りすがりである私たちと犬たちは何事もなかったかのように歩みを止めず、互い違いの方向へ去って行った。

 

 それがなんだかすごく可笑しくて、笑いながら家へ帰った。

 すれ違う人に気が狂ってるのかしらん、と思われたかもしれない。

 

 

 ↓

 

 

 自分でもよくわからないのだが、よくわからないところで笑いのツボに入る。

 あとから思えば、おっさんが物凄い大仰な痰を吐いたからってなんなのだろう。汚いだけじゃないか。税金で作った公道を汚すな。

 この笑いはプライベートでの出来事だったからいいけど、仕事中にも突然笑いのツボが来るので困る。前にも書いたけど、先輩と端末の数を数えていたとき、ひたすら数を数えるのがなんだか可笑しくて笑ってしまった。

「ど、どうしたんだ?」

「すみません、ツボっちゃって……ああ、おかしい……」

「おかしいのは君のほうだよ」

「……はい」

 

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 最近会社の喫煙所に、明らかに気の狂った人がいて、その人は「すぅぅぅ、すぅぅぅ」と“言いながら”煙草を喫んだり、至近距離に接近してきたり、そんなことをしながらひたすらウロウロしているので厄介極まりなく、普通に勘弁してくれと思う。でも、私も疲れたらあれやってみようかなとちょっと考えてる。

 

 おかしいのは彼だが、可笑しいのは周りの人間だ。

 「何も見えていない」かのような視線の泳ぎ方、そそくさと一服を終える味の悪さ、全員が不快感に無理をしていて、せっかくの一服なのに「最低」の文字が顔に浮かんでいる様子。

 さすがに爆笑はしないけど、なんだか微笑ましい。

 人間というか、動物というものは「そういう風にできてるんだな」と思いを馳せる。電車の中で騒ぐ大人やチンピラとは目を合わせないようにし、できるだけ心を遠い所へ追いやり、カメレオンのように空気に身を溶けこませ、呼吸を浅くして存在感を消す。

 人間も動物なのだなぁ。

 

 彼らのそんな顔を見るために、私も喫煙所を執拗にウロウロしてしまうのかもしれない。

帰宅時の人身事故を想う

 宅時に人身事故があって、電車はストップ、他の交通機関もなかったので私は電車を降り、やれやれお腹が空いた、から目に留まったタイ料理屋へ入ってシンハ・ビールとガパオをかっ喰らった。感情に任せて喰らった。

 帰宅時に事故起こすなボケ。

 私は怒っていた。

 

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 私が毎日毎日蟻のように勤勉に出社する理由は、「行かないと帰れない」からである。

 出社の、通勤の時点で既に退社のことを考えてる。

 未来のことを考えて、先を見据えて行動している。一日を大まかに把握して計画している。こういう先が見える人は大概出世すると先輩に聞いたから、それを実践しているのだ。

 帰りたくてしょうがない。

 家は安寧、会社は泥濘だ。泥の中より花畑が良いに決まっている。泥の中には最悪なバクテリアや蛭(ひる)が生息しているが、お花畑では蜜蜂が花粉を集めて空を舞っている。

 帰りたくてしょうがないのだ。お家が大好きで仕方ないのだ。

 恋、と言ってもいい。私はマイホームに、恋、をしている。胸が切なくなるくらい。月が壊れてしまうくらい。

 

 私は家に帰るために会社へ行くのだ。

 行かないと帰れない。

 

 だから定時になったら即帰ることにしている。たとえ先輩がみんな残っていても帰る。自分の仕事が終わったら、帰る。今日だってそうして帰ってきたので、なんなら仕事をたんまり残してきたので、明日怒られるかもしれない。だからどうした。

 即帰宅。

 それが信条。それこそが信念

 

 ゆえに、""早く帰れない""状況は私を苛立たせる。

 そのひとつが、「帰宅時の人身事故」だ。

 

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 人身事故を起こす奴は何を考えているのか。

 人身事故にはさまざまな種類がある。今回は特に「自殺」について考えたい。

 疲れて、心をすり減らしてしまって死にたくなったとき、豪速でホームに突っ込んでくる電車は魅力的に見える。「死んでみよう」と思ったらすぐに跳び込めるのだ。

 考え直すとか、衝動にちょっと立ち止まってみるとか、そんなひと呼吸を置く間もなく、考えられないくらいあっという間に、簡単になんのユーモアもなく死ぬことができる。

 なんて迷惑なんだろう。死ぬなら一人で死んでほしい。洞窟の奥で。深い森の木陰で。

 「世間に迷惑をかけて死んでやろう。おれが蔑ろにされたぶん」

 そう思って投身する者もいるだろう。

 迷惑な話だ。

 迷惑な……

……だけどそれを考えた私は、口に含んだガパオを無味にも感じた。

 帰宅の足を止めた人々は怒り、死んだ者を憎む。「迷惑をかけてやろう」と考えた死者にしたら狙い通りだ。

 だけど優秀な日本の交通インフラは遅れを取り戻そうと迅速な対応をし、早ければ30分ほどで運転は再開される。

 ぎゅうぎゅうの満員電車はゆっくりだけど流れを回復させ、都市の血流は再び温度を通わせる。

 世界はなおも回り続ける。

 そして残ったのは、人々の疲労。それも眠れば恢復する。朝日は昇り、次の日電車はダイヤ通りに動いている。

 

 死んだ者が生きていたとき、誰も彼(あるいは彼女)に目を向けて立ち止まらなかったように、都市は立ち止まることをやめない。

 悼みはなく、痛みもない。こんあことがあっていいのは、この世の内だけだ。

 

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 夕食を終えて駅に戻ると、電車は遅延しながらも人々を乗せてそれぞれの家へ送りはじめたところだった。

 

「おじさん構文」の魅力

 じさん構文、と呼ばれるものがある。

 

 たとえば下記のようなものである。

 

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 これは私が書いた「おじさん構文」で、こう書いてみるとまだまだ不勉強だなぁと痛感させられるので、あまり晒すのは恥ずかしいのだが、インターネットに転がっている他作者の「作品」を引用するわけにもいかないので、忸怩(じくじ)たる思いで掲載した。

 

 私は、「おじさん構文マスター」になりたい。

 私には夢がある。おじさん構文マスターになることだ。

 この世にはさまざまなマスターがいるけど、その中でも最悪の部類に属するマスターだろう。「嘘松マスター」と同じくらい最悪だ。

 だけどそこに痺れる、憧れる。

おじさん LINE】で検索すると上記のような気味の悪い文章がわんさか出てくるので、是非とも見ていただきたい。

 

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 援助交際(またはパパ活、もしくはデリヘル)で知り合った女の子におじさんが送る真心こもったLINEやメールには味わい深いものがある。

 その文章には、真心という名の下心がありありと読み取れ、どうやったら今晩にでも会ってホテルへ連れ込めるか おじさんなりの苦心と努力がうかがえる。直球のカーブボールのような文章なのである。

 

 やたらと絵文字を使って、若い子に年齢は離れていても精神年齢だけは近いんですよアピールをしようとする。それがかえって「おじさん」たらしめている皮肉。

 やたらと句読点が多く、まるで加齢臭と煙草臭と共に耳元で囁かれているかのような不快感。

 なんか微妙に文脈が合っていない唐突さ。

 絵文字と顔文字の不適切さ

 そもそも日本語がおかしい。

 「チャン」表記。

 だけど挨拶は欠かさない。なぜなら、挨拶は礼儀だから。

 行間から読み取れる「君のために頑張ってる格好良い男アピール」と「君に甘えたい、年齢とギャップのある可愛い男アピール」

 その両方について考えだすと、日本人男性の包まれている母性社会の病理とか文化的な男尊女卑と深層心理のギャップとか男女平等社会の希求とその絶望、ひいては少子化などさまざまなことを考えさせられ、この国に未来はないのではないかと悲しくなってくる(実際、未来はない)。

 

 おじさん構文とは、たったあれだけの文章で、さまざまな思惑が読み取れるにもかかわらず、その根底にあるのは「下心」だけという、まるで時間の無駄みたいな読むにも価しない文章なのである。

 下心、どころじゃない。

 底なし沼に無いと言われていた「底」に落ちているような、観音様だったら泣いて救済をして煉獄(れんごく)へ連行するレベルの、現世ではもはや救われないほどの下心なのである。

 底心。

 なんて浅ましく汚らしいのだろう。

 

 そんなおじさん構文が私は好きでたまらない。

 どうかしちゃってるのだろうか?

 この楽しさは、たとえばお化け屋敷に入ったり、バンジージャンプしたり、激辛料理を食べたりすることと似ている(これらアクティビティと並列するのも失礼だ)、スリル感というか、怖いもの見たさ、なところがある。

 誰かが必死に書いた文章を「怖いもの見たさで笑いものにする」なんて最低だ。私には文章を書く資格がない。

 

 そう、おじさん構文は「必死」なのである。

 思惑、婉曲、苦心、欲望、理性、さまざまな書きたいことを おじさんなりに配慮して(結果としてメッセージを送ることそれ自体が「配慮」とは程遠いのだが)、時間をかけて書いているのだ。

 皆さんも一度おじさん構文で書いてみるといい。

 これが結構大変なのだ。

 それなりに時間がかかる。

 書き終えたとき、達成感よりも「無駄無駄無駄無駄」って声がこだまするので、ぜひ試していただきたい。

 

 

 恋人がたまにLINEで「おじさんやって」と言うので、私は頑張っておじさんぽいLINEを送る。

 そのうち恋人もおじさんぽいLINEで返してくるので、ぱっと見、最悪のLINE画面ができあがることになる。

 

落下に身を任せて

  ェット・コースターに乗るべき時が来たんだな。何の脈絡もなく、そう思った。

    思い込みは激しい方で、一度そうと決めたらすぐさま行動しないと気が済まない、が、大人のさまざまな都合があって、ジェット・コースターに搭乗しようと思ってから1ヶ月、ようやく今日乗れた。

 

    どうしてジェット・コースターに乗ろうなどと思ったのだろう?

    私はどちらかと言えば絶叫系アトラクチョンが苦手で、回転木馬や観覧大車輪くらいしか楽しめず、というか遊園地自体昔から嫌いで(なぜならあそこは欺瞞で溢れているから)、ジェット・コースターなんて恐ろしいアトラクチョンを楽しむ人たちはよっぽどの馬鹿なんだなと思っていた。馬鹿と煙は高いところが好きだと言うし。

    ジェット・コースターが好きな人は希死念慮が強い人たちなんだろうな。そう決めつけて(思い込みは激しい方なのだ)、なんかその人たちの浅ましさがかえってバカバカしく、呆れてしまった。

    ここまでの悪口はすべて、ジェット・コースターにビビりまくった末に出てきた難癖なので、ジェット・コースターが好きな人も嫌いな人も無視してくれて結構です。

 

    そう、正直言って、ジェット・コースターは怖い。

    なぜジェット・コースターが怖いのかわざわざ書くことはしまい。高くて、速くて、落ちるから怖いのだ。低くて遅くて平坦なジェット・コースターがあったらそれはベビーカーだろう。つまらないけど便利だ。

 

    ここまでこう書いてきたわけだから、私がジェット・コースターを苦手であることは おわかりいただけただろう。

    ジェット・コースターに偏見を抱き、乗れば恐怖し、一度も楽しめたことがない。

    それにも関わらず、私はある日唐突に、「ジェット・コースターに乗ろう」と思った。口に出したら、恋人に「なにがあったの?」と言われた。なにがあったのだろう。私こそ知りたい。

「今すぐ乗りたい。ものすごく乗りたい」となった。

「どうかしちゃったの?」

    なぜなのかはわからない。どうかしちゃったのかもしれない。

    

    人生において ときどきこういったことがある。

    今まで苦手としていたもの、できなかったこと、食べれなかったものを前にしたとき、急に「今ならできる」と確信するのだ。

    失敗をする気がまったくしなくて、成功の確信があり、栄光の未来を思い描ける。

「人生がまた一段、次の階段を昇るのだろう。次のステージへ行くのだろう」

    そう思える瞬間がある。

    そこに根拠はないけど、とにかく自信があって、唐突が過ぎ、過去の全てを否定するような勢いがある。

    今回このジェット・コースター克服についてもそうだった。

 

 

    ↓

 

 

    やって来たのは、東京ドームシティのジェット・コースター「サンダードルフィン」。すごい名前だ。小学生に公募したのかな。

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    落差80mくらい、スタンダードなジェット・コースターで、コース上、ビルに開けた穴を通り抜けたり、観覧大車輪の輪をくぐったりするユーモアがウリだ。好きです、そういうの。

    都内の絶叫アトラクチョンの中では怖いと専らのウワサ。

    おれは今回、これに乗った。独りで。

 

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     乗るぞ!

 

    ↓

 

    乗った。

    あっという間であった。

 

    もちろん、ガタンガタン頂上に昇り詰めるまで緊張してドキドキしていたけど、恐怖というものは一切なくて、「これは楽しめるぞ」という期待しかなかった。

    不思議だ。

    この間まで、ジェット・コースターなんて乗りたくもないと思っていたのに。

    念仏を唱える間もなく、乗り物は落下をはじめる。きゃあ、きゃあ、と前から順に次々と、悲鳴が轟く。わずか0.5秒くらいの間に時間が凝縮されて、「次々と」なんて書ける精神の余裕が生まれる。

    不思議だ。

    物凄い落下、速度、体が浮く、声が出る、声が出ない、息が止まる、空の次に地面が見える、おれは今ジェット・コースターに乗っている、おれは今、ジェット・コースターを楽しんでいる。

    不思議だ。

 

    あっという間に楽しい時間は終わった。

    余韻が残ってる。興奮の余韻だ。

    肩の荷が降りたような、なんか体が軽くてウキウキした。ジェット・コースターには除霊効果もあるのかもしれない。

    不思議だ。

    次来たときも絶対に乗ろう。

 

    時にはこうやって、衝動と勢いに身を任せた方が楽しい。

消耗

  にかく疲れている。心が。

    飲み会があると、その後日はかなり心をやられる。このせいで、12月と1月は日常面でかなり心が腐っていたし、本もあまり読めず、書くことも疎かだった。

    12月の飲み会の弊害が回復したところで、新年会があった。私が幹事を務めた会社の新年会だ。

    徹底的に、やられた。

    とくに好きでもなく嫌いでもない人たちと食事を共にするとは、こんなにも苦痛なものかと驚く。食事の味がほとんどしないのだ。

    焼き鳥なんてぶつぶつゴロゴロして気味が悪いし、茶碗蒸しは熱くてドロドロした意味不明のペーストであった。美味しいと思える心が欠如して、砂か泥か人の指を食べてるみたいな感覚しか感じられなくなる。

    みんなは美味しいと言ってくれたし、楽しくお喋りできたみたいで、幹事を務めた私を労ってくれたのでよかった。食事はちゃんと味がしたらしい。

 

    飲み会が嫌いなわけじゃない。

    友だちや普段とくに関わっている上司や先輩たちと飲むのは楽しい。

    よく知らない人たちと飲んでも、料理の味はしないけど、よく知らない話を聞けるので為になる。ただ、会社の、あるメンバーで開催される飲み会の後は、死にたくて仕方がなくなるのだ。

 

    自分はなんて劣る存在なのだろうと思う。

    さまざまな過去の失敗や後悔がフラッシュバックして気持ちが悪くなる。小さな存在で、孤独で、愛されないなと思う。

    面倒臭くて、中途半端で、努力もできず、勝つこともできず、それどころか頑張りきることもできない。

「甘いよ」

    何をやっていても心の中のご意見番がすべてを否定する。「よくやった」なんて言ってくれない。今まで誰からも言われなかったように。

    こんなブログを書いている時点で、人間性が終わってる。

 

    こんな自分を愛してくれている恋人に申し訳なく思う。

    だから、がんばろう、と思う。

    なにを頑張ればいいのかわからないから教えてください。資格とか取ればいいのでしょうか。

 

    そもそも生きる気力がなくて、なんか意志というか、死にたくないな!ってことがなく、ただ漫然と生きているのであるから、なにに対してもやる気がない。この世は死ぬまでの暇潰しなのだ。死んだら死んだで別にいい。というかむしろ死んだ方が良いとされている。

    恋人がいるから死ねないだけなんだな、と常々思う。

    恋人がいる限り自分から死ぬことはできない。

 

 

    どうして飲み会と鬱が接着するのかわからない。

    いや、本当はわかっているのだ。

    飲みの席でそこにいない人の悪口を聞いたり、そこで自分とその人を比べてしまったり……尊敬する上司がいるからだ。

    この人みたいに素晴らしくなりたいと思う。憧れる。

    そこから来る自分の劣等感に押し潰されてしまうのだ。人の悪口を聞いて、その人と自分の存在はどう違うのか、みんな陰で自分の悪口を言っているんだろうな、みんなが言うように僕もクズなのだろうな。あの尊敬する上司には死んでも届かないな。

    なんて身勝手で、矮小で、情けないのだろう。

 

    じゃあ頑張れよ、努力しろよ、今日だって寝てただけじゃないか!お前には自分を卑下する権利すらないんだよ。体を動かせよ!

 

    心の中のご意見番がそう言ってくれてる前で私は、耳を塞いで固まっている。

    

画面を見つめ続けて

  ログになにを書こうかとモニターを見つめ続けて早20分、何も書けていない私はとりあえずタイトルに「画面を見つめ続けて」と書いた。

 はたしてこのタイトルに続く文章はどうやってはじまるのだろうか?どこまで続くのか?1000文字も書くことがあるのか?この時点では、一切は闇に包まれている。始まらなければ始まらないのだ。

 

 書きたいことは山々あるのだけど脳内でひとつずつ検証すると、それは資本主義への怒りだったり白人文化至上主義ひいては日本文化の在り方についての嫌悪感だったり性差別への不快感だったり、なかなかセンシティブな話題であることがわかり、それらを露わにするには今は疲れていて、疲れているからそんな話題ばかり出てきてしまうんだなと思った。

 ちょっとでも不満を書きはじめたら終わらなくなって、書き終えたときに惨めな思いをするからやめておこう。

 暗い感情は吐き出さないととても苦しいのに、吐き出すのはもっと苦しい。暗い過去や考えを人に話すと、その人は嫌な思いをするだろうし、私は自分自身がさらに嫌になる。

 どうしようもなくなって、死にたくなる。自己防衛のためにまた心の殻を厚く塗っていく。

 吐き出したい感情をどんどん吐き出せなくなる。

 おっとっと、ほらほら、書き出したら止まらなくなるだろ。やめとこ。私は疲れているのだ。

 

 そう、とても疲れている。

 最近は仕事がハードだったし、昨日は飲み会があって家に帰れなかったのだ。

 家に帰れなかったので、ブログを書けなかった。

 ブログを書くのを一日でも止めると(ブログの更新を一日止めてしまうと)、なんだか微妙に生命のリズムが狂ってしまう。時計の秒針が5秒くらい遅れているような、些細な違和感がある。

 どうして飲み会程度で家に帰れなくなったのか、よくわからない人にはわからないだろう。

 私だって家に帰りたかった。2次会に行かずにしれっと帰りたかった。

 「自己責任で、断れないのが悪い」そう言われるだろう。その通りなのだし、その言葉は正しいのだけど、合ってはない。

 世の中には断れない事があるし、断ってもどうしようもないことがあるし、断っても意味がないことがあるのだ。

 昨晩は、断っても意味のない夜だった。まるで運命づけられていてそれに引き寄せられるように、私は家に帰れなくなり、上司(男)の家へ泊まることになる。そこで眠れない夜を明かすことになる。

 そういうわけでブログを更新できず、あーあ、と思った。

 ブログなんて書かなくても生きていけるし、書きたくなかったら、書くことがなかったら無視していればいいのだが、どうしても微妙に遅れたり早くなっていたり時々止まって見える秒針の動きが気になってしまう。

 ブログを書いて、生活の呼吸を元に戻したい。

 

 そのために画面を見つめ続けていたのだ。よかった、ひとまず書けて。

誰も傷つけない物語は可能か

  掲題の、読んだ人を誰も傷つけることのない物語を書くことは、可能である。

 ただし、その物語は無機質で主人公といったものは存在せず、何も起こらなければ何も起こさず、読んだ人の心にはまったくなにも残さず、さながら空気のように意識を通り過ぎていくものだろう。

 

 皮膚に傷がつくのは、触ったものに棘や鋭利といった「刺激」があるからだ。

 刺激は、物語中でアクセントになったり、ひとつのテーマとなって、読む人を楽しませる。

 だがその刺激によって──その刺激の「要素」によって──ある読んだ人のトラウマを呼び起こし、傷を掘り返し、心を傷つける。トラウマを呼び覚まさなくても、嫌悪感を抱かせるなどして不快にさせるだろう。

 相反して、しかしながら、刺激の無い物語はつまらない。

 達成感も喜びも閃きもカタルシスも惹起させない物語はもはや虚構の役割を放棄しているかもしれない。

 

 私が書いた物語やブログも誰かを傷つけるだろうか?

 否定はできない。

 人は人の数だけその過去があり、どこでどんな記憶と痛みを抱えているかなんてわからない。

 「コウペンちゃん」で傷つく人がいるし、「闇金ウシジマくん」で傷つかない人もいるのだ。

 いちいち気にしていたらろくに書けなくなる。

 作者というものは誰かを傷つけたいと思ってそれを書いているわけではなく、ただ楽しんでいるだけだったり、苦しみを解放させているだけで、そこに悪意はないことをご承知おきいただきたい。

 言い換えてしまえば、読んだ人が勝手に傷ついているだけなのだ。

 冷たく、酷い言い換えに見えるかもしれないけど、私はそう思っている。

 

 私だって世間に溢れる、みんなが面白がっているコンテンツで傷つかないわけがない。

 ときにトラウマを抉られて、眠れなくなる夜もある。悔しくて、憎くて、怒りで悪夢を見る夜がある。

 だけど作品に罪はない。作者に罪はない。傷つけようとして存在しているわけではないのだ。誰だって、風が吹いて目に入った砂粒に賠償金を要求して罪を追求することはできない。

 

 私はドラマでも漫画でも小説でも映画でも、「不倫」が出てくると、たいへん気分が悪くなって体の奥底がワナワナと震える感じがする。

 たとえ作中の不倫者が最後は痛い目に遭おうとも、そんなこととは関係なしに、もやもやとした気分を残してしまう。

 不倫して家庭を崩壊させた父親を思い出すのだ。

 権力者だった父親は権威を揺るがされることを恐れて自分の不倫を周囲に隠し、離婚した理由を「妻が精神病になって入院したり子どもをDVする」などと日本全国の顧客に嘘を吹聴した。

 母をうつ病になるまで痛めつけたのは父だ。父の不倫と嘘と、シンプルな暴力だ。私が朝起きてリビングに出たらテレビが割れていたことがある。「母さんが物を投げて割ったんだ」と父が言ったのを幼い私は愚直にも信じていたけど、あとから話を聞いたら本当は不倫を糾弾されてキレた父が母をテレビに投げ飛ばしたのだった。だけど奴は「妻はテレビを壊すほどヒステリーなんだ。こっちがまいっちまうよ」と事実を捻じ曲げて、権威を用いて完璧な自己保身をしていた。

 あいつは、父とも書きたくないあいつは、そういう奴だった。

 「不倫」や「浮気」のコンテンツに触れてしまうと、忌まわしいあいつのことを思い出してしまう。

 

 誰かにとって面白いコンテンツは、また誰かにとって苦しいものなのだ。

 

 私は不本意に誰かを傷つける物語を書いたとしても、綺麗ごとだけど、最後はその人の救いになるような物語を書きたい。