掲題の、読んだ人を誰も傷つけることのない物語を書くことは、可能である。
ただし、その物語は無機質で主人公といったものは存在せず、何も起こらなければ何も起こさず、読んだ人の心にはまったくなにも残さず、さながら空気のように意識を通り過ぎていくものだろう。
皮膚に傷がつくのは、触ったものに棘や鋭利といった「刺激」があるからだ。
刺激は、物語中でアクセントになったり、ひとつのテーマとなって、読む人を楽しませる。
だがその刺激によって──その刺激の「要素」によって──ある読んだ人のトラウマを呼び起こし、傷を掘り返し、心を傷つける。トラウマを呼び覚まさなくても、嫌悪感を抱かせるなどして不快にさせるだろう。
相反して、しかしながら、刺激の無い物語はつまらない。
達成感も喜びも閃きもカタルシスも惹起させない物語はもはや虚構の役割を放棄しているかもしれない。
私が書いた物語やブログも誰かを傷つけるだろうか?
否定はできない。
人は人の数だけその過去があり、どこでどんな記憶と痛みを抱えているかなんてわからない。
「コウペンちゃん」で傷つく人がいるし、「闇金ウシジマくん」で傷つかない人もいるのだ。
いちいち気にしていたらろくに書けなくなる。
作者というものは誰かを傷つけたいと思ってそれを書いているわけではなく、ただ楽しんでいるだけだったり、苦しみを解放させているだけで、そこに悪意はないことをご承知おきいただきたい。
言い換えてしまえば、読んだ人が勝手に傷ついているだけなのだ。
冷たく、酷い言い換えに見えるかもしれないけど、私はそう思っている。
私だって世間に溢れる、みんなが面白がっているコンテンツで傷つかないわけがない。
ときにトラウマを抉られて、眠れなくなる夜もある。悔しくて、憎くて、怒りで悪夢を見る夜がある。
だけど作品に罪はない。作者に罪はない。傷つけようとして存在しているわけではないのだ。誰だって、風が吹いて目に入った砂粒に賠償金を要求して罪を追求することはできない。
私はドラマでも漫画でも小説でも映画でも、「不倫」が出てくると、たいへん気分が悪くなって体の奥底がワナワナと震える感じがする。
たとえ作中の不倫者が最後は痛い目に遭おうとも、そんなこととは関係なしに、もやもやとした気分を残してしまう。
不倫して家庭を崩壊させた父親を思い出すのだ。
権力者だった父親は権威を揺るがされることを恐れて自分の不倫を周囲に隠し、離婚した理由を「妻が精神病になって入院したり子どもをDVする」などと日本全国の顧客に嘘を吹聴した。
母をうつ病になるまで痛めつけたのは父だ。父の不倫と嘘と、シンプルな暴力だ。私が朝起きてリビングに出たらテレビが割れていたことがある。「母さんが物を投げて割ったんだ」と父が言ったのを幼い私は愚直にも信じていたけど、あとから話を聞いたら本当は不倫を糾弾されてキレた父が母をテレビに投げ飛ばしたのだった。だけど奴は「妻はテレビを壊すほどヒステリーなんだ。こっちがまいっちまうよ」と事実を捻じ曲げて、権威を用いて完璧な自己保身をしていた。
あいつは、父とも書きたくないあいつは、そういう奴だった。
「不倫」や「浮気」のコンテンツに触れてしまうと、忌まわしいあいつのことを思い出してしまう。
誰かにとって面白いコンテンツは、また誰かにとって苦しいものなのだ。
私は不本意に誰かを傷つける物語を書いたとしても、綺麗ごとだけど、最後はその人の救いになるような物語を書きたい。