蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

青春死体

あ、高校の軽音楽部に入りたい。

軽音部に入って、男2女2の4人でバンドを組みたい。

 

ぼく:ギター 男子1:ベース 女子1:ギター 女子2:ドラムス

 

これで、バンドを組みたい。

ボーカルは固定してなくて、曲によって歌い手は変わるし、コーラスを入れたり、なんか全員で歌うこともあるちょっと変なバンド。

ああ、そのバンドで、The pillowsスーパーカースピッツ、きのこ帝国などをやりたい。

一時期ゆら帝国とかNUMBER GIRLにハマって「透明少女」を練習したこともあったけど、どうしても上手く再現できなくて諦めて笑いたい。

「一応練習したんですけどね」とか言って、アンコールで「透明少女」をやりたい。

 

文化祭のステージに立ちたい。

別に、大して上手くはないし、いまどきの皆が知っている曲をやるわけじゃないから、めちゃめちゃ盛り上がることはないのだけど、それでも、聴いてくれた同級生の心になにかときめくものを残せたらそれでいい。

あの蟻迷路クンが、ステージに立つとこんなに変わるんだ、と言われたい。

 

(※妄想はまだまだ続きます)

 

そんで、バンド内恋愛に発展したい。

いや、発展したくはない。

ただなんとなく僕は、同じギターのあの子のことが好きなのかもしれない、と気付く瞬間があって、あの子がステージで楽しそうに歌っているのを見たとき、つい手元が狂ってしまって、ちょっとミスをしたらその子が僕をちらっと見て、笑ってくれたんだ。

その瞬間にぎゅっと宇宙のすべてが濃縮された気がして。

騒音みたいな音楽の中で、時間がたしかに一瞬止まって、無音になって。

あれ、これ、そうなんじゃね、って音楽がだんだん遠くなっていく。

 

だけどさ、だけどね、僕はこのバンドが好きなんだよ。

もしも付き合うことができても、微妙な空気になっちゃうし、もしもフラれたらバンドはもう続かないだろうし、これは僕だけのバンドじゃなくて、トシキ(男子1)とマナちゃん(女子2)とそして佐々木(好きな子)のいるバンドなんであって、この関係を断ち切りたいとは思わないんだ。

「バンドに異性いてうまくいったところないよ」って先輩が言う。そういうことなんだろう。

 

(※もうちょっと続きます)

 

最後の文化祭で、これでおれたちのステージも最後だなってトシキが言う。

佐々木に告白しろよ、と昨日の夜言ってくれたのは彼だ。だから「最後だな」ってトシキの言葉には二人にしかわからない旋律が混じっていて。

僕たちはやれるだけの曲をやって、アンコールで下手くそな「透明少女」やって、燃え尽きたのだけど、僕はまだ灰になりきれていなくて、ステージ裏に戻ると佐々木が泣いていて、なんて言葉をかけたらいいのかわからず、4人で抱きしめ合った。

「まだ文化祭は終わってないよ」と佐々木が言う。僕を見て。

 

 

ちょっとここでやめます。やめときます。無惨なので。

 

高校生の頃軽音楽部だったが、私に上記のような青春は一毛もなく、いろいろあって、ステージに一人立ち、「神田川」を熱唱して終わったのであった。

この「軽音楽部に入って青春したい」夢、高校を卒業して6年経った今では、もう絶対に叶わないのだからすごい。

どうあがいたって無理なのだ。

恐ろしい。

なんとかなりませんか?って神にお願いしても「無理」の一蹴。

 

ああ、軽音楽部に入りたい。

制服でステージに立ちたい。

米だけでご飯3杯はいける!

人の実家からお米をいただいた。

これが美味しくて、この時初めて、米にも味の違いが明確にあることを知った。

 

 

同棲をはじめて最初に買った米は、近所のスーパーで一番安かった米だ。

「最初からいい米を食べると、精神が廃る。

戦時中を思い出して御覧なね。銀シャリがどれだけ高価な食べ物だったことか。あの頃は、真っ白のお米だけで炊くことはできなかったんだよ。玄米や粟やお芋と炊くなどしていたんだ。だからこそ、まっさらの銀シャリが美しく、美味しく感じられたんだね。

それと同じことよ。最初から贅沢をしちゃいけません。最初に最低の味を知っておくことで、次にそこまで高くはないけどワンランク上の米を食べたときに、ありがたく美味しく感じられるわけ。

最初からいい米を食べていると、次にもしお金が無くて最底辺の米を食べたときに、これほど屈辱的なことはないだろうよ。

下から上には行けても、上から下には人間いけないもんだ。覚えておきなさい。

だから我々は、まずはじめに、最底辺の米を買うのだよ」私は最初のスーパーでそう言った。

「わかった」と彼女は言った。あまり納得していないようだった。「ひとつ言いたいんだけど」

「なに?」

「もう戦時中じゃないよ」

「喩えですよ」

まぁ実際このような会話があったわけではないが、このような旨の話をしたことは間違いない。

 

そして私は、最底辺の米を買ったことをひどく後悔した。

どこがどう悪いのか言葉にしにくいのだが、全体的に張りも締りもなく、半分死んでいるようなかんじで、なんとなくホコリ臭いし、つややかさが皆無で、米界の砂利、と言ってしまいたい。

その米を食べることになんの喜びもなかったが、ただ食べないと次の米を買えないので食べるしかなかった。

 

だが、一週間もすればその米にも馴れて、それが普通になっていった。

 

1カ月半ほどでようやく食べつくした頃に、恋人の実家が、親戚の方で採れたお米を精米してくれて10キロほど送ってくださった。たいへんに助かった。

この頃は最底辺の米に馴れていたので、「米はどれもそう変わらん」などと思っていたのだが、贈り物の米を食べたとき、「米は全然違う」とわかった。言葉ではなく、体で、舌で、それを理解した。

米はつややかで粒立ちがあって、食べる喜びがある。

ついつい、米ばかり食べてしまう。

米をおかずに米が喰える。米界の水晶。

 

米はランクによって全然違うのだ。

もしかして最底辺の米が不味いのは、炊飯器のせいではないかと疑っていたが、確信をもってそうではないと言える。米のランクによって味が違う。

 

つい食べ過ぎてしまった。米だけでお茶碗3杯食べた。何を言っているんだ。

歌舞伎で『半沢直樹』をやってほしい

『半沢直樹』って、放送するなら日曜の夜しかないとおもう。

明日から仕事、という危急存亡の秋に、背水の陣のときに、半沢直樹はパワーをくれる。

 

このパワーは何なのだろう。

 

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半沢直樹』に出てくる人たちは、とても仕事ができるので、見ていると、わたくしは、劣等感を、抱く。

しかしながら、劣等感を抱きつつも、ああこんなに動き回れたら大変だけど楽しいだろうなぁ、誇りをもって仕事をすることはどんな職種であれ大事だよなぁと、ちょっとだけ、毎日のつまらないお勤めにも張り合いが出てくる。

まぁ、半沢直樹にはなれないけど、自分なりに頑張るしかないんだよなぁと、おもうのです。

 

   ↓

 

あの畳みかけるようなセリフ回し、表情、動きの切れ味、なんとなく見ていて歌舞伎を連想させる。

キメの表情がドラマの中にも細かくあって、それは歌舞伎で言うところの「見得を切る」ようなものだし、セリフの怒濤の応酬は歌舞伎の口舌やセリフ回しにも似通っていて、「捨て科白」も多いと共通点を考えていたところ、昨晩の半沢直樹生放送スペシャルで香川さんが歌舞伎との共通性に言及されていて、やっぱりそうかと膝を打った。

演者も歌舞伎を意識していたのだ。

「捨て科白」のアドリブ性も歌舞伎とドラマで似ており(ドラマだとあえてカットを長く取ることでアドリブを引き出そうとしているようだ)、そこに役者の個性とキャラ立ちが伺えて面白く、ストーリーもさることながら、役者そのものが見ていて面白いところも歌舞伎と似た魅力だ。

もちろん私は歌舞伎を生で見たことは一度しかないのだが(しかも半分くらい寝ていた(なんならドラマも最近観はじめたのであらすじがあまりわかっていない))、なるほど、『半沢直樹』の心地よさは歌舞伎と同じように言葉回しの気持ちよさと勢いと俳優の顔面によって引き出されるパワーにあるのだろうと納得である。

 

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それにしてもすごく手の込んだ「スカッとジャパン」みたいなドラマだ。

もちろん、「スカッとジャパン」よりぜんぜん面白いし特有の不快感も無いのだが、おおまかな筋は「スカッとジャパン」と同じだ。

 

・主人公が理不尽に嵌められる→・策略を巡らせる→・倍返しする(報復する)

 

王道のこの構造にこそ快楽があるのだ。

 

嫌な奴が論理的に、そして徹底的にぶっ飛ばされて、それを見て心がスッとしない人はいないだろう。

嫌な奴をきっちり嫌な奴として描写してくれるから、なんの後腐れもない。

そりゃあ、「倍返しだ!」と言いたくなるよな誰しも。気持ちがいいもの。

 

半沢直樹のように誇りをもって働こう。大変だけどそのほうがきっと楽しい。

そうしよう。誇りを持って働こう。明日も頑張ろう、と火曜日の午前中くらいまでは心がけているのだがな。

 

   

「カルボナーラ・海水浴風」の作り方と対処法

晩は塩分を摂りすぎて死ぬかとおもった。

 

カルボナーラを作った。ご覧、美味しそうにできているでしょう。

 

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まさか不味くて死にかけることになるとは。

 

インターネットで「牛乳と生クリームを使わない本格派カルボナーラ」を調べ、材料は揃っていたので、作ってみようということになった。

カルボナーラを作るのは初めてだった。

 

昔やっていた「得する人、損する人」という番組で紹介されたレシピらしく、それを遵守して作った。レシピは守るためにある。その通りにやればたどり着ける宝の地図みたいなものだ。

 

お湯1リットルに対して小さじ4杯の塩。

3.5リットルの湯を沸かしたので、12杯の塩を入れた。

舐めてみると海水みたいな濃度になり、この時点で若干の不安を覚えたが、3.5:12なので1:4と方程式が成立せず、これでも本来よりは薄いのであった。

麺を茹でている間に刻んだベーコンをニンニクとオリーブオイルで炒め、ボウルに鶏卵と粉チーズを入れる。このとき、粉チーズでボウルを半分に分けるように壁を作り、半分に卵を、もう半分に炒めたベーコンを入れる。

あとは麺が茹ったら、ボウルに入れて10秒ほど蒸し、全体的に卵とチーズとベーコンが絡むまで混ぜ合わせれば完成だ。

 

とても簡単だ。失敗する要素もほとんど無いので、どのスパゲティよりも簡単かもしれない。

これは、粉チーズの値段さえ目を瞑れば、今後も活躍するスパゲティになるな、と確信めいた予感を抱いた。こんな簡単なの、重宝するぞ、と。

 

だが、簡単なのに、失敗した。

 

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こんなに美味しそうにできたのに、一口食べて、海水浴をした後か?錯覚するほどの塩気があった。

バグ? 塩バグ?

毒(ポイズン)カルボナーラ

カルボナーラ・海水浴風。

そんなところだろうか。

ただ危険なほど塩辛いわけでもなく、ギリギリ食べられる塩辛さだ。海水を飲むのではなく、海水浴後の口の中くらいの不快な塩気であった。

それが仇となり、ギリギリ全部食べてしまったのだが、このことが後に悲劇を生むことになる。

 

やはり、麺を茹でる塩が多かったのだ。

だが、分量はむしろ少ないくらいだったはず。いったい何が起こったのか?私はなにを間違えたのか?最初からなにもかも間違えていたのだろうか?インターネットの情報を鵜呑みにしたのが良くなかったのだろうか?

 

食後、恋人と揃って体調が悪くなる。

恋人は酷い頭痛を訴え、私は視界が揺らぎ、頭がくらくらした。また、腹痛と軽い吐き気を覚え、全身がむくみはじめる。

おそらく、塩分を過剰摂取したことにより血圧が上がり頭痛やめまいがしたのだろう。体内の水分濃度が変化したことで体がむくんだのだろう。

やや危険な状態であった。

排尿を促すために、緑茶を飲みまくる。お茶には利尿作用がある。体内塩分濃度を、排尿によって薄めていくしか生きる道はない。

身体がつらいと心も鬱屈としてくるが、それは良くない傾向である。テレビを見て必死に笑うことで「気」から治癒を図る。笑いは邪気を祓う。

あは、あははは、は、となんとなく笑ってみたけど、番組では池上彰がなにやら不穏な話をしているばかりでまったく笑えはしなかった。恋人は唸りながら横臥する。私は何も言わない方がよさそうだった。

 

しばらく(40分くらい)して、すこし落ち着いてきた。ペットボトルのお茶2本を飲み切っていた。

「これじゃあおれたち「損する人」だったネ」と言ったら恋人はちょっと笑った。

「いいオチがついたね」

「うん。おかげでブログにも書けるよ」

 

あはは、は、はは、は……。

(こういうときはとにかく水分を摂って出すもの出すしかないです)

 

   ↓

 

おそらく、塩分が分量通りでも辛くなってしまったのは、麺の種類に原因があるのではないか?

番組で紹介していた麺の太さと茹で時間が私たちの「マ・マー」とは違っていたのだろう。

 

 

このところ料理の失敗が続いて凹んでいる。

自分で作って自分で不味くなり、しかもそれで腹を満たして体調を崩すなんてほとんど自傷行為じゃないか。

わたし、木に生ります

ラムを食べる前に、しげしげと観察して「いいな」と思いを馳せてしまう。

プラムはスーパーに並ぶ前、じつは木に生っていたのだという当たり前すぎることを、つい忘れがちになってしまう令和二年。

この可愛い果物は、木に生っている。

 

朝、恋人がむしゃむしゃパンやプラムを齧るそばで、私は手を止めてプラムを観察する。

この果物は、すもも、とも言う。

この果物に名前を付けるなら、「すもも」以外にはないよなぁと納得の名付けである。

どことなく桃っぽいし、においも甘く桃らしい。味はすこし違うけど、甘味に酸味のニュアンスを加えて「すもも」なのだなあ。

「こもも」ではなく「すもも」なのだ。

名前も見た目も可愛いし、甘酸っぱくて美味しい。大好きだ。

 

この実がさ、森を歩いていて、沢のそばの木にワッと生っているのを見つけたら、きっと嬉しいだろうな。

沢の水で洗って、そのまま齧りつくのだ。

ひと口めは酸っぱくて耳の脇がきゅうと痛くなるけど、目が覚めて疲れの取れるような甘酸っぱさで、ふた口目からはほんのりと甘く桃の香りが立つ。

僕は恋人の分も採ってやって、二人で小高い岩の上に腰を下ろして、食べるのだ。

眼下には清らかな沢と深く滾るような森が広がっている。太陽は暑く、風は爽やか。

 

ああ、この実が木に生っているなんて、素敵なことだ、と、にやにやしながら朝、ずっと見つめていた。

恋人は早々に食べ終わり、「なにをしているんだ」と言った。私は上記のことを話した。

彼女は「そうかいそうかい」と特に取り合わず、仕事の支度を始めた。

 

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今朝は梨を食べた。

梨も、木に生っているのだ。実際に果樹園でもいだ経験もある。

森を歩いていてさ、梨の木があって、、、と話し始めた私をよそに、恋人は黙々と梨を食べていた。「甘いよ。美味しい」

一週間くらい冷蔵庫の中で忘れられていた梨は、とても冷たく甘かった。

青春ぽい味がした。

 

 

当たり前のことだけど、果実は木に生る。

陳列されている姿をよく目にするばかりに、魚が海を実際に泳いでいることや、野菜が土の中に埋まっていることや、精肉がもとは筋肉として動いていたということを、忘れがちになってしまう。

いや、忘れるのではなく、それらが本来生命であったことを意識しなくなってしまうのだ。

「いただきます」という言葉が形骸化して意味を成しえなくなってきている。私の中で。

こんなことだから、木に生っているということに神秘的な、なにかファンタジーで素敵ななことなんだという想念を抱いてしまうのだろうな。

 

 

丁寧に失敗作を作る

棲をはじめて、偉いことにほぼ毎日自炊をしている。

休日に作りだめをしておいたり、野菜だけ切っておいたりする。そうしないこともある。

仕事終わりに料理をするのは結構負担だが、料理が嫌いではないし、苦労でもなく、ただ仕事終わりで腹ペコなのにすぐに食べれないということがつらい。

 

料理をいくつかやってきて学んだことはたくさんある。

料理本の指示には基本的には従った方が良いこと。

料理本の指示には従っても料理本の思想には従わない方が良いこと。

そして、勘で作らない方が良いこと。

 

下の画像は、余った牛乳でチーズを作ろうとしたときのものだ。

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前日の夜にテレビで手作りチーズのやり方をほんの少しだけ紹介していて(VTRの一部だった)、その曖昧な記憶を基に、勘で作ろうとした。

牛乳を任意の時間煮て、満足したら任意の量のレモン汁を加えて、なんか成分が分離するので、いいかな、とおもったらキッチンペーパーを敷いたザルに濾す。

濾す時間も、だいたい2時間くらいで、なんならこれも任意の時間で良い。

任意の時間が経つと、キッチンペーパーにはなんか固形物が残るので、絞る。

そうして残ったものが、チーズである。


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よくわからないのだが、絞ったら何も残らなかった。

私は2時間かけて「無」を作った。

 

残りかすの「無」を口にしたら、一瞬「毒」かと錯覚するほど不味かった。

 

   ↓

 

このような勘による丁寧な作業を通して、ときどき失敗作を作ってしまう。

先日も余ったカボチャの種に閃きを得て、それをオーブンで加熱し、さらに乾燥させたのちに満足したら炒めて塩と胡椒を振って、カボチャの種のツマミを作ったのだが、結果としてできたのは「焦げた種子」だった。

恋人に「焦げた種子」を与えてみたところ、う~んと言って顔をしかめ、ゴミ箱に直接吐き出した。「食べちゃいけない」と彼女は言った。

あれだけ乾燥させたのに種はしんなりと湿気り、焦げの苦みの中に塩気がジメっとまとわりついていて、たとえばこの世の憎しみを料理にしたらこういうものになるのだろうといった味わいであった。これを「味わい」とするのも烏滸がましい。

 

そして昨日も失敗した。

ゴーヤチャンプルーである。
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ゴーヤチャンプルーで失敗することなんてあり得るのだろうか。

自分が失敗するまでそうおもっていたが、失敗した。

 

実家で作ったとき、ゴーヤの苦みを取るために切ったゴーヤを塩揉みにしていたのだが、その時は塩揉みが足りなかったしゴーヤをやや厚く切ってしまったために苦くなってしまった。

そこで今回はゴーヤを薄く切り、念入りに塩揉みした。

 

結果、ゴーヤは「塩漬け」状態になり、とても食べれる代物ではなくなった。

ゴーヤが海の植物だったとして、海水の塩分を吸い取って成長する性質のものであったらば、採れたてのゴーヤはこれくらい塩辛いのだろうな、というくらいの塩気を含んでいた。

スパムと豆腐だけなら食べれないことはないのだが、ゴーヤがひとかけらでもあると「塩」になるので食べられない。

あの「焦げた種子」が憎悪を司る料理だとしたら、このチャンプルーは悲哀を司る。

涙の味がする。

 

ゴーヤを取り除いて食べた。なにをやっているのだろう。
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最悪。

 

食材を無駄にした罪、お金をドブに捨てた罪、そして不味いもので腹を満たす罰。

つくづく自分が情けなく、食べながら泣きそうになったけど、泣いたら余計塩辛くなるので堪えて、「ニガウリ」と言うよりむしろ「シオウリ」と化したゴーヤたちに謝罪の弁を述べた。

恋人に食べさせるわけにはいかなかったので、恋人の分の夕食はお惣菜を買ってきてもらい、私は2人前の失敗作で腹を満たしたのであった。

 

丁寧に丁寧に、失敗する。

 

勘でやっちゃいけない。

 

天体観測の車窓から

りの電車に、両手にぱつぱつの荷物を提げた、これまたぱつぱつのおばさんが乗ってきた。

両隣の座席に荷物をがさりと置き、おばさんは私の前の座席に座った。

おばさんひとりで3席占領していることになるが、おばさん自体の体積が、なんというかひじょうに、膨大だったので、実質、4席から少なくとも3.5席は確実に、独りで我が物としていた。

昨今のマナーに厳しいご時世において堂々たるものだ。

あるいはそうやって占領し人との距離を取ることでソーシャル・ディスタンスを図ったのかもしれないが、おそらくそんなことはなく、なんにせよ、器用な人ではなさそうだ。

 

 

別に肥っている人を肥っているということで非難するつもりはないし、肥満が人格形成に影響を及ぼしているとは言い切れないけど、このおばさんの体型を見ればいかにもガサツそうで傍若無人で、あるいは金太郎的な堂々たるものであるとおもうことだろう。そして実際、座り方を見ればそうであることがわかる。

 

肥り方にもいろいろある。

肉が垂れていまにも流れ出しそうな者、腹だけ出て餓鬼のようになってる者、全身まんべんなく肉がついてむしろ逞しい者。肥り方人それぞれであるが、おばさんの場合、張り詰めた肥り方をしていて、まるで天体であった。

丸いのだ。極限まで。

ピクサーのふざけたキャラクター造形みたいに丸かった。押せば転がりそうだし、引けば圧し潰されそうだ。

あまりにも丸いから、どちらが下でどちらが上かわかりやすいようにそれぞれに足と頭をつけたのだろう。地球の上と下に北極と南極があるように。

なるほど、そういうわけか。天体じみて見えるわけだ。さながら今の私は天体観測していると言える。

私はおばさんに、極(ごく)、と名付けた。

 

 

極はフリーペーパーを読んでいた。

駅の改札のそばに置いてある、地域情報を紹介している薄い雑誌だ。

こういうのはあまり読む人がいないので、だいたい月初に新刊が並べられると月末までほとんんど減ることが無く、ずっと表の風雨と人混みに曝されてきた紙は色褪せて侘しさを醸すものだ。こうやってワビサビを生み出すための装置なのだ。

 

極は食い入るように、念入りにページを読んでいた。

極なりに気になることが書いてあったのだろう。そもそも何が書いてある雑誌なのか不明だが、間違いなく解析関数の方法論は書いてないし、ローザルクセンブルクのことも書いてなさそうだ。らくだの生態についても書いてない。

真剣な目をしてページを見つめていた極であったが、次の駅に到着すると、雑誌を座席に放り、荷物を持って、流星が消える如く降車して去ってしまった。

いきなりのことであった。

あれだけ熱心に読んでいたのに、突如として興味を失い、しかも雑誌を持ち帰らずに座席に捨て、その場を去ったのだ。

情報は必要十分だったのだろうか。あるいは、極としても興味のないことだったのか。

その行動のどこにも隠れてコソコソしているところがなく、自分の行動に疑いを抱かず、堂々としていた。

 

 

それが悪いとか善いということをここで言いたいのではなく、ただそういう人がいたことと、むしろ私には極が格好良く映ったということを言いたい。

善悪はともかくとして、堂々と自分の道に疑いを持たず歩いているさまは格好良い。

悪いことを悪いことだと思わずにやる人に罪の意識はない。

それと同じように、善いことを善いことと思わずに、当然の親切としてやっていけたらもっと格好良い。

だけどどちらにせよ自分ではそれは認識できなくて、自分は自分でしかいられないということに気付いた。

自分らしく、という言葉はきらいだ。自分らしさなんて誰かが決めるものではないし、自分が決めるものでもない。自分は自分でしかなく、本当の自分は「らしさ」なんかで規定される飾り気のあるものではない。

極は極であり、私は私であり、君は君であれ。