蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

本棚をとりまく矛盾

棚の稼働率が9割を超えている。

うちには本棚が二台あるが一台は完全に埋まり、もう一台は一段を残して埋まっている。

完全に埋まっている方の棚は小説というくくりで作り、もう一方のやや空いている方は「漫画」を中心として収納し、CDや翻訳物、それから評論を収納しているので、やや雑然としている感は否めない。

とくに『ジョジョ』の文庫版が66冊もあってこれがかなり幅を占めており(本棚の約半分)、もう、オラオラ状態だ。無駄無駄状態だ。

だからと言って、売ったり捨てたりなんてのはもってのほか。置いておくしかない。

 

漫画と言っても『鬼滅の刃』『ブッダ(手塚治虫)』『寄生獣』がそれぞれ全巻あるだけなので、そこまで多いとは言えないが、漫画はかさばる書籍だから、今後はKindleで揃えるしかなさそうだ。

ところで『ジョジョ』『鬼滅の刃』『ブッダ(手塚治虫)』『寄生獣』が全巻揃ってる本棚って最高じゃないですか?

実家の本棚には『GANTZ』『ハチミツとクローバー』『三月のライオン』『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』など揃えてあるのだが、さすがに新居に収納できないので置いてきてしまった。

 

はやくお金持ちになって大きい家に住み、本棚だけの部屋を作って、思う存分並べてやりたい。

実家に置いてきたのは漫画だけではなく、ハードカバーの小説や、『新潮古典集成』みたいな分厚い江戸時代の人情本集や、図鑑、画集、論文集などもある。レイアウトして綺麗に飾れば知的なインテリアになるだろう。

 

とはいえ今は草庵に暮らす身。

これ以上本が増えたら、一段分はスペースがあるから何とかなるかもしれないが、ハードカバーの単行本が入る高さはないし、文庫本にしてもあまり分厚いものは憚られ、かなり困る。

CDが枠を埋めてしまっているので、それらをどこかに移動せねばならない。

できるだけ移動したのだが、CDはそもそも収納スペースが無いから仕方なく本棚に入れているわけであって、移管先も無い。かくなる上はベッド下に収納するしかないのだろうか。

 

今後はKindleを中心に書籍は購入した方がいいかもしれない。

でもさ、Kindleって便利だけど、情緒がないんだよな。

おれは本にばーっと囲まれてるのが好きで、本がばーっと並べられてるのを見るのが一番興奮するんだよナ。

紙のページをめくる動作が知的なんだよナ。

残りページの「厚さ」が減っていくその実感が好きなんだよナ。

 

最終的な解決として、やっぱりお金持ちになるしかないみたいだ。

お金持ちになるには働きまくるしかないみたいだ。

それは嫌だな……。私は本を読んでいたいのに……。矛盾だ……。

 

於・丸亀製麺

の会社の入ってるビルテナントに、丸亀製麺が入っている。

丸亀製麺とはなにかというと、饂飩屋である。

饂飩とはすなわち うどんのことであり、大雑把に言えば、小麦粉をこねて細長く伸ばしたものである。

それをすするのである。

すするとどうなるか。

美味しいのである。

 

さいきんの出社のモチベーションは丸亀製麺だ。

ほとんど、丸亀製麺のために出社してると言っていいだろう。丸亀製麺が潰れたら会社を辞めるつもりだ。辞職を厭わない。

 

美味しいので、平日の昼でも多少はマシな気分になれる。

しかしこのご時世、そこそこ混雑する店内で、共用のトングを使ってネギを載せたり、てんぷらを皿に盛るのはちょっと憚られるというか、なんだかなぁという気がしないでもない。

無論、消毒液やアクリル板が設置され対策は講じられているのだが、対策を講じているだけであって、実際問題、私の精神が救済されているかと言えば、救済されていない。

私の魂は、饂飩を食べることによってしか、救済されない。

 

丸亀製麺では「うどん札」というものを貰える。

一定の枚数を集めるとトッピングと交換してくれたり、10枚集めると饂飩一杯と交換してくれるという、ご利益のある札だ。

これを私は集められない。

管理がずさんでレシートやらといっしょに捨ててしまうこともあるし、トレイに放置したまま返却してしまうこともある。

また、なんか集めるという行為そのものに気が乗らなくて、意図して捨てることもある。これを10枚以上集めて饂飩一杯と交換しなければならない。その義務感と徒労性に疲れる。

10枚も集められるだろうか?いや、きっと集まらないに違いない。最初から自分に期待していないので、捨ててしまう。

その気になれば10枚集めることなんて容易いはずなのに、やらない。

たとえ10枚集めたとして、どうやって交換すればいいのかわからない。会計時に提出すればいいのだが、私は一体どういう顔で、どういう態度で、レジのおばさんに札10枚を提示すればいいのだろうか。

「毎日来てますよ」って顔をしたくない。

「毎日来てあげてますよ」って態度も違う。

それらを考えると、無理して集めなくてもいいか、という気になる。

饂飩一杯のために精神を削って札を集めるというのは、いくらご利益のある札と言えども私の矜持に反する。

自意識過剰すぎる。伸びた饂飩みたいに興のない人だ。

 

明日も製麺所へ饂飩をすすりに行こうと思う。

ほとんど毎日行ってるから、うどん札提出うんぬん以前に顔を覚えられているだろうし、これだけ来てるのにうどん札を出さない男として認知されている可能性もあって、となると私はおそらく痴れ者扱いをされている可能性があり、こうなるともうあの製麺へは行きづらくなってきた。

よしとこうか。

 

 

ずぞぞぞぞおぞぞぞおぞぞおぞぞぞぞおおおおおおおおおおお

好きな小説 ──『十三月怪談』(川上 未映子)

きどき思うのだ。恋人が死んだらどうしよう、と。

 

たとえば病院で恋人が死んでしまったら。

私は恋人の手が冷たくなるまで声をかけ続け、何度も愛してると伝え、頬に、おでこに、できればくちびるに、くちづけをするだろう。

灰になった恋人を夢遊病の気持ちで墓に入れ、私は思い出がそこかしこに染み込んだ街に、私たちの家に帰るのだ。

恋人がいないはずの虚空を見つめ、ないはずの気配を隣の部屋に感じてドアを開けるかもしれない。朝だったら、いつものくせでパンを2枚焼くかもしれない。目玉焼きを2個焼き、紅茶を2人前作ってしまうのだ。皿に用意し、テレビを点けて、紅茶をそそぎ、二人分の朝食を並べ、ソファの隣の虚空に気付いた時、私は受け入れがたい喪失に沈み込むだろう。

もう二度と朝なんて来なくていい。そう思うのだ。

 

遺品の服を、はたして私はどうすればいいだろう?買ってやった指輪を、ネックレスを、ペアウォッチを、どうすればいいだろう?読みかけの本を、楽しみにとっていたアイスクリームを、使いけかけの化粧水を、ぐしゃぐしゃになったベッドを、彼女が作って冷凍保存しておいてくれた大根の煮物を、私はどうすればいいだろう?

どうすればいい、というか、いったい何ができるのだろう。

 

余りにも無力。

私はただ虚無の部屋に佇んで、いつの間にか黄昏になって、時計が止まっていることにも気付かないまま、茫然と日々に呑まれていく。

たぶんもうこの部屋にも街にもいられなくなって、なんならよく遊んだ東京の街にも出かけられなくなって、実家に帰るか、それともどこか遠い国へ行ってしまうだろう。それでもずっと、離れられないだろう。なにもかもから。

彼女と行こうと約束していた北海道とか、北陸とか、毎年行こうって約束した沖縄の離島とか、海外だったら行ってみたかったトルコとかフランスとかモルディブとか……そういったところを巡る旅に出るだろう。

どこへも行けないのに。

 

ときどきそんなことを考えて、泣きそうになる。

どうしよう、と思う。

怖い、と思う。

だけどもっと怖いことがある。

それは、私が死んで、彼女が残されることだ。

深く悲しみ、どんどん痩せて、抜け殻のようになって日々に呑まれていく恋人を、私は霊魂になってどんな顔して見ていればいいのか。霊魂は顔がないだろうけど。

恋人の深い悲しみを考えると、ぞっとする。好きな人を傷つけたくない。そのほうがよっぽど悲しくて恐ろしいことなのだ。

 

 

この感情って、言葉にしてしまえば安っぽくなってしまうのだけど、愛なんじゃないかって思う。

 

 

『十三月怪談』(川上未映子)はそのようなかたちの「愛」を、「感情」を、怪談という骨組みを用いて(あるいは破壊して)書かれた短編小説だ。

私が思うに優れた小説とは百年先も千年先も読み継がれるものではなく、いまこの瞬間「自分の物語」として読めるかどうかだ。

まるで自分のことを書かれているかのような感覚になって、読後には内容にかかわらず、救済されたようなすがすがしい気持ちになる。

『十三月怪談』は優れた小説だ。

 

この物語の主人公は、病気で死んでしまい、残された夫の人生を部屋の隅から見守る。

霊魂的な存在としてのぼんやりとした描写に説得力はあまりないかもしれないけど、臨場感はある。しかしそれで充分だ。

文体が心を揺さぶり、言葉が強く訴えかけてくる。的確に置かれた句読点、長い一文、リズム、それらが物凄い勢いで、情報と言うよりか熱量みたいにして、身体に、心に流れ込んでくる。

 

主人公も上述の私と同じようなことを考えている。

残された夫のことを考えてたまらない気持ちになる。そして実際にそれを目の当たりにして、霊魂的に圧し潰されていく。

最後にはなにが真実であったのかわからなくなるような終わり方をするのだけど、それすらもどうだってよくなるような清々しさと、温もりがいつまでも残る。

愛情というものに温度があるのなら、こんな温もりなのだろう。

真実なんて、感じたことがすべてなんだ。

 

 

主人公の意識が消えていく描写が好きだ。

言葉のろれつが回らなくなるように、漢字が紐解かれて平仮名になり眠りに落ちていく時のようなまどろみに似た滅裂な文章になっていく。意識がなくなっていく感じがすごくわかる。自我を失うってこういうことなんだなって思う。だけど、すべてが平仮名になって、意識が途切れそうになっても、ただ夫の名前だけが漢字で表記されているのを読んで、私はむせび泣いた。

これは愛の話だ。

 

いくつかの謎を残したまま

れなんだったんだろう。

昔の謎をいくつかまだ引きずっている。

 

 

幼稚園児の頃だ。

私は仲の良い友達とよく遊んでいた。

母親の漕ぐ自転車の後部座席に座り、商店街へ向かっていたところ、その友達のお父さんと偶然遭遇した。

今でも覚えているのだが、彼は一介の主婦には慇懃(いんぎん)であるくらいの挨拶をした。慌てたように何度も頭を下げ、「お世話になっております」くらいのことは言っていたかもしれない、なにか異様な雰囲気だった。

「ねぇどうしてあんなにあいさつしてたの」と私は母に訊いた。

すると母は、「弱みを握ってるから」と答えた。

 

今になってあれはなんだったのか母親に訊いても忘れているだろうし、私だってその友達の名前や顔も忘れてしまったのだ。どう訊いたらいいのかわからない。

母と友達のお父さんの間にいったい何があったのか?

母は、ある家庭の父親の、いったいどんな弱みを握っていたのだろうか?

永久に謎だ。

 

   ↓

 

中学生の頃だ。

電車で通学していて、毎朝同じ電車に、同じ女の子と乗り合わせていた。

幼馴染のような関係なので、べつに恋愛とかそういったものはなく、なんていうか双子の姉弟みたいだった。本を貸し合い、お互いの家に遊びに行ったり、ときどきテニスをしたり、神社でいつまでも話したりしていた。

朝、いつものように彼女が私の隣の座席に座り、しばらくしてから「帰ったらケータイ見て」と言った。

学校が終わり帰宅後、ケータイを見ると彼女からメールが入っていた。

そこになんというメッセージが入っていたか忘れてしまった。というのも、重要なのは着信時間だったからだ。

そのメールが届いていたのは、朝電車に乗っていた最中の時間だったのだ。

校則で学校にケータイを持って来てはならなかったし、電車の中でお喋りをしていたのでこっそり鞄の中でメールを打ち、送信することなんて不可能だったはずだ。

翌朝、どういうことか訊いた。

「さて、どうやったでしょうか」と彼女は笑みを浮かべて教えてくれない。

 

・時間指定で送ることができた 

・家にいる親に送信してもらった

・やっぱりこっそりケータイを持って来ていた

 

どれも「違う」と彼女は笑う。

「さぁて、謎が解けるかな?」といたずらっぽく言うのでなんかムカついて(フィクションだったらなにか展開があったはずだろうけどマジで幼馴染なので普通にムカついただけだ)、それきり回答を放棄した。

「教えてよ」

「だめに決まってるでしょ」

そんな会話でこの話は終わってしまったのだが、あれから10年余、まだ謎は解けておらず、確認するのもやっぱりシャクだし今更そんなことで連絡とりたくないし、だいたい彼女がこのことを覚えているかもわからないし、かれこれ数年は会ってもいないので、気まずい。

考えれば考えるほどますますわからなくなる。

あのとき、もう少しごねて答えを聞き出せばよかったんだ。

 

   ↓

 

知らなくてもいいことは世の中たくさんある。

そういうことにして心にカタをつけている。

くっつかなくなった吸盤調教日記

キッチンの包丁とか洗剤とか仕舞ってある流しの下の収納扉に、吸盤で付くタイプのタオル掛けを吸着させているのだが、購入してからおよそ半年、吸着力の低下が深刻化して5~10分に一度落下するようになり、吸盤は落ちては床で仰天し懶(ものう)い顔で「はよ吸着させてくれんか」と自身ではなんの努力もしないで私と恋人を見つめてる有様で、我々をほとほと困らせている。

なんだその不遜な態度は。100円ショップで陳列されていたくせに。

あの頃はもう少しきりっとした顔つきをしていた。吸盤はかたく、濁りなく、つややかだった。今ではぼんやりと歪んでざらざらしている。

直してしばらくすると「がたっ」と情けない音がキッチンから。見ると仰天してる吸盤。やれやれ。うんざりしてくる。

怠惰な従業員を教育しなければならないように、すぐ落ちる吸盤もなんとかせねばならない。これも主人(オーナー)の務めなのだ。

 

吸盤の吸着面にゴミがあると空気が入ってくっつきにくくなるであろうことは、義務教育を修了した者なら調べないでもわかる。キッチンペーパーでゴミをはらい、吸着させた。

しばらくはそれで機嫌良さそうにしているのだが、ふと見るとやはり落ちている。

吸着面を濡らすと良いかもしれないと思い立ち(PC界隈の「とりあえず再起動」と同じで、「とりあえず濡らしてみる」という理屈のない解決案がはやい段階で存在するのが吸盤不具合界隈の特徴だ)軽く濡らして扉に叩きつけた。

「ぎゅぽっ」と力の入った音がして、吸盤は扉に付いたが、一瞬のやる気もむなしく、わりに早く落下した。

 

調べてみると、吸盤を濡らすのは「NG」らしい。

時間の経過とともに水が蒸発して壁面と吸盤の間に隙間ができて、結局落ちるのだ。

www.nhk.or.jp

NHKが言うのだからそうなのだろう。

 

上記サイトを見ると、80度前後の湯に5~6分浸けておくと吸着力が復活するとあったので、さっそく実践した。

鍋に湯を沸かすのは面倒なので、薬缶に沸かしてシンクに置いた吸盤にじゃぶじゃぶ熱湯を注いでやった。シンクが熱膨張してベゴン、と強(したた)かに鳴った。吸盤は甘んじて熱湯をかぶっていた。

吸盤を乾かし、扉に押し付けたが、しかし、ダメだった。

この方法ではダメみたいだ。面倒だが鍋に湯を沸かして吸盤を浸すしかないだろう。

80度前後という温度もよくわからないので、とりあえず沸騰したらアルミ鍋に吸盤を沈めた。気泡と湯気の中に沈み歪む吸盤はなんだか、そういう「刑」に処されているようであった。怠惰の罰である。

弱火にして15分くらいコトコト煮てやった。もしかして塩とか酒とか加えた方が良かっただろうか?

 

湯から引き上げると、吸盤が明らかに歪んでいた。

熱すぎたのだ。

その歪み方は、なんていうか、表情にして「苦悶」と名付けられるそれであった。

これはもうダメかもしれない。

しかし、ダメもとで付けてみたところ、くっついた。

しかも30分くらいはそのままくっついていた。

ということは結局落ちてしまったのだけど、いちおう少しの回復は見込めたようだった。

 

   ↓

 

その後も吸盤は落ち続けた。

私は物理的な解決を諦め、精神的なプレッシャを与える作戦に切り替えた。

「これで落ちるようでは、年は越せても君がどうなるか知れたものじゃないねぇ」

「ほんの1メートルのところに、君にぴったりのゴミ箱を用意したんだ。ここからよく見えるだろう?」

「情けないね」

「君、なにができるの?」

「よくやってきたとはおもうよ。だけど君はまだ引退して良い年齢じゃない。もっと僕に期待をさせてくれよ」

「死ねば?」

ハラスメントど真ん中の発言を吸盤に浴びせかけた。

 

冗談みたいだが、これが効く。

 

ぜんぜん落ちなくなった。

数時間に一回は落ちてしまうのだけど、そのたびに上述のプレッシャを与えて吸盤を引き締めてやるのだ。不思議なことに、だんだん持続時間が伸びていく。

立て続けに落ちたときは、多少の殴打も加える。何度言葉で言ってもわからないようでは畜生も同然。肉体で覚えさせねばならない。犬と同じだ。言葉のわからない相手への躾は威厳と痛みを伴わねば成せない。許せ。これはお前の為でもあるんだ。

このようにして吸盤は元の力を戻しつつあった。

 

実家に帰省する前にもプレッシャを与えた。

「しばらく留守にするけどその間に落ちたら……わかるね?」

吸盤は沈むように頷いたように見えた。

もうその表情に怠惰は見て取れない。

この帰省は最後の試練なんだ。つらいだろうが頑張ってくれ。頼むぞ。できればお前を捨てたくはないんだ。せめて一年は頑張ってくれ。信じてるぞ。

そうして私は帰省し、二日間家を空けた。

 

   ↓

 

実家から戻った私は、薄暗いキッチンで決意した。

今年はまず、新しい吸盤を買おう、と。

墓探し

一昨年亡くなった2頭の犬たちをまだ墓に入れていない。

庭に骨を埋めてもいいのだが、いつか引っ越すかもしれないし、水難地域でもあるので流されてしまう可能性を考慮すると、そういうわけにもいかない。

 

実家の庭には以前買っていた金魚やメダカたちが埋められている。

また、犬が産んだものの産後すぐに息絶えてしまった子犬たちも埋められている。

火葬されずに、土葬されたものだ。野良猫やカラスどもに掘り起こされないように焼酎をかけ、ローズマリーやミントなどハーブをまぶして埋めた。燃えた灰を上に置けば蒸し焼きにできていたかもしれないが、あいにく犬を食べる文化は無い。土葬した。

掘り起こされた形跡はなく、いまはカレーの木やフェイジョアの木や水仙が植えられ、おそらくそれらの根の元で安らかに眠っているだろう。養分になっているのか、毎年きれいな花が咲く。

ときどき、あの子犬たちや金魚たちは、骨になっているだろうかと考える。

子犬たちのもとに親犬を埋めてあげるのもいいかもしれないけど、16年も連れ添った犬を、墓標もなしに庭に埋めるのは遺族として気が引けるものだ。

 

実家の近所に動物霊園があると知った。

海辺の街だし、歩いて行けるので、そこがいいんじゃないかということで話がまとまりつつあった。海の見える墓はデートスポットになるくらい素敵だろう。

骨をずっとリビングに祀っているわけにもいかなくなってきた。なにせ2年前のことなのだ。いまは猫たちもいるし、そろそろ別れの時が来たのだ。

近所だからすぐにお参りに行けるし、いい感じの霊園なら私が帰省した際にピクニック気分で出掛けられるだろう。

私と母は下見に行くことにした。

 

徒歩30分ほどで意外と遠かった。

奥まった寺院の山のふもとの手前の小高い丘に動物霊園はあった。

動物の共同墓地ということで、それぞれに墓標が立っているわけではなく、大きなひとつの墓標に愛されたペットたちが祀られている。

ひじょうに急な坂の上、崖下の日陰に祠はあった。

よく手入れされていて綺麗だったが、じめっと湿っていて寒く、崖にこびりついた苔が、万年そこが日陰であることを物語っていた。花や折鶴がそこかしこにお供えされ、先ほど誰かがお参りしたのだろう、線香の灰が濡れた地面に落ち、なんとなく陰気なにおいがした。海は崖の向こうにあって、波の音も聞こえなかった。

私と母は踵を返し、別の墓地を探すことにした。

 

「日陰は嫌よねぇ」と母は言った。

「多少遠くても、日当たりが良くて、車で行ける所の方がいいかもしれない。駐車場があって、ちょっとしたベンチがあったり、広いところ」

「できれば海が見えて」

「うん」

「安くて」

「穏やかで」

「安らかなところ」

「うん」

 

いつになったら墓に入れられるかわからないけど、べつに急いでなんかいないのだ。のんびり探せばいい。なんならずっと家にいたっていい。

帰省

家へ帰ると、なんとも居心地の悪いものだった。

家族仲が悪いとか、壁に大きな穴が開いているとか、庭に巨大な仏像が鎮座しているとか、そこら中に虫が湧いているとかそういう居心地の悪さではなくて、友だちの家に遊びに来たときのような、「自分の居場所ではない」ところに来てしまったという落ち着くことのできない居心地の悪さだ。

それだけ引っ越したアパートは私の身体に馴染んでしまったのだろう。

つくづく、ああ、新しいところで生活をしているのだなぁ、とおもった。

 

実家には実家のにおいがある。

フローリングに染み込んだ亡き犬たちのにおい(おしっこを漏らしたにおいが染みついてしまっている)、ソファに漂う猫のにおい(最近おしっこを漏らしたらしい)、実家で使っている洗剤のにおい、お風呂場のにおい……

懐かしく、思い出深いにおいだ。

実家は海辺の町にある。駅を降りたとき、マスク越しでも潮の香りがし、自分の体の隅々に行き渡って、帰ってきたのだと実感した。懐かしさよりも、帰巣本能の感覚を覚えた。

もはや居心地の良さとかそういうものでもなく、なんていうか、ひじょうに馴染む。

魚が水を泳ぐように、コアラがユーカリにしがみつくように、マスターがバーにいるように、私にとって自然な場所にちゃんと戻ってきた感じがする、そういった類の身に馴染む感覚だ。

そう思えるのは、この街で育ち、この街を出ていった、そういうことなのだ。

電車で一時間ちょっとの場所にある実家。

「帰ってきた」と思ってしまうそのことが、ここがもう私の場所ではないということ教えてくれる。

 

駅前の風景も変わり、向かいの家も建て替って知らない人が住み、家電が増え、変わったものと変わらないものが混在している。

あとで海へ行くけれど、思い出の中の海よりも現実の海はもう少し汚いかもしれない。

魯迅の『故郷』を思い出す。

美しい故郷はもはや記憶の中でしか存在しえないのかもしれない。でもそれは当然のことだ。私はこの街を出て行き、ほかの場所で暮らしているのだから。

 

街が変っていくように、私自身も変貌を止めることはできない。

たとえば、ほんのすこし、家族へ優しくできるようになった。

実家を離れたことで、母と妹を慈しめるようになった。

変化は寂しくもあるけれど、マイナスなことばかりではないのだ。

街は住みやすくなり、向かいの家の家族は楽しそうにバドミントンをし、新しい家電は暮らしを良くしていく。