蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ソフトドリンク・ハードコア

くなりたくて「ドデカミン」を買った。

「元気になる成分が12種配合されており、しかも増量されていて、これを飲めば百人力だわい」といった文言が記載されていた。

手に取ったのは、仕事終わりのことである。

 

ちかごろ私は一日2リットル以上の水分を摂取している。

昨日も麦茶を2本、お茶を1本、会社の備蓄の水を1本、日中に飲んだ。備蓄の水は消費期限が半年後なので消費しないといけないのだ。私が泥棒を働いているわけではないのであしからず。

──そういった、「楽しくない飲み物」を摂取しまくった一日の終りには、コーラやオレンジジュースといったソフトドリンクを飲みたくなる。

仕事終わりは疲れからか、糖分を欲する。

 

ところで、職場ではお茶しか飲んではいけない、というルールもないのでべつにコーラとかイチゴミルクとかノンアルビールを飲んでも差し支えないはずであるが、そうしないのは、職場の雰囲気がそうさせないというよりもなんだか仕事のテンションに甘いポップな飲み物がそぐわないからである。

味のついた水は、あまえだ、たるみだ、なんておもわない。

職場でイチゴミルクをがぶ飲みすることは、私的には墓場でバナナのたたき売りをするくらい、その場のテンションにそぐわないのだ。

 

だからこそ、というべきなのか、たまに「がぶ飲みメロンソーダ」など意識の低いソフトドリンクを購入し、あえて職場でがぶ飲みすることもある。がぶ飲みシリーズはがぶ飲みしないと失礼にあたる。

職場で飲む意識低い飲み物がいちばんうまい。

背徳感があって、ちょっと仕事をばかにしている斜に構えた感じがあって、自分は選ばれたのだという謎の高揚感すらある。もしかしたら墓場でバナナのたたき売りをすることも、やってみたら案外気持ちがいいものかもしれない。

ただその気持ちよさも、普段はお茶ばかり飲んでいるから味わえる快楽であり、普段から意識低くがぶ飲みしていたらただの意識の低い人間に成り果てて、糖尿病になって「終り」だ。

 

話が若干逸れたが、「ドデカミン」を購入したのだった。

ぐびりぐびりと飲むと、たしかになんらかの有効成分を感じ、胃が熱くなった。

普段ジジイの飲み物ばっかり飲んでいると、久々のソフトドリンクは刺激が強い。

昔はこの程度の甘い汁を飲み切れていたのだが、さいきんは一日で飲みきることが厳しくなってきて、今朝もまだ「ドデカミン」は元気成分を残している。

起きがけにひと口飲むと、目がバリッと醒めて、元気が出てくる気がした。顔がむくみ、頭がふらつき、軽い吐き気があった。

元気が出た気がしただけで、元気が出たわけではなかった。

僕の宗教になってください

の近所の坂の上に、小さな白い教会がある。

慎ましく荘厳さはないものの、直方体の塔の壁は白く格式があって、十字架が硬く堂々と屹立している。住宅街にうまく融け込んで、とても古そうなのだけど清らかさを感じさせる、静かな教会だ。

 

門に「今週のありがたいお言葉」みたいな格言が張り出されていて、毎朝私に戒めを与えてくださる。

「くちびるの皮をむくな」とか「ごぼうは水に浸けておく」とか「Wi-Fiの無いところでは動画を見ないようにする」などといったくだらないことではなく、たとえば「自分を愛せない者に他人を愛することはできない」とか「愛は分かち合うものではなくわかり合うものだ」とか「祈りは第一の動作であり心である」などの、なにやら有難く含蓄のある言葉である。

言葉、というか、お言葉、である。

 

日曜日に教会の前を通ると、ミサが開かれていたのだろう、スーツを着た人やサンダルにラフな格好をした人、老婆に子ども、さまざまな人々が集まり、談笑をしたりお菓子を配ったりしている。

その光景は、なんというか、その教会の壁のように白く清らかで、いつまでもお日様がやわらかい、陽だまりのような光景なのだ。

豊かさではなくて、尊さと慈しみの心がその陽だまりに丸く浮かんでいる。

あの人たちのためと、私のようなそうでない人たちのために、私も祈りたいとすらおもう。

 

   ↓

 

さいきん、宗教をもつ人が羨ましい。

教祖になってお布施でいい感じに暮らしたい願望もあるのだが、それはそれとして、信仰できる圧倒的なものを知っている人のことが羨ましい。

 

子どものとき、親って神様みたいなものだった。良くも悪くも。

親というか大人全般だ。

大人の言うことに従っておけばよかったし、大人の考えが世界を回していたし、私はその世界に組み込まれた砂のひとつぶにすぎなかった。すくわれることもあれば捨てられることもあったし、相手にされないこともあった。

良くも悪くも大人は神さまだった。

大人の言うことがすべてだった。

 

今、大人になってみると、あのころの大人を信頼しきっていたころが懐かしく、羨ましくなる。

大人になるって楽しいことだし、ぜひすべての人間が大人になって大人を楽しんでほしいものだけど、大人は大変だ。自分で決められる代わりに、自分で決めなければならない苦しみがある。

誰かに従っていれば自分は正しかったという、子どもの頃の生来的な免罪符は、大人になると効果が薄れて失われていく。

 

そうなった今、宗教をもって、絶大なものに我が身を任せて、祈りを捧げてみたいとおもう。

有無を言わさぬ圧倒的なものに頭を下げて、楽になりたいと、少しおもう。

迷わない人生は楽だろうけど、宗教があれば、迷いがまた道になる。

信じられる絶大なものが心のよりどころとしてあるだけで、どれだけありがたいだろう。

 

なんとなく時代も、そういった絶大なものを求めているような気がする。

 

   ↓

 

恋人は宗教ではない。神でもない。同じ人間で、一緒に迷ってくれる羊だ。

 

   ↓

 

誰かのために祈りたいとおもう。

そうして自分が赦されたいと考えている卑怯なことを、とりあえずここに告白する。

 

晩夏に句をまぢえて…

に外に出ると、風のにおいが少し乾いて、月が見え隠れして、虫の音がるるると聴こえてくるあたり、もう秋なんだな、と寂しくもなりつつも今年の八月の苛烈な暑さには参っていたので、ようやく一安心するものだ。

それはそれとして晩夏の夜の情緒をなんとかして閉じ込めて、いつでも再生できるようにしておきたい、というわけで、ここで一句。

 

絹治風 乏しの帰すを 視すヅ帖う

 

※「絹治風(キヌヂカゼ)」は「帖(ちょ)う」にかかる頭語で晩夏の季語。

 

さて、我々は冷凍庫にアイスがひとつも無いことを発見した。

それはインド人がゼロを発見したのと同じくらいの事件だったわけで、──冷凍庫にアイスが無いとQOL(クリスタイン・オヴ・リリィコング)が下がり、健康で文化的な最低限度の生活をしている身としてはこれ以上(あるいは以下)健康で文化的な最低限度の生活の質が下がると、健康で文化的な最低限度の生活を続けられなくなってしまうため、健康で文化的な最低限度の生活を続けるためにも、我々はアイスクリームを買いに、晩夏の夜へ下駄をつっかけて出かけたわけである。

 

アイス買い 友目の癇さ 月見ごろ

 

 ※「アイス買い」は桃山時代の職業を指す夏の季語

 

任意に私が「恋人」と称している人物とアパートを出たところ、階段に五分の魂が蠢いていた。

それは甲虫のなりをしていた。

街灯に硬い翅が丸く鮮やかに光っていて、命の誇り、とまた一句捻りたくなったほどだった。

これはカナブンだ、心配いらん、と私は階段をさささと降りたのだが、任意の恋人が了解せず、怖いと言って階段の上に膝を曲げ、きゃあきゃあ言いながら「マジで無理マジで無理」と謳う。

任意の恋人が可哀相だったが、五分の魂だって五分も魂があるのだからそこにいるだけで恐れられるとは悲しいことである。

任意の恋人の一時の安心のために五分の魂を殺害するわけにもいかないので、私は弁を振るい、これがいかに無害で美しい生き物であるかを説いた。

任意の恋人は私の話を聞かずに、きゃあきゃあ言いながら階段を無事に降りた。

 

金久里庫 灯転がす 淫廟段

 

 ※「金久里庫(かなくりこ)」はカナブンの古い言い方

 

我々は超市場でかつおぶし、鯖、アイスクリームを無事に購入した。

鯖は切り身が99セントで買わない方が失礼なくらいだったので、ノリで買った。明日の晩に食べよう、とか言って、幸せだった。

アイスクリームは奇跡的にいつもより安く売っていて(セールって言うんですか?初めて見ました)、これで健康で文化的な最低限度の生活をおくることができると、任意の恋人と安堵してあつい抱擁を交わし、一曲踊った。

 

〽去年のあなたの思い出が

 テープレコーダーからこぼれています

 あなたのためにお友だちも

 集まってくれました

 

手をつなぎ、アパートへ戻ると、五分の魂は路頭に迷ったようにまだ階段をウロウロしていたが、任意の恋人はさすがに声も出さずにそそそと階段を上がり、私たちは巣へ無事に帰ったのであった。少しの間にも心情の変化があったのだろうな。それは季節が変るみたいに、その瞬間には気付けず、あとになって気付くものだ。

という、ある晩夏の、なにげない一日について今日はブログを書きました。いかがでしたか?

 

弔いか 涼極陽淡 iwassameta

 

 ※「涼極陽淡(りょうごくようたん)は冷凍庫の古語

 

 

路線図に思いを馳せて暇をつぶそう

車の路線図を眺めることは趣味と言えるのだろうか?

趣味と言うほど熱心でもなく、電車の壁に貼ってあるものをときどき眺める程度なのだが、見始めると熱中することがある。

どこか遠くの街の、知らない電車の路線図を見つめて、その場所に旅行に行ったらこの駅で降りるのだろうとか、この街に住んでみたらこんなところがあるのだろう、などと妄想を膨らませて、ない現実を夢想することに勤しむ。

よっぽど暇なのだろう。

 

路線図を見つめているとさまざまな気づきがある。すべての土地に名前が付いているのだなぁとおもうものだ。そして地名にはもちろん意味がある。

 

 

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これは井の頭線の路線図の一部だ。吉祥寺─渋谷を結ぶ路線である。

渋谷は言うまでもなく副都心で、吉祥寺は武蔵野のほうへつづく住みよい街である。

この路線図を見ているだけで、吉祥寺に至るまでの地形がなんとなく見えてくる。

浜田山─高井戸─富士見ヶ丘久我山三鷹台 という一連の駅名から、なんかこのあたりの標高がちょっと高いことがわかる。

「高井戸」という地名は古くからありそうなくせに由来がよくわからなかったのだが、これで合点がいく。きっと、「高い場所にある井戸」というそのままの意味なのだ(下高井戸という場所もあるがそれはおいておこう)。

渋谷は「谷」なので土地が低く、途中の下北沢は「沢」なのでおそらく、吉祥寺方面から渋谷方面にかけて土地がだんだん低くなっていってるのだろう。

 

 

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これは小田急小田原線の路線図の一部。

「相武台前」という駅名がある。高校の頃、友だちが相武台前に住んでいた。

彼曰く、「相武台」と称する台はどこにもないらしい。本当かどうか知らないが、彼が言うにそのような台はなく、小田急が勝手に「前」をつけているだけらしいのだ。

これはちょっと怖いことだ。

新潟県にある糸魚川(いといがわ)という地名も似たようなもので、実際「糸魚川」という川は歴史上どこにも存在していなかったらしい。

なぜ、ない地名が「ある」のだろう。

小田急の路線図を眺めているとき、このような地名の闇の隅をつつくような不安を覚える。

 

 

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千葉県の路線図を見てみよう。

路線図を中心として無理矢理地形を当てはめている歪な千葉県の地図だ。

路線図のこういう歪さに想いを馳せても面白い。

きっと地図会社の人は、路線図の邪魔にならない程度に地形を描くことに苦心したはずである。本来の地形から逸脱しすぎてもよくないし、かといって本来のものに倣うと路線図が見えにくいし……その点において、この千葉県の路線図はかなりギリギリなのではないか。

ところで、「千葉」の右上を見ていただきたい。

 

 

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ユーカリが丘線」がある。

張りめぐらされた鉄道網のなかで、ユーカリが丘線は路線図といい、名前といい、なんだかユーモアにあふれてテーマパーク的な趣があるではないか。

こういう「謎路線」は他にもある。

 

 

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JR鶴見線、どうやって運行しているのだろう。

海芝浦行き、大川行き、扇町行きがそれぞれあるのだろうか。

鶴見線はなんの用もないけどそのうち乗ってみたい。

鉄道好きなので、鉄オタの友だちがほしい。いろいろウンチクを聞きながら乗っていたい。

 

 

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ゆりかもめ芝浦ふ頭お台場海浜公園間で一回転するところがテーマパーク感ある。

きっと乗客を楽しませようとしているんだなぁ。そうに違いない。

駅のホーム間を移動するための歩道橋は人を楽しませるために架けられていると勘違いしていたのは誰だったか、思い出せない。

そんなエピソードを思い出さずにはいられないけど、それにしても、こういう一回転や変わった路線図は、人を楽しませるためにやってるんだとおもった方がちょっと幸せになれる気がする。

 

そんなことを考えながら移動の時間を潰すのも雅ですよ。

よっぽど暇なのだろう。

だからお前はダメなんだ

「した方がいいかな」とおもったことは絶対にした方がいい。

これは24年生きてきて最近気づいた法則で、主に仕事の場面ではよく直面する問題である。

「した方がいいかな……でもしなくてもいいよな。面倒くさ。知るかばか。帰ろ。帰って飲酒に浸ろう」などとその場を疎かにすると、帰宅後に急激に気になって落ち着かなくなったり、後日、そのときのミスが発覚して大変なことになる。

だいたいこれによって私のミスは引き起こされる。

ひどかったのは、「めんどくさ。報告するほどのことでもないわ」とおもったものが5カ月後くらいにミスとして発覚し、取り返しがつかなくなったことがある。やれやれ。

「した方がいいかな」とちょっとでも思ったのなら、した方がいいに決まってる。

ベストを尽くすべきなのだ。

すこしでも疑問に思ったり、引っかかったことがあったら、いったん手を止めて、先輩に相談すべきだ。

どうしてそんな簡単なことができないのか、つくづく呆れてしまうけど、そこには怠惰と薄っぺらいプライドがあって、自己分析するほど自己嫌悪に陥る。

臆病に思う気持ちがあって「確認」の作業が入るのだが、その臆病さが「隠ぺい」のベクトルを選ぶとろくなことにならない。薄っぺらなプライド。卑怯な臆病。

すべてはベストを尽くそうとしないから後悔に至るのだ。

昨日もベストを尽くさなかったために、今とても後悔している。

 

何事においても、ベストを尽くそうとすべきだ。

 

   ↓

 

このように、最近気づいた当たり前のこととしてもう一つ挙げたいのが「横着するな」だ。

物事を横着してやろうものなら、正当にやるよりも時間がかかり面倒くさいことになる。

そんなことに24年生きてきて、最近ようやく気付けた。

ゴミを捨てるときは遠くから投げ入れるよりも、きちんと側に寄って捨てた方が確実だ。

物を運ぶときは全部一気にのろのろ運ぶのではなく、小分けにして往復した方がいい。

横着はいかん。

きちんと身体を縦にして、てきぱき動いたほうがいいに決まっている。

 

つーか、ここまで書いて思ったけど、私の失敗の基本にあるものは「怠惰」なんだな。

ということは、怠惰癖を直せば万事はうまくいくということ。

万事が上手くいけば、人生はウマい方向に転がり、そのうち豪邸に住んで大きな犬を飼い、高級な猫を飼い、池には錦鯉が泳ぎ、家は綺麗で、外車に乗り、プールがあって、壁にはアートが飾ってある。美しい木目の柱がある。食パンは高級生食パンしか食べない。

怠惰を正せば、そうなれるに違いない。

私は怠惰をやめるぞ。実直に、真面目に生きるぞ。

 

でも動くよりも、こうして想像してる方が楽なんだよナ。

休み時間にトマトソースを煮込むこと

日は午前中から仕事がかなり厳しくて、サーバーが落ちたり、サーバーに接続できなくなったり、全然関係ないところでさまざまなことが起こって、しかもひとつひとつの難易度が高く、泣きそうになった(でも泣かなかったよ)。

自分のやりたかった仕事はひとつも手が付けられず、昼食時間になった。

食事をしながらも仕事のことで頭がいっぱいになり、こんな時間くらい忘れていたいものを、カップラーメンも味が薄く感じる。

在宅勤務で素晴らしいのは、昼休みにベッドで眠れることだが、昨日の私は違った。

とても偉いので、夕食の下準備をしたのである。

 

恋人のかねてからの要望もあったので、この日はトマトソース・スパゲティを作った。

以前にも書いたが、トマトソースを作ることは新宿駅で乗り換えることよりも簡単なことだ(喩えが悪いことは認めている)。

炒めて、煮詰めればいい。

簡単だけど、作っているときはなんだか丁寧な気持ちになれる。

いいものを作っているな、という実感がある。

コトコト煮詰めている時間、その穏やかでゆっくりな時間がきっとそう思わせるのだろう。

 

その穏やかな時間に浸っていると、仕事のことを忘れ、自分の時間と自分の心を取り戻すことができた。

部屋をニンニクとトマトの鮮やかな香りが満たす。

ちょっとした自分の生活の時間を守ることで、心も落ち着きを取り戻し、冷静な気分になって仕事に戻ることができた。

これまでは休み時間に寝ていたのだが、本を読んだり部屋の掃除をして時間を有効活用した方が精神衛生上いいのかもしれない。それには強い意志が必要とされるが。

 

午後、仕事は捗り、なんとかそこまでの残業をしないで終わることができた。

ちょうど帰ってきた恋人と、トマトソース・スパゲティと、アボカドとチーズのマリネを食べた。

トマトソースはもう少し塩気があってもよかったらしい。

朝のテーマソングとパブロフの犬

ざましテレビでやっている「きょうのわんこ」だけがこの世の救いなのです。

きょうのわんこ」しか勝たん。

 

毎朝めざましテレビを見ていると、嫌でも耳につくのが髭男dismの「Hello」だ。

天気予報の時間になるとこのテーマソングが必ずかかる。

何を考えているのかわからないが、「Hello」をかけて今日も一日がんばりましょう的な魂胆があるのだろう、「気温は35度」なんて地獄みたいなことを言いながら背後で「Hello」と歌っている。

 

この曲はぜんぜん悪い曲じゃない。

むしろ良い曲だ。好きだ。

どこがいいかというと、ベースの動きがいい。

終盤で半音ずつ下がっていくところが格好良い。

「Hello」と明るく歌っているのに、曲調がすこし下がり気味というか、決して明るくないところは、「Pretender」が別れの曲なのに明るい曲調であることと対照的になっている。「グッバイ」に対して「Hello」だし。

明るい曲調ではないけどマーチングのような力強さがあって、朝の気怠さを認めつつも励ましてくれるような、そんな堅実さのようなものを感じさせる、優秀な曲だ。

 

良い曲なのだが。

 

だんだん嫌いになってきた。

なぜなら、朝に聴く曲だからだ。

昨晩FNS歌謡祭を見ていたら髭男が登場し(ところで髭男と書くと変なおじさんみたいだ。発音は「ヒゲダン」なのに)た際に「Hello」を熱唱していたけど、私は朝、つまり「仕事に行く前」をその曲のせいで思い出してしまい、頭を抱えて平伏し、身を縮めて首元を隠し、つい本能的に「熊から身を守る姿勢」をとってしまった。

「Helloが流れると仕事に向かわなければならない」という条件付けができてしまい、最悪のパブロフの犬になってしまった。

 

朝の情報番組のテーマソングは、そういった意味では損な役回りの曲だ。

ものすごい宣伝効果はあるだろうけど、どんなにいい曲でも「仕事」や「学校」と条件づけられ、そのうち曲自体よりも、「曲が流れている状況」のほうに反応してしまい、嘔吐、頭痛、蕁麻疹などのアレルギー反応を起こしたり、アナフィラキシー・ショックに至ることもある。そういうひとはちょっと病気なので学校や仕事を休んだ方がいいだろう。

 

しかも、そのテーマソングは局の朝の顔になるので、やたらといろんな番組でかかる。

どんなにいい曲でも、朝のテーマソングになることは避けた方がいいだろう。

朝のテーマソングは、日替わりにするとか、オルゴールにするとか、あるいは川のせせらぎでいい。

極力パブロフの犬化を避けてほしいところだ。

 

きょうのわんこ」なだけに。