蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

憎悪を煽れ!コロナ対策

こかしこで緊急事態が宣言されて大変なことになっているなぁとちょっと他人事みたいな感じだったのだけど、会社のビルテナントで感染者が出たり、ついに職場の方のご家族に陽性者が出てしまったりして、いよいよ身近な恐怖になった。

感染者数も、もはや数なんて意味をなさないくらい東京は多くて、よくわからなくなっちゃってる。

お、少ないじゃん、と思ったら陽性率とやらが高かったり、検査母数がそもそも少なかったり、多すぎたり、なにを基準に置けばいいのかもわからず、下手に数字を見るよりか「とにかく危険なんだ」ということだけ考えていた方が惑わされなくて済む気がする。

 

アフリカか東欧かアステカか忘れたけど、どこかの地域のいつかの時代では、数字は1,2,3,4,5,「たくさん」しかなかったらしい。

6以上の数字は存在せず、「たくさん」という状態として認識されていた。

数字は羊かなにかの家畜を数えるときにしか使わなかったのだ。

6以上は多いので、「たくさん」という認識で大丈夫だったのだろう。

貨幣の登場と共にこの考え方はかなり不便になっただろうけど、なんか余計なことを考えなくて済むから楽ではある。

アフリカか東欧かアステカか忘れたけど、どこかの地域のいつかの時代の数え方を適用すると、現状の感染者数は「とても多」くて「かなりヤバイ」という認識になる。

シンプルでわかりやすい。数字に惑わされるくらいなら、余計なことを考えずに「ヤバイ」って認識を持って意識した行動を心掛けた方が良さそうだ。

 

 

この期に及んで感染対策の万全ではない会食をしたり、無駄に出社するのはどうかと思う。とか言いつつ、私の会社も出社しているのでどうも強く言えないのだが。

悪い意味の慣れというか、なんとなく「もうどうにもならんよね」みたいな割り切った雰囲気があるというか、全体的に感覚が麻痺してきちゃってる気がする。

 

日本人は同調圧力に敏感な生き物だから、強固な外出自粛をすすめたいのなら「呼びかけ」ではなく憎悪を煽って、ウソでも誰かを犠牲にして「この時期になってマスクなしで飲み会をやり、しかもその中に陽性者がいて、50人がクラスター感染し、地域の病床を埋めた」みたいな報道をして悪者を吊るし上げる演出をした方が、外出自粛に効果があるのではないだろうか。

テレビやネットニュースがしきりにその悪者を非難し、社会的に抹殺する勢いでぶっ叩き、「自分たちは正義側である」という意識を視聴者と読者に植え付けることに成功すれば、一部の意識が変わって周りに伝染し、そのうち「外出は悪」みたいになるんじゃないか。

芸能人や政治家がその役割を担っている気がしないでもない。実際去年の3月とか4月ってそういう雰囲気あった。

 

地方では帰省した人や悪気はなくとも感染した人が村八分に遭っている、みたいな噂を聞く。

そういうニュースはもっと流した方がいい。

そうやって憎悪を煽り、恐怖心を植え付け、同調圧力を高めた方が外出自粛はすすむ。

同調させるにはどうしても「対立」の構図が必要になり「悪者」を作る必要があるから誰かが犠牲になる。

人身御供。

それは悲しいな。

 

 

こんなSFのディストピアみたいな世界、妄想だけど、現実的に効果あるんじゃないかな、と思ってる。絶対に嫌だけど。もう勘弁してほしいね。いろいろ。

 

すぅちゃん、来る。

生日祝いで恋人にCDオーディオプレイヤーを買ってもらった。

誕生日祝い、と言っても私の誕生日は一か月以上前のことだ。実は25歳になったのである。意外と若いのだ。

 

私は実家からCDを100枚くらい持ってきたにもかかわらず、CDプレイヤーは持ってこなかった。

愚の極みである。

しかし、実家のプレイヤーは、いかにも安っぽい仕組みのもので筐体の白いボディが情けなくくすんでいやらしく、SONYとロゴの入った文字の下にAPPLEのリンゴマークのシールを若気の至りで貼り付けてしまい、音質も「咳しても独り」って感じで全体的に気に入っていなかった。

CDを再生するためにとりあえず存在している。それ以上でもそれ以下でもなかった。

だから引っ越しの際に荷物を多くしてでも持って行きたかったかというと、首肯しかねたのである。

インテリアとしてもサマにならないこのプレイヤーを持って行くのは気が引けた。

結局私は、『ジョジョ』の単行本66冊を荷物にまとめた代わりにプレイヤーを置いて行った。『細雪』の間違えて買った上巻2冊を荷物にまとめた代わりにプレイヤーを実家に置いて行った。CD100枚を新居に移動させ、それを再生させるプレイヤーを実家に置いて行った。

 

 

「誕生日プレゼントなにがほしい?」と恋人に訊かれた私は困っていた。

欲しいものなど何もなかったからだ。

プレイヤーは自分のお金で買おうと思っていたし、それ以外で欲しいものとなると、本か「空間」か、最近切れ味がすこぶる悪くなったので、しっかりした包丁が欲しかった。

包丁はかなり欲しかったし、恋人もトマトが切れないことに困っていたので、「包丁が欲しい」と伝えたところ「別のものにして」と切り捨てられてしまった。包丁なだけに。

恋人は、私が私的なものを欲しがることを期待しているみたいだった。あるいは私に包丁を与えたらそれで自分が刺されるのではないかと懸念しているみたいだった。もう4年以上も付き合っているのにこの扱いである。

 

 

結局、プレイヤーにしてもらった。

私がインターネット・エクスプローラーで選び、代金を恋人が支払うという平和的な選択であった。

注文してからものの二日で届いた。

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私はライトなリスナーなので音響とか機能とかよくわからず、とにかく見た目で選んだ。

「かわいいこと」それが唯一にして絶対の条件だ。そして申し分なくそれは備わっている。

木目調のボディには温かみと渋さがあって部屋の雰囲気と調和した。またシンプルなシルエットで存在感が強すぎず、さりげない。昭和チックな見た目がいじらしい。

SANSUIというシリーズであることとスタイリッシュであることから「すぅちゃん」と名付けた。

doshisha-av.com

すぅちゃんのレビューには音飛びがする、とそれなりの数の声が寄せられていたが、我が家に来たものは特にそういった不具合もなく今のところ正常に動作している。

とにかく可愛いし、音も実家のものより格段に良くて再生モードもいくつか選べるし、Bluetoothももちろん使え、リモコン操作も可能ということでQOLがむらむら上がっていくのを感じる。音楽がより身近なものになった。

プレゼントしてくれた恋人には感謝しかない。

 

────────

 

CDなんて今や古いシステムのメディアだ。

私も最近はもっぱらアマプラでストリーミング再生していて、アルバム単位ではなく雑多に曲単位で聴くことが多かった。聴く、と言っても料理しながらとか、うんちしながらである。BGMでしかない。

久しぶりにCDでアルバムを通して聴いてみると、曲一つ一つはもとより、「アルバム」という作品なのだということをあらためて思った。

アルバムとしての完成度が高いと、一冊の優れた小説を読み終えたかのような充実感があるものだ。

 

ひーたんの矜持

が家に「ひーたん」ことヒーターがやって来て四日になる。

 

arimeiro.hatenablog.com

 

ひーたんは小さい身体ながらはーはー言って部屋を暖めてくれる優れモノだ。

たいへん賢く、それでいてシンプルで、かわいらしいフォルムでよくやっていると思う。

買ってよかったと思う。

我が家に来てくれてありがとう、と毎日声をかけている。君がうちにいてくれてよかったよ。これからもずっと一緒にいようね。と声をかけている。

まるで言い聞かせるみたいに。

 

 

ひーたんはたしかにすごい。がんばって部屋を暖めてくれる。

暖めてくれるのだが……。

実は必要なかったのでは、と恐ろしい思念が昨日から何度も心に浮かんでしまうのだ。

恋人とも、ひーたんには聞こえないところで「実はいらなかったよね」と小声で話している。

 

なぜ必要なくなってしまったのだろうか?

あれだけ熱烈歓迎光臨していたのに。

 

結論から申し上げる。

 

スリッパを購入したからだ。

 

 

なぜスリッパがひーたんの存在を放逐しつつあるのか。スリッパとヒーターはとくに関連性のない、袖の触れ合うこともない他人行儀な関係性であるにもかかわらず。

それは私たちが「寒さ」がどこから来るのかをはき違えていたことに原因がある。

私たちは「寒さ」が部屋の空気から来るものだと考えていた。

そこでひーたんを導入し、エアコンに加えてより一層暖気を蓄えようと企てた。

しかし、「寒さ」は実は空気から来るのではなく、足元、つまりフローリングから来ているということに、皮肉にもひーたんを導入してから気付いたのである。

ひーたんは足元を温めてくれたが、それは表面的な暖かさでしかなく、外は焦げているのに中は生焼けのパンケーキを食べているような、「暖かいのに寒い」という自己矛盾状態に私たちを陥らせ、自律神経を破壊した。

錯乱し発狂しかけた私たちはベッドに逃げて二人隅っこにくるまり、そのときようやく、この寒さは常に足の裏で接しているフローリングから来るのだということに気付いた。

 

フローリングを暖かくするにはどうすればいいか?

床暖房は現実的ではない。

となると物理的にフローリングから距離を取るしかない────というわけでスリッパを購入したところ、これが大正解だった。

 

スリッパは暖かく私たちの足を冷気から守った。

足を暖かくすると全身がぽかぽかしてくる。足は第二の心臓と言われるだけある。

スリッパ購入以後、食事中にひーたんを点けなくても凍えることがなくなった。

料理中も寒くて立ってられないということがなくなった。

 

スリッパは、安くて簡単でランニングコストのかからない、最強の解決手段だった。

ひーたんには不可能だった根本的で永続的な解決を、安価でしかも即効で示した。

これ以上に無い仕事である。

 

 

ひーたんは居場所を失いつつあった。

「脱衣所にさ、置こうよ。お風呂上りとか寒いじゃん?シャワー浴びてる最中に、脱衣所をひーたんに暖めてもらおう。そこがひーたんの新しい持ち場だよ」

「そうしよう、そうしよう」

しかし、我が家の脱衣所には扉が無く暖簾で仕切られているだけなので、ひーたんを「強」モードにして稼働したところで、ほとんど暖まらないのであった。

風呂上りにはむしろ冷気が出ているのでは、とさえ感じた。

 

このままではひーたんの矜持が保たれない。

「私はどうして存在してるの」なんて悲しい疑問にぶつかり、生きる希望を失ってしまう。

 

だから私は、我が家に来てくれてありがとう、と毎日声をかけているのだ。

それは「余計なものを購入した」悔恨の念を振り払うためでもあった。

ぜんぶムカついたからギョーザを作る

月明け。

私は労働をしながら、そのすべてに腹を立てていた。

「労働」という概念そのものに、理不尽とおもった。

すべてを破壊しなきゃいけない……生命(みんな)のために……と義憤に駆られる瞬間もあった。

 

こんなにツライ思いをするくらいならいっそ、連休なんて無い方がよかったんだ。一度甘い蜜(連休)の味を覚えてしまうとただの樹液(土日休み)では物足らなくなるんだ。長く体と頭を休めたことで全体的に弛緩して鈍くなって、平日がより一層きつくなるんだ。

お休みなんて幻だったんだ。

こうなるくらいなら連休なんて無い方がいいんだ。

と一度は思ったものの、ちょっとまてよ、と考えて、やっぱり連休はあった方が良くて、いけないのは毎週連休じゃないことだと気付き、結論した。

毎週三連休以上にすべきだ。太陽太陰暦が諸悪の根源だ。

 

私は、なにかひどい勘違いをしていた。

年を収めて正月休みに入ったら、もう二度と働かなくてよくて、ずっと穏やかな日々が続き、豊かな気持ちを享受できるものとばかりおもっていた。

しかしどうやら違ったみたいだ。

私はあと数十年、下手したら一生働き続けなければならず、こんな連休は長い人生のうちのほんの小指の甘皮の先ほどの些末な休日なのであって、だましだまし仕事から離れられるだけの数日間に過ぎないのだ。

私は激怒した。

理不尽、とおもった。

必ずすべてを破壊しなければならないとおもった。

エヴァンゲリオンくらいに巨大化して千代田区ブレイクダンスを踊り続けなければならない。

生命(みんな)を助けるために……。

 

しかし、そんなことを言っていてもしょうがない。

資本主義に生きる貨幣の家畜として、私は現実的に生きなければならず、そのためには金を稼ぐしかなく、夢も努力もない凡人としては会社へ行き、つまらない仕事の積み重ねによって人生を構築するしかないのだ。

泣きたくなるけど仕方がない。

それが人生、私の人生、悲しい人生、泣きたい人生♪ って「Bad Guy」の替え歌、道化を演じてくへら、くへら、咳するみたいに歌いながら裏路地。凍った水たまりに映る引き攣った顔の醜さに笑いがこみ上げてきちゃうんだ。これで少しはマシな顔になった。くわつはつはつ。

……いンや、私はなにも人生をぜんぶ諦めたわけじゃない。だけどサ、、、

だけどサ、今は仕方がないじゃんか。ピーピー言ってもはじまらないじゃんかサ、、、

無力。

あまりにも。

情けなく、そして悔しかった。

せめてもの救いはこうして悔しいと思えるくらい自分はまだ若いのだということだけだった。

 

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そのようにして全部にムカついた私は、先週の水曜日くらいに、そうだ、週末は、ギョーザを作りまくって食べまくろう、と決意した。

頭がおかしくなってしまったんである。

魂を救済するには、しかしそれしか方法は無いように思えたのだ。

恋人と対面で座って、一枚一枚餡をくるんで一気に焼くのだ。その動作の一つ一つに安寧への祈りがこもり、焦燥と窮屈と辟易を打開するパワーが漲るものと私は考えた。

これは理屈ではない。頭で理解するのではなく、心で了解するものだ。

 

私の意志は固かった。

「週末はギョーザを作るから覚悟して」

恋人には思いついたその日のうちに宣言しておいた。恋人もこれには了承してくれた。

「週末、豚ひき肉とギョーザの皮が割引になるみたい」

恋人が電子チラシを見て言った。

まさに週末は、ギョーザを作るために存在していた。

 

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怒濤の勢いで餡をこね、皮で包んでいった。

 

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フライパンに敷き詰める。このとき、危機感を感じるくらい敷き詰めるのが良いとされる。

 

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そんで、わーっと焼けば完成だよこんちくしょう。

 

まぁまぁ手間がかかるけどコスパがいいし、50個ちかく作ったので今週平日はもっぱらギョーザを食べることになりそうだ。

だけど、めちゃくちゃ美味しかったからぜんぜん良い。食べ過ぎて軽く体調を崩したくらいだ。

 

ギョーザを作り食べることでたしかになんらかのストレスが発散され気持ちよく週末を終えることができた。

あの一個一個には私の怨念と、そして祈りがこもっているのだ。

それを羽根がつくまで焼き尽くし、昇華(消化)したということか。

何言ってんだか。

アーリオ・オーリオの自信の根拠

アーリオ・オーリオを作るのは私の係だ。

アーリオ・オーリオに限らず、カレーと袋麺、オムレツも私の係である。

それらを作るとなるとだいたい私が率先して作っていたため、腕前が上がり、恋人が作るくらいなら私が作ろう、ということになって今では「係長」にまで昇格した次第である。

逆に恋人は、すまし汁、卵焼きなどを担っている。卵焼きには彼女なりの矜持があるらしくこだわりぬいていて、充分美味しいのに「これじゃあ焼きが足りない」だの「焼きすぎた」だの毎度反省を繰り返している。

私の担当である「袋麺」は料理もなにもないのだけど、なぜか私が担当になっており、日曜のお昼とか袋麺を食べることを「袋麺ちゅるちゅる委員会」と称して恋人を喜ばせている。彼女は同棲してから初めて袋麺を食べたということだ。

 

アーリオ・オーリオとはアーリオ(にんにく)、オーリオ(オリーブオイル)のことであり、俗にいうペペロンチーノ(唐辛子)のオシャレな呼称だ。

ほとんど毎週末にアーリオ・オーリオを作るせいで、私はかなり上手になってしまった。

昨日はアサリと平茸のアーリオ・オーリオを作った。

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最近では「前回の方が上手くできたね」なんてことも言われなくなり、「前回よりも美味しくなっている」と自分でも思う。怖いくらい美味しくなっている。

やや固めに茹でた麺、100%乳化したソース、具材の塩味を考慮した塩加減。

店を開こうかな、と調子に乗って考え始めてる。

「美味しい美味しい」と言って喜んでくれる恋人の笑顔がなによりだ。アーリオ・オーリオを作るたびに私は、なんだかこれからの人生もなんやかんや上手くやっていけそうだな、と急に自信を得て、夕焼けに向かって河原をシャトルラン・ダッシュしたくなる。学校の屋上から愛を叫ぶこともある。自信がどんどん漲ってくる。自分に自信を持ったためだろうか、日毎に肌がツヤツヤになって、長年苦しまされた痘瘡の痕が消えた。経済的にも余裕ができて、先日7000万円の高級外車を購入したし、今では都内タワマン85階に暮らしている。女房が37人いる。

すべては桃屋の「きざみニンニク」のおかげである。

 

え?

 

すべては、桃屋の、「きざみニンニク」の、おかげなのである。

 

え?????

 

 

桃屋のきざみにんにく。

これを使えばアーリオ・オーリオが不味くなるわけがないのだ。

 

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丁寧に刻んだにんにくをなたね油でコーティングし、さらにローストした香ばしさを加えました。こうする事により、生のにんにくを刻んだだけでは味わえない、にんにくの旨みと香ばしさを併せ持った商品に仕上げる事ができました。
1壜の中に小粒サイズの生にんにく、約30粒分が入っています。チキンエキスや粗びき唐辛子、黒胡椒などを加えて、にんにくの旨みに深みを与えました。
すりおろしではない食感を残して刻んだ味付にんにくですので、お料理の下ごしらえだけでは無く、仕上げにかけても美味しく召し上がれます。

 (桃屋公式より引用)

 

これさえ使えば多少手荒に作っても必ず美味しくなる。

皆さんも是非、桃屋のきざみにんにくを使って、私のように、素晴らしい人生を、歩みましょう。

 

ひーたん、来る。

ーターを買った。

 

うちの間取りは2DKだが、一部屋とDKが襖で仕切られているだけなので、通常は襖を開けてDKと合せて一部屋とし、実質1LDKとして使用している。

もう一部屋は廊下を挟んで恋人の部屋となっている。つまり私の部屋は無いのだが、そのかわりLDKに本棚や楽器やレコードといった私の私物が並べてあるので、このことに関して別に言うことはない。

 

エアコンは6畳用で、12畳あるLDKには物足りない。

部屋はなかなか暖まらず、フローリングは凍てつき、とくに朝方は地獄を見る。

恋人が酷い冷え性で、毎日のように嘆いている。

先日、つまらないことで喧嘩をしたとき別々に食事を摂ったのだが、恋人は冷え込んだダイニングで毛布をかぶりながら冷めたすまし汁を啜っていて、見るからに憐れだった。私は自分の部屋が無いので、喧嘩をしたら恋人が自室にこもるまではどうすることもできずリビングに横臥するしかない。こういう態度は恋人を逆なでする可能性があるが、涅槃して反省している、という解釈を押し付けてなんとかやり過ごしている。

この日も喧嘩をしたにもかかわらず私は行くあてもないのでリビングに横臥し、恋人が冷えたすまし汁を啜るのを眺めていた。

 

部屋が寒いと心まで冷え込んで、なんだか貧しい気持ちになる。

このままではいけない、とおもった。

冷えたすまし汁を啜る恋人を尻目に、どのヒーターを買うべきか私は調べた。

 

近所の電気屋に行くと「初売り」「在庫処分」と称されて小さいヒーターがかなりお買い得になっていた。

欲しかった松下電器のものが(現在ではパナソニックというらしいですね)あったのでそれを購入した。展示品限りだったので、半額になってさらにお買い得になった。

実際に点けてみると、ぬるりと温風が出て足元を温めてくれた。

台所に立つときや、ダイニングを使うときは足元にコイツを置いておくといいだろう。シャワーを浴びる前にこいつで浴室を温めておけば、毎回厳しい寒い思いをしなくて済む。

われわれはこいつに、ひーたん、と名付けた。

 

ひーたんの電気代ははたして高い。

「強」モードにすると一時間で30円ほど銭を取られるらしい。だからひーたんをつかうのは、ここぞというときに限られる。一日点けておくわけにはいくまい。

金のかかる女は嫌いだ。

だけど、使ってみるとかなり快適で、この日の夕食時、恋人にひーたんをあてがっておいたら、寒いと言わなかった。むしろ暑くて消したくらいだった。

これからさらに寒くなる季節だし、私も在宅勤務が増えそうだから買ってよかった。

ひーたん、冬を頼んだよ。

かわいいいやつめ。

反面教師から学ぶこと

れって誰しもあって、なりたい人物像みたいな、目標とする・尊敬する人を持てるということはひとつの幸福だと思う。

たとえば恩師がいるって幸福だ。

「先生」と呼べて親しくできて可愛がってもらえて、学問以上にその人の生きざまみたいなものを学べるのは、一生にひとつ持てるか持てないかの人間関係だ。

 

逆に、こういう人にはならないようにしよう、という反面教師的な人もいる。

意外と反面教師から学ぶことは多くあって、さいきんは職場でその人から多くのことを学んでいる。

 

先輩は、嘘つきだ。

しかもすぐにバレる嘘をついてしまう、頭の悪い嘘つきだ。

嘘をつく以前にバレている悪事や怠惰について、ただこちらは認めさせて白状させて、状況を整理し事態を把握するために説明を求めているだけにも関わらず、あえて先輩は嘘をついて誤魔化そうとし、有耶無耶にしようとする。

だけどバレているので、上司の機嫌を損ねて場の雰囲気を最悪にする。

しみったれたプライドを守るよりか、とっとと白状をした方が先輩にとっても立場はそこまで悪くならないものを、どんどん状況を悪化させる。

わざとかと疑ってしまうものだが、わざとではなく、ただただ頭が悪いのである。

そういったことを繰り返した結果、誰からの信頼も得られなくなってしまった。

 

その先輩のどこがどう悪いとか、説明することははたして難しい。

外面はよく、フットワークも軽くてよく動き、判断力も速いので、別のチームの人からは好印象を持たれていて評価は高いが、同じチーム内では「最悪」と評価されている。

なぜなのか?

先輩はなぜ「最悪」なのか、しかしながら、説明が難しい。

一朝一夕に先輩のひどさを理解できるものではなく、長い時間をかけて、この人は仕事以前に人間的に終わってるんだ、ということを心で理解(わか)る、そういう種類のものなのだ。

 

そのひとがついに現場を異動することになった。

先日詳しい異動日が知らされ、その先輩のいない場で、現場の引継ぎや後任の教育スケジュールなどが話し合われたのだが、同じチームの私を含めた上司や他の先輩はにこやかに話し、次来るのはどう人なのかと想像し、ようやくいなくなってくれるんだなと愉快に話した。

バディを組まされていた私はとても嬉しかった。

ただただストレスだったから。

だけど同時に、悲しくもあった。

自分がこの現場を去るとき、先輩や後輩たちにこういう風に話されたら……そう思うと笑顔がひきつった。嫌いな先輩にも家族がいて、母親がいて、友だちがいて、あるいは恋人がいて(とてもいるとは思えないが)……そう思うと胸が締め付けられるようだった。

 

私は誠実に働こう。

がんばらなくても、一生懸命やろう。

努力をしなくても、工夫をしよう。

もうすぐ去りゆく先輩から学ぶべきことはまだまだたくさんありそうだ。