蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

すげ~人たちってすごい

と、どういう生き方をしたら官房長官や総裁や内閣総理大臣になれるのか、わからなくなった。

半沢直樹』を見ていて、どうやったら頭取になれるのか、よくわからなくて、話が頭に入ってこず、「おじさんたちが大声で吠え合っている」状況を楽しむだけの低レベルな視聴者になってしまった。

 

弊社の社長だってすごいことだ。従業員が2500人いるうちのトップなのだ。

どういうことなのだろう。

なにをどうやって生きてきたら、そんなトップの人間になれるのだろう。

 

ここで私が話したいのは、どうやったらトップになれるかの実際的な方法論ではなく、ただただ「すげ~な~」ってことだけである。

すげ~よな~~~。

菅総裁と同じ生き方をしたら、私でも総裁になれるだろうか。

朗らかなお爺さんだけど、いままでにたくさんの苦労があったし、ここまで上り詰めるにはお爺さんになるまでの時間がかかっているのであって、基本的に努力の人である。

政治家なんて家柄や血筋も大事なんだろうけど、それ以上にやっぱり、人事を見極める判断力とか文脈を読み解く力とか、もちろん語学も必要だし、あらゆる分野の知識と経験がなければならないのだろう。

普段、われわれ庶民は政治家や官僚をやたら馬鹿にしたり上げ足を取ったりもするが、あの人たちは大前提としてものすごく頭がいいということを忘れてはならない。とてつもなくお勉強ができるのである。そこが前提でなければならない。

そしてもう一つ忘れてはならないのが、テストのお勉強だけできてもしょうがないということだ。

コミュニケーション能力も必要だし、もっと突き詰めてしまうと人柄とか為人(ひととなり)とか自分のビジョン(思想)を確立するだけの知力と求心力が必要なのだろう。

 

総裁に限らず、大企業の社長はそういった人たちばかりで、基本的には物凄い人たちなのである。

めちゃくちゃ努力をしてそこまで上り詰めた、ということにおいて、トップは尊敬にあたいする人だ。

たとえば阿闍梨(あじゃり)という存在が有難いのではなく、阿闍梨に至るまでの過酷な修行を修めた努力の人であるという点において有難いのと同じことだ。喩えがわかりにくいな。

スポーツの試合に泣いてしまうのは、選手が強くて格好良くて涙が出るのではなく、その舞台で勝利するまでに積み重ねた努力を想って泣けるのである(人によります)。

 

人々から慕われて部下をたくさん従えて集団をより高みへ引っ張ってくれる、そんな実績のあるトップは、なかでも特にすごい人だ。

 

菅総裁、すげ~とシンプルにおもったのでした。

カレーを作って信頼回復を図る

レーはどう作ってもカレーになるから優秀だ。

冷蔵庫にある、なんか良さそうなものを勘に任せて入れても、かならずカレーになる。

食材を好きなように刻んで、炒め、煮、その辺にあったテキトーなスパイスを入れて、カレールーを入れればカレーになる。カレー以外のものにはならない。

ほかの料理はときどき狙っていたものにならなかったり、突然方向性を失い別の料理になっていたり、見た目だけは立派だが食べてみたら毒物になっているなどブレが烈しいが、カレーはカレールーさえ入れればカレーになる。安定感がある。

いろいろ好きに入れた結果、微妙な味わいの違いがでてきて、家庭によってオリジナリティが出てくるところも素敵だ。

日によって入れるものも分量も変わるし、鍋に寝かせればまた味わいが変ってくる。

この世に二つとして同じカレーはない。(レトルトを除く)

 

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土曜の夜にカレーを作った。

これから一週間、お世話になる大事なカレーである。

これを失敗すると、多くの食材が無駄になり、じっくり煮込んだ時間が無碍になり、一週間の食べるものがなくなるので大事な局面であった。

だが私は落ち着いていた。

なぜなら、カレーはどう作ってもカレーにしかならないからだ。

突然おでんになることはないし、爆発して魔人が出てくることもない。

「あなたの作るカレーは美味しいから」と恋人に信頼されている。

「ありがとう」と僕は答えるけど、カレーはどう作ってもカレーにしかならない。彼女が信頼しているのは僕ではなく、ジャワカレー中辛なのだ、と言うことを僕はあえて言わないでおく。信頼はあればあるほどいいものだから。

付き合って5年目になるけど、日々僕は彼女からの信頼を失っている気がする。さまざまな要因がある。僕は求められている結果を出さなければならない。

5年目は信頼を回復させ、より愛を育んでいかなければならない。

 

ここで美味しいカレーを作ることは、そういった意味でも大事な局面であった。

カレールーを入れてから、都度味見をしながら調整していく。

ラー油を入れてみたり、ソースを入れてみたり、みりんを加えてみる。ハチミツも入れる。練りショウガとか試みに入れる。

味見をしていくうちに味がわからなくなっていく。

カレーの味しかしないのだ。

恋人に味見をさせていくうちに彼女もわからなくなっていく。

「美味しいんじゃないかな」と彼女が言うまで僕は味見を止めない。一瞬甘くなった気もするし、すぐに辛くなる気もする。苦みもあるような気もしてくる。

すべては信頼を回復するためである。

 

 

そうやって頑張って誠実に作ったものは、必ず美味しくなることを、恋人の笑顔が照明してくれる。

ジャイアンがラルフローレンを着たっていい。

いころから、それこそ物心ついたころからおかしいと思っていたのだが、あらためて考えてみると違和感があり納得できない。

というのも、漫画のキャラクターが毎日同じ服を着ているのはどう考えたってリアリティがないのに受け入れられている。

美味しい食事の再現や微妙な生活感の描写や、陰翳の付け方など、あらゆるところでリアリティを追求して作品に奥行きと実の伴った重力のようなものを持たせようと躍起になっているにもかかわらず、「毎日同じ服を着ている」ことになんの疑問も持たないのはなぜか。

全員、ミニマリストか。

同じ服を何着も持っているのか。その理由はなんだ。

「どの服を着るかで迷うのが馬鹿馬鹿しい」とでも言うのか。意識の高い若手実業家みたいなことを言うな、しゃらくさい。

 

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アンパンマンが毎日同じ服であることは、まぁコスチュームだからいいかなとおもうものだが、バタコさんが毎日同じ服なのはどうなのだろう。パン屋の制服なのだろうか?ジャム翁がコックのいでたちであるのに対し、バタコさんの服装の立ち位置がよくわからない。マネージャなのだろうか。あれもパン職人のコスチュームなのだろうか。

おそらく、なんらかのコスチュームであることはうかがい知れる。

ドラえもん一味の服装が毎回同じなのはなんなんだ。毎話毎話同じ服を着ている。

ジャイアンはオレンジの横の柄の入った服、しずかちゃんは桃色系統の服、そう誰かに決められているのか?

ジャイアンだってたまにはラルフローレンのポロシャツを着たっていいじゃないか。

ちびまる子ちゃんは、冬は赤いサスペンダー・スカートで夏は微笑み顔の絵文字の入った白いTシャツと決まっている。家族もほとんど毎回同じ服を着ている。

日常の古き良き豊かな情緒性と人間の変な部分のおかしみと、かすかな憂鬱を描き出す作品世界において、服装が変るのは作品描写の「ノイズ」でしかないというのだろうか。

うずまきナルトは作品を通してほぼ2着しか着用していない気がするのだが、あれだけ動いているのだからそうとう臭そうである。

ジョジョ』も三部以降は服装が固定になる。旅中は同じ服装だ。一、二部は都度服装が変っていたような気がする。なにも同じ服をずっと持ち運ばなくてもいいじゃないか。

 

ドラゴンボールもほとんど道着かあるいはナメック星人の奇妙な服装だが、実は、私服で出てくるキャラの服装は場面や歳月で変化している。

亀仙人はアロハシャツが基本だが、都会に行く時はスーツを着用し、また物語の最終話ではトレードマークのサングラスが買い替えられている。

ブルマは登場ごとに服装が違うのだからすごい。旅中もワンピースからパジャマやバニーガールやオリエンタルな服装になったりと、短い期間で意外とまめまめしく着替えているのだ。あと、まだひとつブルマは偉くて、時期によって髪型も異なるのである。

 

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西尾維新さんがどっかで「キャラの髪型が変らないのはなんかおかしいとおもうものだから、キャラの髪型を変更しまくりたい」という旨のことを言っていた。

キャラがいつも同じ髪型で、いつも同じ服を着ていることはアニメや漫画の表現記号として受け入れられていて、馴れてしまった我々視聴者はそこになんの疑問も持たないけれど、原点に立ち返ってよくよく考えてみると、これはおかしいことだ。

作者的にはいちいち服装を考えるのが面倒くさいのでそうなってしまうのだろうが、そこを頑張ってこそ、作品にさらに重力が与えられるんじゃないか。

こういう部分では女性作家の方が服装にこだわりを持って、毎回違う服を着させている割合が高い気もする。

 

私だったら、服装を考えるのが手間だから、作品舞台は学校にしてしまうな。

ドン・キホーテ新宿駅東南口店のウツボになりたい

まれ変わって、魚になったとする。

魚に生まれ変わった場合、水族館への転生はできれば避けたいところだ。

だってそうだろう。あんな狭い水槽に入れられてさ、窮屈な思いして一生を終えるなんてさ。

海に生まれれば、海のすべてのフィールドが自分のもの、テリトリーになるんだ。それなら海に生まれた方がいいやい。

私は水族館の水槽の同じところをグルグル回っているサメを見ると悲しくなるんだ。憐れだ。人生の愚かな部分のすべてを見せつけられてる気分になる。

海に生まれた方がいい。

 

と、思ったものの。

 

海には数えきれないほどの脅威があり、数千から数万個生まれた卵のうち成魚となって繁殖に成功するのは、確率的にはほとんど宝くじに近く、よっぽど人間に生まれて管理職を目指すほうが楽だと気付いた。

また、海のすべてがテリトリー、などと書いたが、人間だって陸のすべてがテリトリーであるものの、実際そうかと言うとそうではなく、生きるには厳しい環境が存在し、立ち入り禁止の土地があり(皇居など)、なによりも社会の枠組みに人間は規定されるのでどこへだってすぐに行けて生活できるわけではない。また、その金も無く時間もない。

魚だって同じだろう。

すべての海へ行くにはいろいろと制限もあるだろうし、時間も体力もない。あらゆる脅威にさらされ、基本的に魚として生きていることが危険である。

 

と考えると、狭いし過密ながらも、餌と繁殖と寿命が約束される水族館の魚として生まれた方がいいではないか。

 

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ぜったいにその方がいい。

人間に観察されるが、逆を言えば人間を観察できるではないか。

 

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では、どこの水族館に生まれるのがいいだろうか。

 

私だったら、JR新宿駅東南口にあるドン・キホーテの通りに面した店頭に設置されている水槽がいい。(水族館じゃないじゃん)

あの水槽のウツボになれば、あまり退屈しなくてすみそうだ。いつ見ても綺麗な水槽だし(少なくとも私があの前を通るときはいつも綺麗にしてある)、魚類も豊富で管理が行き届いているように見える。

なによりも新宿の通りに面しているのがいい。人間観察をするうちに魚類的になにかを悟って境地に達することができそうだ。

また、人々は魚になんてほとんど興味が無いので(新宿を歩く人間が魚に興味を持つわけがない)、どちらかというと観察は魚→人間の一方通行的なものになるだろう。

あの水槽のウツボになって、口をぱくぱくさせながら、岩穴から世界を眺めていたい。そのうち餌だけを食べ続けた私は岩穴から出られなくなって、往来を行き来する人々をいかにも醜い生き物だと罵りつつも、羨ましいっ、と静かに痛く泣くのだろう。

まるで『山椒魚』の世界だが、断食して岩穴から出られたとしても私は愚かなウツボに過ぎず、ときたま水槽をぬらりと泳いでは往来で客寄せをする居酒屋のアニキを驚かせることしかできないのだ。

 

やっぱり普通の水族館の、大水槽のウツボがいい気がしてきた。

そのほうがいい身分だ。

 

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ちなみに、最も生まれ変わりたくない水族館は、アートアクアリウムの金魚である。

Excel2016 VLOOKUP関数の使い方講座~精神論 篇~

VLOOKUPはたいへん便利な関数であるが、しかしながら僕は、たいへんに頭が悪いので、VLOOKUPを使えない。

 

「VLOOKUPは使えるととっても便利だからね」と先輩は言ってくれる。

先輩は優しいから「VLOOKUPも使えないようでははっきり言って仕事では使いものにならんからそれくらい覚えて使いこなせ」とは言わないで、「とっても便利だからね」とにこやかに言ってくれるのだ。

でもさすがに5回目、僕がわからないです、と聞きに行ったときには、眉間にいっしゅん影が差したのを見逃さなかった。

「ここはVLOOKUPじゃなくて、SUMIFとIFERRORだね」

「わかりました、ありがとうございます」

先輩が溜息がちにそう言ったから、僕はわかりました、とついこたえてしまったけど、VLOOKUPがわからないことはもちろんのこと、SUMIFがなんなのかもよくわかっていないし、なぜここでIFERRORなのかも判断ができていないので、ほんとうのところなにもわかっちゃいなかったが、先輩の眉間にいっしゅん差した影の色とメンソール臭い溜息の生ぬるさについ恐れをなして(怒られるんじゃないか)「わかりました」とこたえてしまって、僕はデスクに戻りたいへんな後悔をした。

グーグルで調べて、それで関数を組んでも、エラーを吐いてうまく作動しない。

値を変えても、セルの指定を変えても、条件を変えても、どうやっても駄目だった。

いっそ無能な僕をあのとき叱ってくれた方がよかった。そうすれば、この処理を投げ出して「なんとかなるだろう」と言いつつも怯えながら過ごすこともなかっただろうに。

社会人になると、誰も、僕自身のために叱ってはくれない。

 

結局そのデータ処理は期日まで終わらず、先輩が関数を組み合わせてギリギリになって処理することになった。先輩がさらにその先輩に怒られてやるのを見ながら、僕が怒られるべきだと後悔した。あるいはあのときはっきりと「わかりません」とこたえて先輩を呆れさせてでも僕が恥をかくべきであったのだ。

Excelできると便利だからね」

急いで仕上げた先輩はやれやれと言った顔でそう言った。先輩は優しい。

「すごく、便利だからね」

優しいだけだ。

 

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その一件以来、なんとなくVLOOKUPを忌避してソート検索と昇順整列を組み合わせてデータの比較をしたりしてやり過ごすようになった。VLOOKUPを使わなくてもできるんだぞ、というところを証明するかのように。

余計な工数がかなりかかりはしたけれど、さも工数がかかっていないかのようなふりをした。

そもそも、Excelの処理に関する仕事がほとんど来なくなった。

 

僕は1年目から2年目になり、もうすぐ3年目になろうとしていた。噂によると後輩が配属されるらしい。

「いよいよ先輩だな。いいところ見せないとね」

「そうですね」

まだVLOOKUPを満足に使えないのに先輩になるなんて。先輩になってしまうなんて。

あれよあれよと僕は3年目になり、本社の研修が終わった7月に後輩が配属された。

彼女はなんというか、とても可愛らしくて、容姿がとかじゃなくて後輩という存在の尊さみたいなものがほわんと漂っていて、なるほど新人の存在意義は職場にとってはこれがいちばんなのかもしれないと2年前の僕への先輩の態度を顧みた。

そして僕自身からはもはや「新人」の尊さは損なわれていた。

 

「先輩、」後輩にそう呼ばれるとくすぐったい気持ちがしてどんなに忙しくても笑顔でこたえてしまう。「、ここの関数がわからないんですけど」

「どれどれ」見るとそれはVLOOKUPだった。

「あー、ちょっと待ってね。たぶんここが違うんだ」と格好つけてみたものの、どこがどう違うのかわからない。だけど「こんなことで」先輩にお伺いを立てるべきではない3年目。

脳みそがフル回転した。

あらゆる可能性を探り、セルの指定範囲を変え、TRUEをFALSEに変え、列指定を一列ずらした。

半年ぶりくらいに触ったVLOOKUP関数に、どうしてそこまで的確な判断ができたのか自分でもわからなかったが、その手ぶりは鮮やかで、完璧な先輩の姿そのものだった。

Enterキーを押すと、目当てのデータが表示された。

「うわぁ、すごい」後輩が目を輝かせる。僕と同じ目をしていた。「ありがとうございます!」

やれやれ、と僕はおもう。

「関数使えると、とっても便利だからね」と僕は言った。

とても便利だから、そう言っただけだ。

 

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5回目に彼女が聞いてきたときも僕は便利だから「便利だ」と言うのだろうな。

 

 

 

 

(実際の使い方は下記をご参照ください)

dekiru.net

Twitterは薄目でやるのがいい

いきんはインターネット、とくにTwitterがきつくてあまり見れていない。

よく知らん人の思想が140字という無責任な短文を通して感情的に急激に頭に流れ込んでくることが、耐えがたくなってきた。

会ったこともない人の暗く冷たい情動が無理矢理流し込まれて犯されるような気分になる。

もうやめよっかなぁと何度もおもうけど、やめられないのは、詩とか作品を見れることはありがたく、またサンリオや猫や犬や鳥の日頃の画像や活動写真を見れるし、ネタツイと呼ばれる大喜利ツイートが好きだからだ。災害の情報など有用なものもある。

決して悪い側面ばかりじゃなく、良い側面だって多い。

ようは使い方と向き合い方なのだ。TwitterSNSは人間関係である以前にただのツールなのだから。そこを忘れないようにしたい。

 

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少しエッチなコンテンツに文句を言う人に「じゃあ見なければいいじゃん」という反論をよく目にするが、それは論を投げ出してる意見だ。

「見なければいい」ものではなく「目に入ってしまう」から問題なのだ。

そりゃあ、自分が嫌いなものを見なくて済むなら誰だって見ないだろう。そうしたら文句も出ないが、自分の意志とは関係なく「目に入ってしまう」から文句を言うのだ。

まぁもちろん、「性的なコンテンツ」の判断基準は人によって違うから、こうして一概に双方を批判することはできないので、これはあくまでも「性的なコンテンツ」として売り出している物のネット広告などに焦点を当てて述べている。述べているってすごい賢そうな言葉だな。

 

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この「目に入ってしまう」はツイートにも言える。

Twitterにももちろんエッチなイラストや暴力的なコンテンツが流れてくる。

私は、エッチなものは、なんというか、はは、あらためて言うと恥ずかしいのだけどさ、まぁ、好き、なので、問題ないが、最初にも述べた通り自分とは異なる不快な思想や非難や暴力的な感情も同じように「目に入ってしまう」ので困っている。

他人の「いいね」が流れてくることで、そういった不快なものをフォローしていなくても目に入るし、トレンドで望んでいなくても槍玉に挙げられて目に入る。

そういうときはTwitterを閉じてYouTubeハリウッドザコシショウのチャンネルを開き、爆笑して「邪気」を祓うようにしている。

 

じゃあもうTwitterをそもそも見なければいいじゃん、という声も聞こえてくるが、それこそが論を投げ出している意見で、私はTwitterを使いたくないのではなく、使っていきたいのだ。

140字という一目で情報の大まかな部分が掴めてしまうツールでは、「目に入れない」「読まない」ことは難しい。

うまく付き合っていかなきゃいけないけど、これからよっぽど疲れてしまったら、全部投げ出して辞めてもいいかなとも思っている。

 

いろいろ言いつつも、私だって自分の思想をブログやツイートを介してばら撒いているようなものだから、誰かを批判することはできない。

ようは、ツールをどうやって使っていくか、ということを考えたいわけだ。

 

 

ブログは良い。どれを読むか読まないか選択できるから。

蜘蛛庵の暮らし

が家には蜘蛛が多い。

1センチにも満たない大きさの、ハエトリグモとでも言うのだろうか、小さくぴょんぴょん跳ねるやつらがそこらの壁や床やドアノブや枕の上を随意に歩いている。

 

まぁ、このくらいの大きさの蜘蛛はそこまで気持ち悪くないし、むしろ可愛いものなので好きにさせているのだが、時々、鴨居から垂れさがって世界を逆さまに観察し、くるくる楽しそうに回っていたり、視界の端を異様な速度で走るので、そういう突飛なことはやめてほしいものだ。

いくら小さな蜘蛛でも驚くではないか。

この間なんて台所の換気扇のフィルターにいたのだろうか、焼うどんを作っていたら突如フライパンの上に落っこちて来て、野菜と一緒に炒められたことがあった。

焼うどんを作っていた恋人が絶叫し、蜘蛛は直ちに絶命し、私は困惑と悲しみに暮れ、恋人を守ればいいのか(なにから守ればいいのか)、それとも即死した蜘蛛に合掌をすればいいのか(宗派はなんだ)、わからなくなった。

恋人は絶叫したものの、すぐに落ち着いて蜘蛛の憐れに思いを馳せ、菜箸で蜘蛛を挟み流しに流してやった。

焼うどんは、まぁ火が通っているのだから害はないだろうということで結局食べた。今のところ体調不良は起こっていないので大丈夫だろう。まだ壁を登ったり手首から糸を出すような現象は見られていない。

蜘蛛は可哀相だった。フィルターでまったりしていたら突然の熱の気流が発生して驚いたことだろう。

憐れでもあり、マヌケでもあり、尊くもあった。

 

それにしてもなぜこんなに蜘蛛が多いのか。

探すまでもなく、そこらの壁に目を向ければぽつりと黒い点が動くのだから、私たちの住居に蜘蛛が湧いているというよりか、むしろ蜘蛛の住み家に私たちが不法に住んでいるような気すらしてくる。

蜘蛛一家は空き部屋でのうのうと暮らしていたのに、ある夏に発情した男女が突然住まいはじめたのだからとんだ迷惑だろう。

そのお詫びではないが、私だって蜘蛛のためにやれることはやっている。わざとじゃなくても殺さないように気を付けているし、家具や物を配置して隠れ家を結果として提供しているではないか。

いいかんじにコバエが湧いているので、餌だって豊富である。コバエは駆除してくれよ。

 

いないほうが良いのは確かだが、いても害ではないし、可愛いので問題ない。広大な壁を張り付いて歩けるのはなんて楽しそうにも見える。存分に歩いていただきたい。

当面は共同生活ということで、持ちつ持たれつの関係でいこうではないか、と壁を横断する蜘蛛子に言ってみると、彼奴はジッとして空(くう)を睨んだあと、ぽつりと床に落ちて本棚の裏へ消えた。

壁を歩かぬも自由。