蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

コンクールが終わっても

ょっといい話があるのでひとつ。

 

皿洗ってるときって漫画とかだとよく鼻歌を歌ってるシーンが描かれるが、実際はそんな歌う感じじゃなくて、私の場合は結構黙々と、地蔵を磨くかのように真摯な態度になってしまい、逆にそれ以外の時はけっこう歌を歌ったり踊りを踊っているし、お鍋の中からボワッと出てきたりもするので自分でもわけがわからない天邪鬼だ。エジソンが偉い、などと部屋の隅に向かって話しかけたりもする。

ま、それはどうでもいいとして。

なんかどこだったか忘れたけど、気分が良くて鼻歌を歌っていた。

とにかく無意識に自然なメロディで、はっと気付いた時に、それがなんの歌だか思い出せなかった。まるで古い記憶の底に眠っているオルゴールの蓋がひっそり開いたみたいに漏れ出た懐かしい音楽の感じがした。

なんとなく歌詞も出てくる。

 

 ♪先生ほんとうなの?

 ♪……コンクールが終わっても消えないの?

 

なんなんだ。

メロディラインはけっこう完璧に近く思い出せるのに歌詞が出てこない。もちろんタイトルも出てこないし、これをいつ歌っていたのかもよくわからない。ただ音楽が深い海の底から流れてくる。

たぶん確実に合唱曲だ。

今の時代は便利なもので「コンクールが終わっても 合唱」で検索すれば一発で出てくる。

youtu.be

「未来を旅するハーモニー」という曲でしたね。

 

たぶん小学生のときに歌ったのだろう。ぜんぜん覚えていないのだけどそうに違いない。

昔の曲を思い出してエモくなった、ってそれだけの話題なんだけど、この曲の歌詞が良くて。

 

笑うたびに 歌うたびに思い出すよ

夕陽色の顔

響け届け未来の まだ見ぬ私たちへ

 

十数年経ってふと口ずさんだこの曲。

忘れてしまったものも多いけれど、たしかに未来の私に音楽が届いた。

自然で優しく人肌のメロディとノスタルジックな歌詞だから、記憶の底に居場所を見つけて、この未来で流れてくれたんだね。

音楽ってすごいな。

 

そう思ったんだっていう、小さな話。いいでしょ。

中途半端者を救いたい

の~、なんか私って、中途半端なんですよ。

「君は半端だね。徹底してないし熱意もない。成績を見てもそう。落ちぶれてもいないし特筆すべき点もない。そういう人間なんだろうな。文章を見てそう思った」というのは、大学卒業をかけた卒論面接で教授からいただいた言葉だ。

図星でなんも返せなかった。

それがずっと悔しい。銃で撃たれるってこんな感じかと思った。

でも中途半端な人間だからやっぱり努力はできないし、器用だからそんなに頑張らなくてもなんやかんやできてしまうし、だからと言って極められず、また、ダメダメじゃないから人に気にかけられることもないし、結果として可愛がられもしない。できはするけど頼りにはしたくないタイプ。

中途半端。

夢もないし深い絶望もない。なんとなく流されて生きている。

「中途半端」とはこの個性尊重時代において最も憂慮されるべき「個性」だ。

 

なにかができない、どうしてもできない、でもそれこそが自分の個性になっていて、なにかに活かされてみんなから認められている、みたいなものをよく目にする。

自分はマイノリティだ、とその人は言う。そうなのだろう。

そのせいでたくさん苦労してきただろうし、傷つくこともあったろうと思う。

でも、ある部分が徹底的だったおかげで、現在の光明があるのも確かだ。

幸か不幸かはさておき。

 

「中途半端」を極めても、徹底しても、なににもならない。

なぜなら中途半端ゆえに「達成」はされないのだから。「達成」してしまったらそれはもう中途半端じゃない。

単なる言葉遊びじゃなくて、結局中途半端を極めたところで目立てるわけがないし世間に名を知られるチャンスなどないのだ。中途半端だから。

「こんな駄目なわたしでもなんとかなりました。同じく苦しんでいる皆さんも、ありのままでいいのです」みたいな救いの言葉を中途半端者にもほしい。

しかし、中途半端を徹底して大物になった人物は有史以来一人もおらず、先駆者となって言葉をかけてくれた人はいないし、中途半端者を景気づける言葉もこの世には存在しない。

中途半端が受容され、ありのままで愛されて、認められたことなど一度もない。

なぜなら中途半端だから。なにも達成できてないから。

中途半端をきわめて大物になったらそれはもう、中途半端ではないから。

中途半端と書きすぎて目がちかちかしてきた。

 

どうすればいいか?

私と同じようにどうしようもなく、愛しようもない人間を救うには、どうすればいいのか?

名を上げれば勝ち組なこの世の中で、中途半端者が勝者になるには。

心を救うには。

 

先にも書いたように、現実では矛盾をはらむので「中途半端が大物になる」のはあり得ない。

ただせめて心は救いたい。

この矛盾を解決して真実一路に中途半端を救済するにはもはや、フィクションでしかありえない、と思う。

大物になるのではない、幸福になるのでもない、どん底になるのでもない、勧善懲悪もしない、ただ中途半端である主人公が適度に受容されて自分自身を愛せるようなそんなフィクションを求めている。

悲しいと思った?

思ってくれたなら嬉しい。

さよなら「まちかど情報室」/チェアリング協会/文明開化

NHKの「おはよう日本」のイチコーナーに「まちかど情報室」という有難い特集があって、その名のとおり、巷で話題のことや話題になりそうなことを取り上げて共有してくれるので毎回発見があって世間知らずの私には面白く、これの視聴を人生至上の楽しみとしているのだが、3月限りでコーナーは終了するらしい。終わった、私の情報源。

本当かどうかわからないが、20年も続いたらしい。

20年続けられることなんて、せいぜい心臓の鼓動と呼吸、まばたきくらいなので、とてつもなく凄いことだと思う。

本当かどうかはわからない。番組の中で20年と言っていた気がするし、私の願望が記憶に蹉跌をきたしているのかもしれない。

 

今朝は「チェアリング」を取り上げていた。

公園や河川や海浜公園や砂漠やダクト前、どこでもいい、好きなところにアウトドア用の折り畳み椅子を設置して、自然の雰囲気を楽しみながら自分の時間を過ごすというものだ。

ほう、随意に座れるというのは実に文明的だ、と関心していると、「この方は……」と唐突に紹介された男性が一人。

氏は「日本チェアリング協会」の会長らしかった。

驚いた。

チェアリングにも協会があるのだ。

チェアリングとは要するにどこでも座れるということなのだが、チェアリングにはその「要するに」を抜かした部分に真髄がある。とは言えやっていることは「座る」ただそれだけである。

「折り畳みの椅子を置き、随意に座れるし、座らなくてもよい。晴れた日にやるのが骨。雨の日は濡れる可能性がありますからね。新鮮な空気と景色を背景に仕事をするもよし、読書もよし、何もしないもよし、というわけですな」と丁寧なプレゼンをする氏。

驚いた。

座ることにも情緒や価値があるということ、そしてなによりも、協会があるということ。

なんにでも、協会、はあるのだ。

チェアリングにだって協会がある。

この世の名前のついているすべての物事は「協会」を持てる可能性を秘めているのだ。

 

やっぱり今日も「まちかど情報室」には発見があった。このコーナーがなくなってしまうのは大変に惜しいことだ。(22年3月末で終了)

 

ところでチェアリング、協会長の働きもあって、ひそかに気になりはじめている。

折りたたみ椅子もそんなに負担じゃなさそうだし、なんならベランダに座るだけでもいい気分転換になりそうだ。キャンプと違って気軽なのがいいし、気負わなくても良さそうなのが魅力的だ。

実に文明開化的だと思った。

3月15日の雑記「ストレス発散」

び太くんがブログをやっていたとして、日頃の仕事に追われて書く時間が取れなかったり、心がキツくなって書く余裕がなくなったらドラえもんに「ドラえも〜ん!ブログを書く余裕がないよ〜!」と泣きつくだろうか。

そうなったらブログなんてやめてしまえよ。ドラえもんだって開口一番にはそう言うに違いない。

ブログなんてのは、アフィリエイトで稼ごうと思っているならともかく、趣味程度なら毎日書く必要ないし、気が向いた時にでもやればいいじゃない。

でもスネ夫アフィリエイト広告で月に数万円、私服を肥やしているらしいんだよ。それが悔しくて、悔しくて。出来杉しずちゃんも千円くらい貰ってるらしい。

 

なにッ!!!

 

ドラえもんの目も、くわっ、と切れるだろうな。

ドラえもんは、ありのままその日あったことを文章に起こしてくれる「誰でもブログライター」とか自動でそれっぽい文章を生成してくれるAIとかひみつ道具を出してくれるんだ。

あるいは忙しいのび太に代わってあの丸い手で、ポチポチキーボードを叩いてくれるのだろうな。

「好きなドラ焼き20選!!」

「猫にとって都合のいい屋根5選!」

「押し入れの寝床オススメです!」

みたいな。

ちょっと読んでみたいな。ドラえもんってどんな作文をするんだろう。

 

そんなことはどうだってよくて、何を言いたいかというと、私もいまなんだか忙しくてブログなんて書いていられないんですね。

これも、満員電車の中で、何日かに分けて書いてます。

のび太くんがブロガーだったら、ということを何日かに分けて書いてる。そういう人生があなたのそばに転がっている。画面の向こうに存在している。

仕事が忙しくて帰ったらなんか食べて寝るだけって生活になると、こうしてダラダラ書くことがストレス発散になる。

 

ところでブログが流行ってるのび太の界隈、なんか嫌だな。

今どきならYouTubeとかTikTokになるのかな。

ジャイアンがYouTuberになって歌をアップするんだけど、運営側に削除される、みたいな話。

しずちゃんは軽率にYouTubeにアップすることを躊躇うだろうし、注意するだろうな。スネ夫は親戚の兄貴みたいなのがYouTubeで上手いことやっててそのおこぼれにあずかってる。のび太は一足遅れてて、ドラえもんにYouTuberになりたいと泣きつく。

ドラえもんの動画を紹介するチャンネル作ったらめっちゃ流行りそう。

みんなでひとつのチャンネルをやればいいと思う。

 

ああ、ストレス発散。

KFCマウンテン・ブレイクダウン

ックンロールにおいて最も大切なことはなんだね?とカーネルサンダースは僕に言った。

昼下がりにふらりとKFCに立ち寄った僕にとってそれはあまりにも唐突なことだったからはじめは呆気に取られたけれど、まぁ、カーネルサンダース人形ならお喋りくらいするかと妙に納得させる雰囲気と貫禄があった。それよりはむしろ、カーネルサンダースがロックンロールをかく語らんとするほうが驚いたし、意外に思えた。てっきりゴスペルかと。

なにか答えなくては。困惑しながらも言葉をふり絞った。

「ロックンロールとはこうあるべきだ、と語らないこと、です」

カーネルサンダースは、人形のように黙り込んだ。

僕は店に入れないでいる。観音開きのガラスドアの前に佇み、白髪の蝋人形と対面している。休日の商店街は人通りも多く、みんなどこかへ向かって歩いていたか、あるいは異性を探す虫のようにふらふらと彷徨っていた。僕だけが店に入れもせず、辞退もせず、居場所を失って、ただ佇んでいた。そんな僕を店員も、通行人も気にかけてはいないみたいだった。

たっぷり時間が経ってから「こりゃあ一本取られたな」とカーネルサンダースは唸った。「やるじゃないか」

思わず僕は頭を下げた。誰かに褒められるのは久しぶりで、蝋人形に褒められるのは初めてなのだ。

「気に入った。なにか楽器やってるのかね?」

口琴をすこし……」

「はっはっは」温かい笑い声だった。「ますます気に入ったよ。今度聴かせておくれ。私が聴ける音楽といったら商店街のクラシック有線と店内のポップス有線ばかりでね。刺激が足らない」

「どういった音楽が好みなのでしょうか」

「それを教えたら演奏(や)ってくれるのかね?」

口琴にジャンルはありませんから……」

ブルーグラス

ブルーグラス?」

「速弾きとバッキング。ダブルベースフィドルマンドリン 、そしてバンジョー。フォギーマウンテン・ブレイクダウン。ロックンロールの叔父さ」

ロックンロールの叔父。

恥ずかしながら聴いたことがない。そしてやはり、好みは意外だった。ロックンロールの叔父か。

「次来るまでに練習しておきます」

「楽しみにしている。そのときのお代の先払いとして、今日は全部私にツケといてくれてかまわない」

「どうもありがとう」

僕はまた頭を下げて、ようやくガラスドアの中へ入った。

「ぃらっしゃぃませッ!!!!」

宦官みたいな笑顔が炸裂し、強烈な挨拶が店内にこだまする。僕は自分が祝福されていると感じる。宦官みたいな店員は僕のために笑顔を振りまき、鶏は僕のために命を捧げ、ポテトは僕のために八つ裂きにされ揚げられる。これもすべて、カーネルサンダースに認められたからだ。

「店内でお召し上がりですか?」

「チキンセット付け合わせポテトL、ペプシ、追加でハーフチキンとこの激辛チキン5つ、チキンクリスプバーガー3つ、コールスローL、ああ、やっぱりチキンセットはこっちのファミリーセットに変更で、あとはビスケットと、フライドフィッシュ。店内」

店員の宦官は、ひとつひとつに頷いて、レジスタに注文を入力していった。

「全部お一人で食べられるんですか?」

「そうだよ」

「たいへんな量ですが、大丈夫ですか?」

さぁ、どうだろう。僕はただ頷いてみせた。

「お会計、」

その金額も聞く意味がない。なぜなら、

「表のカーネルサンダースにツケといてくれ」

店員の宦官はキョトンとして固まった。それはそう、蝋人形のように。

 

言葉が自分のものになるとき

葉、言葉、と簡単に言うけど、言葉は自分のものにならないと使えない。

感覚的な話になってしまって申し訳ない。論理と合理を求める拙ブログにおいて。

「言葉が自分のものになる感覚」ってあると思いませんか?

あるんですよ。

なんだろう、単語の意味を知っているだけじゃ自分の言葉にはならなくて、その言葉の孕んでいる概念というか、背景?、観念、そういったものを頭ではなく心で理解できたときにその言葉が自分のものになる衝撃が走る。

それは稲妻のように劇的なときもあるし、静電気のようにわずかな刺激のときもある。自分でも気づかないうちに言葉が我が物になっているときもある。

言葉はそのようにして自分のものにならないとうまく使いこなせない。

 

たとえば、ってたとえを出すのが難しい話。

そうですね。少し昔の話をしましょうか。それは小生が幼稚園児だった頃の話です。

小生はハサミで厚紙をギコギコ切っていたのだが、これがぜんぜんうまくいかなくて、それを見かねた仲の良かった子が「はさみは ねもとンとこつかったほうが きれる可能性が高いよ」と言ったのです。

「可能性が高い」

この言葉の響きを耳にしたとき「あ、おとなの、ことばだ」と思った。これがなんだかすごく衝撃的でいまだに覚えている。

「可能性が高い」とそこだけ漢字で言われた気がした。この人はこの言葉の意味を完璧に理解していて、偶然性や意図性にたよらず、ごく自然に、まるで自分の体の内からポッとでてきたかのような滑らかさで、この言葉を使ったのだ。そう思った。そう思ったと言っても当時からこのように言語化できていたわけではなく、ただそのような感覚を覚えたのである。今もまだ残っている。

言葉が人のものになる感覚。人の精神と深く結びついている感覚。

これは他人の例だけども「言葉が自分のものになっていて、言葉を使いこなしている」のを実感できた出来事だった。

 

言葉が自分のものになると、その言葉はしかるべきときに体の内からするりと出てくる。自分と深く結びついてまるで自分の精神の抽象を完璧に言語化できたかのようになる。

あまり使い慣れていない言葉、初めて使う言葉はわざわざ意識しないと出てこない。

こうして言葉が自分のものになっているかなっていないか、それがその人の紡ぐ文章の個性を出す一因になっている。のではないか。

自分にとって出てきやすい言葉、出にくい言葉、偏りが生まれる。『ハンター×ハンター』でネテロが百式観音の繰り出す技にかすかな偏りがあったように、言葉遣いにも必ず偏りがある。

そこに個性が現れるのだとも思う。

だから、文章を書きたい人はできるだけ言葉に馴染んだ方がいいのだね。本だけに囚われず、漫画なり映画なり落語なり劇なり。たくさんの言葉に触れた方がいい。

言葉は人間が持ちうる中で最高のツールなのだ。

読書離れ期

本的に本を読むのは好きで、多いと月に10冊は読むのだけど(読書家としては多くない数だ)、少ないと月に3〜4冊になる。

明確に、本を読めなくなる時期がある。

文字を追う集中力がなくなり、読んでるとむしろイライラしてくる。なんで文字を追わないと先へ進めないんだ、と読書行為の根本的原理に対して否定が入り、居てもたっても居られなくなる。

居てもたっても居られなくなって、本を読むくらいなら、とやおら立ち上がり、豚肉を炊いたり、排水溝を掃除したり、グミをやけ食いしたりする。

YouTubeでクジラの死体が爆発する動画や、魚の神経締め動画をえんえん見たりする。強欲な料理動画を垂れ流して何も考えないでいたりする。こうするしかなくなってしまうのだ。

私は本当は本を読みたい。

本を読みたいけど、なにかそういう精神状態の時には本を読めない。

 

仕事の休憩時間は本を読むことが多い。

読書にはストレスを緩和するはたらきがあるらしい。実際、本を読むことで頭の中がすっきりする感覚を覚えることもある。気がする。

休憩時間くらいフィクションの世界に入って現実から離れ、心をリラックスさせる。サスペンスでも殺人事件でも、中世日本社会の村構造について述べた論説でも異常論文でも、仕事とは関係のない文字であればリラックスできる。

これは読書をしない先輩から言わせると「どうかしてる」らしい。

「仕事でもメールを読みまくって、海外の参考文献ページをGoogle翻訳したやつ読んで、手順書作ったり読んだりして……ずっと文字に触れてるのに、小説なんて読む気になれないよ」

本を読まない人がそう思うのも無理はない。理解はできる。

ただ、仕事で読む文書と小説はまったく異なるものだ。CMを見るのと映画を見るのがまったく違うことであるように。

閑話休題(この言葉使ってみたかったんだよネ)

今は読書離れ期なので、休憩時間中も読書に集中できない。

無音でクジラが爆発する動画と魚の神経締めを見ている。

リラックスできているかはわからないが、少なくとも飽きないコンテンツだとは思う。打ち上げられたクジラははやめに解体処理をしないと体内のガスが膨らんで胸ビレが地面に対して直角に持ち上がり、そのうち皮膚が裂けて はらわたが有毒な菌やバクテリアと共にまき散らされる。

 

2月は仕事のストレスが大きくて精神的にもつらく、夜はネットラジオを流しながら眠った。雑音がないとうまく眠れないのだ。雑音にまみれてないと余計なことを考えて頭が痛くなる。

こういう精神状態のとき、読書はできない。

読書は心の健康バロメーターだ。

いつかほんとうに心を病んだときに読書ができなくなってしまったら、それはなによりもつらい。