蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

AirPodsPro買った!!!!!!

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さんざん悩んでいたけど、買いました。AirPodsProAmazonで。

「一週間後にも悩んでいるようなら買った方がいい」と恋人に言われ、きっちり一週間ずっと考え続けていたので、思い切って買いました。

買うと決めたらはやかった。その5分後には購入し、翌朝9時前には置き配されていた。

すごいぞ人類、すごいぞ令和。

 

ごめん、今日ちょっとテンション高いわ。

 

 

開封の儀。

Nintendo Switchのときもそうだったけど、設定とか使い方とかぜんぜん説明なんかない。

必要最低限、わからなければ調べたら?って感じの文字が小さくて言葉足らずな説明書が付いている。日本語総文字数はたぶん140字に満たないくらいだ。説明しているとは言い難い。

これが一見だいぶ不親切なんだけど、実はたいへん親切なのだ。

というのも商品の構造、スタートアップの段階からハードルが低くて、説明的ではなく直情的、感覚的に操作できる仕組みになっていて、触っているうちにわかるので、つまり説明が要らないから説明書が薄いわけである。

iPhoneBluetoothオンにしてケースを開ければそれで設定は終了。驚くべきことだ。

それで耳にさせば音楽が聴けちゃう。

最低限の操作方法が簡単なムービーで流れる。その操作自体もいたってシンプルだ。

 

企業努力。

 

どの世代にもわかりやすく、誰でも使いやすい。

使いはじめるまでのハードルがとても低い。

ひと昔前にくらべて、ユーザーの幅がグッと広がったのだな、と思うし、こういった努力が結びついているのだな、と納得した。

 

 

ノイズキャンセリング、本当にすごい。

ぜんぶの音が遠くにいる感じ。怖い。

水に潜ると音がこもって体内の血液の流れる音とか心臓の鼓動が聞こえるじゃないですか、あんな感じ。「内側」の音が聞こえる。体内に「海」の存在を感じる。目の前にいる恋人が扉の向こうから話しかけているように聞こえる。

「密閉」が一番近い感覚かもしれない。

外すと世界のうるささに驚く。この世にはこんなにたくさんの音があって、情報が多いのだと実感する。なんだかすごい体験だ。

ノイズキャンセリング機能、じつはイヤホンを外した後の方が気持ちいいかもしれない。たくさんの音が、風が、情報が流れ込んでくるのが新鮮で面白いのだ。

 

音楽ももちろんいい感じだ。

そりゃあ、もっと高価なヘッドホンに比べたら劣るけど、そこまでこだわりがなければぜんぜん気にならない。

着け心地もびっくりするくらいフィットして、AirPodsつけながらFitBoxingしたけど耳から落ちなかった。

 

 

あ~買ってよかった。買ってよかった。

これで人生が豊かになるぞ。わはは。

なんか万能感が芽生えた。自己肯定感が上がった。

心の余計な音も聞こえなくなったのかもしれない。わはは。

生きることに集中できない

事中にアイスクリームのことを考えていたら、まったく無慈悲に突然、業務のことで他のチームの人に話しかけられて、要領を得ない答えをしてしまい恥を掻いた。

アイスクリームのことを考えているときに仕事の話をしないでいただきたい。

 

最近の私は、ここにきてようやく「ゴールデンウィークが終わった」ことを認識し始めたこともあり、心が無理になってきていた。

もっと言うと、「ああ、春が来たな」と思っていたのがいつの間にか夏になっているではないか。

四季。はやいよ。

このように時間感覚が狂っているのは、きっと、ずっと うわの空で集中力を欠いているからに違いない。

 

仕事中はとくに うわの空で、関係ないことばかり考えたり、関係あることを考えていてもイマイチ集中できず、アイスクリームや草花のかたちに思いを馳せてしまう。

なにかそういう病気だと言われればそれまでだが、そういうものでもないと思いたい。

 

たしかに昔から集中力は欠けていた。

特技と言えば集中力が無いことだ。

 

勉強に集中できたためしがなくて、教科書の登場人物で落書きを免れた偉人はいない。

いまこのブログを書いているときも、一行前の「勉強」からこの行頭の「いま」までの間に、私は空きビンを吹いて笛にして遊んだり、恋人の後を付け回して犬になりきったりするなど、集中力の無さをいかんなく発揮していたところだ。(これを「行間」を読むと云う)

本当に集中して頭の芯がとろけるようになることもあるけれど、なかなかそのモードに入ることができず、結局無為になる時間が多くなる。

私にとって「集中」はアンコントローラブルだ。運が良ければ集中できるし、悪ければ時間を溶かすだけだ。

 

もはや「思考」すら集中できなくて、真面目に考えなければいけないときにかぎって頭の中にいる別の私が「お、考えてるねぇ、大変だねぇ」と言ったり、また別の私が「お昼ご飯は何を食べようかなぁ」「うんちのおしっこ」「三枚舌外交、三つすべて答えよ」などと言って思考を邪魔してくる。さらにまた別の私が「さあて、考えてみるとするかな」とわざとらしく声を大きくする。

まったく、邪魔な「私」たちだ。

その「別の私」も私自身が思考して作り出した幻なので、とどのつまりは思考が散漫になっているのである。

もはや同時多発的に脳内で繰り広げられているので、客観的には並列に思考しているようにも見えるだろう。高速演算により別々のタスクが同時に進行しているように見えるコンピューターみたいなものだ。(私は富岳ほど利口ではないが)

 

この注意散漫、日常生活に支障をきたすギリギリなのでどうにかしたい。注意散漫により交通事故を起こす日も遠くないだろう。

このままだと生きることそのものにも集中できなくなり、そうなったら都度死んだり生き返ったりするハメになるだろう。きっと「死」にも集中できないだろうから。

目薬のパッケージデザイン、良(よ)

が覚めたときから右目に違和感があって、目ヤニがひどく べたべたしていた。

拭いても拭いても右目から涙がこぼれ、二重になっていた。

(やっぱり二重の方が、きりっと顔が引き締まって見えるな)

などと考えているうちに涙はおさまったが、だんだん痒くなってきて、痒みは結局一日中続いた。

 

なにか病魔が右目に憑りつき、膿を吐いているのだろう。迷惑な話だ。

ほんの少し赤みが差していて、一度掻いてしまうと発狂するまでおさまらないことは必至、悪化する恐れがあるのでできるだけ触れないよう努めたものの、無意識に擦ってしまうみたいで、仕事終わりには右目だけ石でできているみたいにゴロゴロした。

 

目薬を買わねばならない。

300年くらい前だったらそれなりの祈祷師にお祓いを依頼して、右目に味噌を塗り、火で炙ったのちに巫女の唾を吐きかけて畏(かしこ)み白(もう)すのが通例だろうが、令和ではそういったことはなかなかしてくれないので、代わりに目薬を買うしかないのである。(例外的にやってくれるところもある)

仕方がない。

 

駅前に乱立するドラッグ・ストアへ踏み込み、祈祷代わりの目薬を探すと、あった。

それも棚一つ分、ありとあらゆる症状に合わせて数十種類が陳列されていた。

「ドライアイ」「疲れ目」「結膜炎」「ものもらい」「かゆみ」「痛み」「鎮痛」「抗アレルギー」……私が買うべきなのはたぶん「かゆみ止め」的なニュアンスの薬だろうが、それすらも種類が多すぎてどれを買えばいいのかわからない。

値段も同じくらいだし、成分もだいたい似たり寄ったりで、効能もほとんど同じだった。なにがしたいんだ、こいつらは。

 

はたと困っていたそのとき、ふと目に留まったのが、Santenの目薬だった。

 

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このパッケージの、飾り気のなさ、無駄の無さ、文字と最小限の色遣いによる洗練されたデザインに目を惹かれた。

他の商品の、爽快感を意識した清涼感のある色遣いだったり、ぎらぎら光っているアピールだったり、伸びやかで特徴的なフォントの中で、Santenのこの商品からは、あくまで堅実、堅気の仕事、必要なものを必要なだけ、という姿勢がうかがえ、好感を持った。

一見飾り気のないデザインだけど、ごちゃごちゃしていなくて必要な情報が目に留まって、無駄がなく、私はこれに美しいとすら思った。アルファベットもオシャレだ。

 

洗練されたデザインは芸術たりえるのだ。

(「芸術とは洗練されたデザインである」は成立しないが)

 

調べてみると、こういうのはタイポグラフィの一部らしい。

ポカリとかカロリーメイトとか大塚製薬の商品をはじめ、昔の医薬品のパッケージデザインも美しく、なんだか愛しい。文字のバランスとシンプルな色合いで魅せるってすごいことだ。

これからはドラッグストアに行ってパッケージを眺める、新しい楽しみができた。

 

 

図らずもなにか新しいものに目覚めたところで(目薬なだけに)、この薬にも期待ができそうだった。

休まらない休み

曜の朝、ハイチュウを炎天下の線路の上に並べ続ける悪夢から目覚めると、私は体調不良に陥っていた。

目が回り、足元がフラフラして、吐き気と腹痛があった。ひどく寒くて思わず羽毛布団にくるまった。

 

私の会社では出社と在宅勤務があり、体調が悪いときは強制的に在宅勤務になる。

その判断は自己申告制なのだが、こういう昨今だし、自分で在宅を選べるならその方が良い。

在宅勤務がはじまる時間まで横になって様子を診ることにした。ちょっと横になれば治ることもある。悪寒はしたが、体温を測ったら熱はなかったし、大したことはないだろう。

 

普段は私が紅茶を淹れたり恋人のパンを焼いたりするのだが、フラフラしてそれもできないほどだった。ひどく寒くて震え、口の中がどろどろしていた。

「大丈夫なの?」と彼女は心配をする。きっと大丈夫だと思う、と答えたが、自分でもわかるくらい声に張りがなく、なんとなくダメそうだった。彼女には謝って、今朝は自分で全部用意するように頼んだ。

 

腹痛と吐き気には波がある。

ピークに達したときにトイレに行くが、どうしても吐けない。胃の中が空なのだろう。あるいは吐く心の準備ができていないのかもしれない。月曜の朝から吐きたい人間なんていないだろう。

鏡にうつった私は青ざめていて、浜に打ち上げられた水魚みたいな目をしていた。

やれやれ。病人じゃないか。

 

結局一時間寝てもいっこうに良くならなかったので、この日は思いきって休みを取った。

不思議なことに、休み連絡を入れたその時からなんだか体が軽くなってきた。

お茶を一杯飲み、窓を少し開けて風を入れ、午前中は眠った。

 

目覚めると昼過ぎで、体調はすっかり良くなっていた。

腹が減っていた。涼しい風が吹き込んで、実に気持ちの良い天気だった。自分がどうして休んだのか忘れるほどだ。寒気も無い。

ちょうどお昼休みが終わったくらいの時間か……。

今頃みんな、なんの仕事をしているだろう……。

こうなるとなんだかズル休みをしているみたいで、別の意味で気分が悪くなった。

元から決めていた日に休暇を取るのは好きだが、当日いきなり休むのは気が引ける。月末は処理も多いし、月曜日はただでさえ忙しいのだ。こういう日は問い合わせが多くて自分の仕事に手が回らないだろうに、私の分の仕事まで押し付けてしまっている。

途端に罪悪感で胸を絞られるようだった。

 

休むなら心まで休めないと、休みじゃない。

どこにも落ち着けない気持ちで本を読んでいたらあっという間に夜になり、五月が終わった。

夏服を一着しか持っていない男

に着るための服がなかったので(なぜ?)、服を買った。

どれくらい無かったかというと、一着しかなかった。

 

正確には余所行きの服が一着しかなかった、というだけで、部屋着にしているボロボロのTシャツは無駄に五着くらいある。

「服を買ってよ」と恋人に言われていた。

「まぁまぁ」と言って誤魔化していたが、近頃出かけるときは常に同じ服であることに気付かれて、私が服を一着しか持っていないことがバレてしまった。

もっと言うと、ズボンに関しては一着も持っていなかったので、冬にも履いてたズボンを代用していたのだ。

「買いなさい」恋人の口調はいつしか「命令」になっていた。

 

普段着のほかに、私はスーツも欲しかった。

ずっと大学入学時に買ったスーツを着ていたのだが、先日ズボンの尻の部分に縦線が見え、それは明らかに経年劣化による摩耗で、修復するほど高価なものでもないので新しいものを買うことにしたのだ。

ところで尻の部分の亀裂はいつから入っていたのだろう。

下手すると私は下着が透けたまま仕事をしていたことになる。

棚の高いところにあるダンボールを取るときとか、重いものを運んで腰を曲げて尻が強調されているとき、私のパンツも同時に「強調」されていたのではないだろうか?

深く考えると怖くなるので、考えないことにした。そのスーツのズボンもすぐに捨てた。

 

 

そういうわけで何もかもが不足し、何もかもを必要としていたので、服を買いに行った。もちろん、一着しかない夏服と冬のズボンで。この日は暑く、早急に夏用のズボンを買うべきだと思った。

留美禰や丸ヰでいくつか店を見て、ああ、もうこれでいいや、とぱっぱと決めて買いたかったのだが、はたして自分はどんな服を着たいのか、なにを目指しているのかビジョンがないので、服を選べない。進路に迷っていた高校生の頃を思い出した。

店員さんに声をかけられて、ありがたいことに「どういった服をお探しですか?」と訊かれたので、「すべて、すべてがないんです。私には、なにも、なにひとつ持ち合わせがないんです」と答えたところかなり困惑させてしまった。額に汗。申し訳なかったが、それが本音だった。

しかし店員さんは気持ちの良い青年で、ではこれはどうでしょう、これなんかもお似合いかと、などと私の無理難題に臆せずいろいろなタイプの服を薦めてくれた。

私のようにビジョンのない人間にとって服屋の店員さんはありがたい存在だ。がんがん声をかけてほしい。話がしたい。見立ててほしい。

 

結局、店員さんが薦めてくれたものはひとつも買わなくて申し訳なかったが、ズボンとTシャツを一着買うことができた。これで普段着は二着になったわけである。

ひとまず、と言ったところか。

まぁまぁ、今日はこの辺にしといてやろう。

 

その後スーツ屋へ行き、スーツを二着買った。

スーツって高い買い物だ。来月のカード支払いにはiPhone代や本代などさまざま嵩んでおり、今回の衣服も合わせるとすごい数字になってしまった。しかもこの期に及んで、私はAirPods proも買うかもしれない。

いくら「ボーナスの前借だ」と心しても、ボーナスが吹っ飛びかねない。

本が高価ならわかるのだが、服が高価なのが意味わからない。

高価な服はあってもいいが、アベレージが高い気がする。服は人間らしくあるための基本ではないのか。人間が人間らしくあるのは衣服によるところである、と『吾輩が猫である』の猫も言っていたじゃないか。

同じように、食べ物も住居ももっと安くすべきだ。人間が人間らしくあるために。

(馬鹿な奴ほど話を大きくする)

 

 

金をかなり浪費したことと、これだけ買ってもまだまだ服は足りていないことに、だんだん腹が立ってきた。

なにか買うと充足感があるものだが、服に関しては「浪費した」としか思わないあたり、本当に服飾に興味が無いのだろう。それがまた悲しい。

服に興味を持ちたい。オシャレになりたい。

 

帰り道は物凄い雨が降って、もう全部どうでもよくなってその場で泣き出しそうになった。いっそ泣けたら幸せだったかもしれない。

 

私たちは祈りを食べている

ュウマイは家で作るものではなく、買って食べるものだと思い込んでいた。なぜなら我が家には蒸し器もないし、シュウマイの包み方もよくわからなかったから。

あれは専門的な道具と技術を要する食べ物だと思い込んでいた。焼売って書くくせに蒸すんだもん。

 

でも、作ろうと思えば作れるものですね。

料理本に「蒸し器が無くても作れるシュウマイ」のレシピがあり、ちょうど材料も揃っていたので(しかも簡単そうだったので)昨日の夜に作ってみた。

大した出来栄えではなかったので写真は無いけれど、想像していた以上に簡単にできたし、家で作る分には満足な美味しさだった。

 

それにしても、こういったやや特殊な料理を作って毎回思うのは、売られてる商品ってスゲーんだな、ってことだ。

崎陽軒のぎゅっと肉が詰まったシュウマイってスゲーんだな。駅弁だから冷めた状態で食べるのに、冷めてても美味いってどうなってるんだ。

昨今は冷凍食品のシュウマイもかなり美味しい。

肉汁がジュワッと溢れて口の中で優しくほぐれていくのに、ずっしりと台形型の形を維持していて、いったいどういう仕組みなのだろう。

 

 

こういった「工夫」の美味しさって、「願い」の結実だと思ったら尊くなってきた。

高級なレストランで提供されるもてなしの数々や高価な食器、意匠を凝らした盛り付け、こだわった材料、一流の腕前には「お客様に素晴らしいひと時をご提供しよう」という意志こもっていて、その願いを結実させるためにすべての行動と結果を作り出している。もちろん私は高級レストランに行ったことが無いのでわからないが、きっとそうだ。

こういったもてなしの心が高級店を高級たらしめている理由のひとつだけど、でもその願いって、駅弁や冷凍食品にもあるものなのだ。

どうすれば冷めていても美味しく食べられるか、どうしたら形を崩さないか、どうしたら冷凍していてもジューシーに仕上げられるのか、そういった試行錯誤はすべて「消費者に美味しさを届けたい」という願いに基づいていて、その結実として、商品となって売られているのだ。無論、他社と差別化を図る戦略面もあるし、その側面の方が大きいかもしれない。

商品は無事に消費者に届き、食べると(ささいなものかもしれないが)たしかに心を動かす瞬間を生み出す。

これってなんだかすごく尊い営みだ。

 

料理って、誰かのために料理をすることって、人間らしい美しい営みなんだと気付いた。

 

自分で料理をするときもこの「願い」ってある。

恋人と食べる料理には思いを込める。ささいなことだけど、スジを取り除くとか、アクをちゃんととるとか、そういう部分で。美味しく食べられるように、いい気分になるように。

 

誰かのためを想って作る料理はほとんど「祈り」なのだなぁ(詠嘆)。

口内炎占い入門編

内炎占いってできないだろうか。

ひとくちに口内炎と言っても発生する場所はさまざまだ。

舌の先、舌の裏、右頬、左頬、上唇、下唇、さらに細分化も可能だ。口内炎の大きさ、種類によっても命運は変わってくる。

 

そんなこと考えちゃうくらい、口内炎がよくできる。

 

私の場合、舌根にできるとストレスが原因で、だいたい仕事がかなり忙しかったり憂鬱なことが続くとできる。舌根の口内炎は薬を塗っても治癒が難しく、長い時間苦しむ羽目になるので最悪だ。

ただでさえストレスを感じていて、それはわかっているのだから、口内炎となって「ストレスありますよ~」ってアピールしなくてもいいじゃないか。なにがしたいんだ。かまってちゃんかこの野郎。

 

舌先の口内炎は、口の中で力を入れて内頬をすぼめることで舌先が歯にあたって発生したものだ。口の中で力を入れてしまうのは、ストレスに耐えるために無意識にやってしまっている悪い癖だ。歯を食いしばってしまうのだ。自傷的な原因によるストレスである。

舌先もやはり薬がすぐ溶けてしまうから治りが遅く、しかも喋りに支障をきたすのでかなり厄介である。

このストレスの根幹にある、たとえば仕事や対人関係や住宅環境に焦点を絞ろう。無意識の行動の原因には自分でも気づいていない深い闇が潜んでいる。

 

 

このように口内炎ができる場所と大きさによってなにを原因として発生したかを突き止め、そこから心象にあるその人の思いを嗅ぎ取り、どういった行動選択が今後その人を導くか推論する。

それが口内炎占い。これが口内炎占い。

 

舌根なら過度のストレス、舌先なら自傷的なストレス、頬なら栄養不足なので栄養不足の原因となったストレス、唇なら……

── 口内炎占いは、すべて「ストレス」を根幹としている、かなり後ろ暗い占いである。

この先の命運がどうなるかなんて知れたもんじゃない。「ストレスで死ぬでしょう」これ以外に無い。

ステロイド系の薬が効くでしょう」このくらいしか助言できない。

占いとして破綻している。ものの800字で。

 

 

この話は無かったことにしてください。

こんな記事を書いて自尊心がボロボロになり、口内炎が悪化しないことを祈る。