蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

回転寿司を「浴びる」

曜の夜、仕事終わりに彼女と待ち合わせて回転寿司へ行った。

着席後、とりあえずビールを注文し、目の前を流れてきた「つぶ貝」を手に取る。たまたま目の前を流れてきたのが「つぶ貝」だっただけで、絶対に一皿目は「つぶ貝」がいい!なんてこだわりはなく、しめ鯖でもいいし、サーモンでもいい。ビールのアテになるのならシーザーサラダでもよかったのだ。その日は「つぶ貝」だった。それだけのことだ。

それにしても「とりあえずビールを注文」というのが、今書いてても気持ちが良かった。

ビールっていまだになにがどう美味しいのか説明できないし、苦いし、お腹も膨れるし、結構最悪な部類の飲み物なのだけど、これ以上に美味しい飲み物は無いね。断言できる。不思議だけど、この感覚はまったく矛盾していないと思う。

なんていうか、自由の象徴なのかもしれない。ビールは「解放宣言」なのかもしれない。

仕事終わりの汗ばんだ体をキンキンに冷えたビールが通り抜ける素晴らしさ、それだけで一週間が救われる。

労働解放宣言。Beer of holidays , by holidays , for holidays.

「つぶ貝」に続いて「炙りえんがわ」を取る。

回転寿司は目の前を流れてきたものを随意に取れるというのが素晴らしい。なにも考えなくていい。食べたいものが流れてきたら取る。それだけ。

これって、たとえば森の中でたわわに実った桃をもぎ採るのと同じように、私たちはコンベアに流れる寿司を「収穫」してるんですね。

採れたての桃をその場で剥いて齧る。乾いた喉に果汁が染み込む。コンベアで取ったばかりの寿司を頬張る。「炙りえんがわ」の脂が五臓六腑に染みわたる。

楽しさ、みたいな観点ではまったく同価値の事象が、森と回転寿司では起こっている。

 

コンベアを流れてこない場合は普通に注文する。いくつかのネタと「わさび巻」を頼んだ。

私は「わさび巻」が大好きだ。

これは食事というよりも一種のアトラクションで、刺身のネタに飽きたらガリと共に口に放り込むのだ。

醤油をチョンと付け、口に入れるとその直後から辛味とは言いがたい「痛み」に襲われるので、急いで咀嚼して急いで飲み込み、お茶をひと口啜る。このときは絶対にお茶の方が良い。わさび巻はお茶が合う。

すると痛みは嘘のように消え、鼻のあたりには爽快感が漂う。敏感にエアコンの風を感じる。なにか一仕事終えたような達成感もある。

彼女にも一個あげたら鼻と目をかっぴらいて、なんか顔を全体的に3倍くらいの大きさにして悶絶していた。人が食べているさまを見るのも面白いのでいよいよエンタメじみてくる。

ただ、わさび巻って6個もついてくるから多くて。

本当は3個でいい。

正味、わさび巻でお腹いっぱいにはなりたくないんだよな。

 

その後、まぐろ、サーモン、あなご、ほたて、たまご、真鯛かつお、などなど楽しんだ。寿司ってすぐにお腹いっぱいになるから良くない。酢飯だから意外と味が濃くてね。

先日、寿司で刺身だけ食べてシャリを残す人が炎上していたけど、ちょっと気持ちはわからないでもない。

でもさ、シャリ食わずして寿司にはならねぇんだよな。そんなら刺身最初から食っとけって話。

シメにうどんを啜ってこの日はあがり。うどんは蛇足だったかもしれないけど、「寿司屋でうどんを食べる」楽しさを優先してしまった。ここが回転寿司のいいところだ。

 

回転寿司は楽しむものだ。

そもそも寿司がコンベア移動している時点で面白いのであって、そのコンセプト自体に「楽しんでよ」という魂胆が見えている。よって私たち消費者は回転寿司ではなによりも「楽しむ」必要があるわけだ。

大衆諸君が大わらわになって、子どもが騒ぎ、店員が手足を8本にして忙しく立ち回っているこの状況を受け入れて、寿司を食べ、味を楽しんで、気持ちよくなるのが目的なのだ。

落ち着いた雰囲気がいい人は高級寿司にでも行けばいい。金が無いならスーパーで買えばいい。テイクアウトすればいい。

回転寿司に来てやれ落ち着かないだの高級寿司に比べて味が劣るだの小汚いだの文句を言う人は、川に釣り糸を垂らしてマグロが釣れないと腹を立てるくらいお門違いだ。

カタカタ動くコンベア、流れていく寿司、びかびか光る店内照明、効きすぎのエアコン、冷えたビール、熱すぎるお茶、ちょっと色の悪いマグロ、ツナ軍艦、プリンアラモード、泣いてる子ども、注意する父親、居心地の悪そうな老夫婦、そのすべてを受け入れて、自分もその一部になってから初めて回転寿司の楽しさははじまる。

こうなるともう回転寿司は「食べる」じゃなくて「浴びる」と言った方がニュアンスが通る。

選択的不自由ランチ

社へ行く日は毎日同じものを昼食に食べる。

蒙古タンメン中本の「辛旨飯」と調整豆乳とサラダチキンバー、それからゴミをまとめるビニール袋3円でぴったり500円に収まる。

どれも好きというよりかは半ば義務的、いや、選択的不自由と言った方がいいかもしれない、とにかく、積極的に選んではいない。否応なしに選んでいる。そのほうがニュアンスは近い。

もちろん美味しいから毎日食べられるんだけど、美味しさと好きかどうかは必ずしも関係しないもので、いくら美味しいものでも毎日食べていれば気が狂いそうにもなる。私は気を狂わせそうになりながら、毎日毎日同じものを食べ続けている。

週の3~4日は出社しているので、一週間の半分強の昼食は同じもので固定されていることになる。

「ほかにも美味しいものはあるのに」と人は言うけど、こちとら昼ごはんに何を食べようかなんて迷っていられるほど余裕のある精神状態ではないのだ。なんとか息を止めて午前中を凌ぎ、これから長い午後の深い潜水に備えて昼休みの45分間は現実逃避に費やす必要がある。何を食べるかに脳のシナプスを消費している場合ではない。

どうせ何を食べたって仕事の合間じゃ美味しかったためしがないのだから、迷わずに同じものを選んだ方が効率的だ。

不自由をあえて選択する。

私の昼食は保守的かつ封建的な食のミニマリストなのだ。

 

このように私は食に対して極めてルーズで、一人で食べる場合にはまったくこだわりが無いので、悩む時間を減らすために同じものを食べ続ける習性がある。

丸亀製麺のぶっかけを食べ続けた一年があり、セブンイレブンの欧風カレーを食べ続けた半年があり、ガパオを胃に放り込み続けた冬があり、チョココロネを吸い続けた昼があった。

しかし、私がハマったものは私の前から姿を消す傾向にあって、丸亀製麺は潰れ、欧風カレーは一時期棚から姿を消し、ガパオは期間が終わって終了し、チョココロネは私好みのものではなくなった、そんな悲しい過去がある。

すべてはいずれ失われ、私はまた身を寄せられるものを探して彷徨った。

「辛旨飯」「豆乳」「サラダチキン」はそうして彷徨った末に辿り着いた答えだった。

最低最高最低最高最低。

毎日同じものを食べる。平穏。私の平穏はこのようにして保障されてきた。

 

しかし月曜日、いつものように3点セットを購入し、食べていたのだが、違和感を覚え、なんか味がよくわからなくなってしまって、結局半分くらい捨ててしまった。

さすがに5か月くらい同じものを食べ続けていたので飽きたのだろう。「辛旨飯」が単なる刺激物に成り果て、熱くて痛い沼を頬張っているみたいで苦痛だった。

そろそろ他のものに鞍替えした方がよさそうだ。

と、毎日思う。

毎日そう思いながら3点セットをレジに運び、クイックペイで購入する。流れるような動作で熱湯を注ぎ、共有スペースの座席を確保する。

「今日も同じ味だな。つまらないな」と思いながら食べる。

次の日も、その次の日も。

満腹感も味もすべて体に叩きこまれているので、近頃は購入する前から食べた気になっているほどだ。こうなったらもう食べなくてもいいのだけど、いちおう食べておかないと、と義務的に口に運ぶ。

私は一体なにをしてるんだろ、と悲しくなって涙が落ちればその塩気だけを覚える。そんな漫画みたいなことにもならず、淡々とお役所仕事的に口に運び、胃に放り込み、消化している。

奇妙な毎日だ。

 

排水溝に人生を狂わせられてはいけない

面所の排水溝が詰まった。

高級バリスタの丁寧なドリップのように少しずつ流れていく汚水。ごぽごぽ音を立てるさまは「早急になんとかしないとこれから身にかかる不幸は計り知れないぞ」と地獄の底から警告されているみたいで恐ろしい。

なんでこんなことに?

僕は、けっこう頑張って、耐えて生きているつもりだ。

今の仕事はつらいし、転職活動も平日の夜ってまぁまぁしんどいし、肩こりは酷いし、足はへんなにおいがするし、乱視が入って来てて、前髪は退行が止まらない。歯並びも悪い。

でもあんまり弱音も吐かずに、恋人の前ではできるだけニコニコし、人と話すときは笑うように心がけ、お金はギャンブルに使わず、読書と芸術を愛している。仕事はあまりうまくないけど、でも健気に生きていると思う。客観的にも主観的にも。

それなのにさ、なんでよ、排水溝。

つまるこたぁねぇだろがっ。

おい。

こら聞いてんのかダボ穴。

どぎついモンつっこんだろか。アホ穴バカ筒。海賊に犯されろ。腐り落ちた眼窩。虚ろ。雑魚。なんらかの疾患の痕。ドブ。

などと罵倒しても詰まりは直らない。

スマホのライトで排水溝の中を照らしてみると、なんとも形容しがたいのだけど、「負」の塊のようなものがパイプにびっしりこびりついており、これのせいで水がなかなか抜けていかないとわかった。

幸いにもまったく流れないわけではなく、時間が経てば水は抜けていく。が、水がちゃんと流れていくかを見守る無意味な時間は一生の中でもう二度と取り戻せないわけで毎日毎日こんな無為なことで人生を潰してはいけない、この排水溝を可及的速やかになんとかしなければいけない、我が人生を取り戻すために。ごぽごぽ言ってるダボ穴の前で決意した。

 

しかしどうすればいいのかわからない。

割り箸でつついたり、ゴミを取り除こうとしたがかなり奥の方なので届かず、いたずらに手を臭くしただけだった。

課題解決の友、Googleに相談してみる。

「排水溝が詰まったんだ。どうすればいいかな」

『業者を呼びましょう。プロがいちばんですよ』

「そういうのじゃなくてさ、もっとお金をかけずに、すぐさまどうにかしたいんだよ」

『であれば』とGoogleが提示したるは「パイプユニッシュ

知ってますか?「パイプユニッシュ

こびりついた汚れを強力分解、つまりもニオイも解消するパイプクリーナー
●配水管・排水口のつまり、ニオイをしっかり解消。
●髪の毛・ヘドロを強力分解し、キレイにします。
●少ない少量でも粘度が高い為、汚れに粘着しパワフル洗浄。
●家のあらゆる排水口・パイプに使えます。
●コンパクトサイズで、使いやすく簡単にかけられます。

AMAZONより引用

 

頼もしいこと限りない。パイプユニッシュ液を排水溝に流し込むだけでいいらしい。

早速、近所の薬屋へ走ると、クーポン割引を使って220円で購入できた。

走って帰宅し、その勢いのまま排水溝にどぶどぶ注いでみる。液は意外にも透明で(黄色くない!)ナメクジの粘液みたいにトロトロしている。

綺麗だけど髪の毛やほこりなどのゴミを溶かすというのだからめちゃくちゃな劇物だ。人が飲んだら確実に死ぬでしょうね。綺麗なのに。なにかそんなような諺があったかもしれないけどパッと出てこない。

 

30分放置して、水で流してみると、アラ不思議。排水溝は直っていた。勢いよく渦を巻いて水を吸い込む。

200円ちょっとで解決できたのがかなり嬉しい。これからは「黄色と言えば?」で「パイプユニッシュ」と答えよう。それくらい敬意を表する。

それにしても、さーっと気持ちよく流れる排水溝は見ていて気分がいいものですね。面白がって水を流してしばらく見ていました。人生はこうでなくちゃ。

 

『わたしを空腹にしないほうがいい』/ハンバーグを焼く/救い

どうれいん さんの『わたしを空腹にしないほうがいい』を読んだ。

休みの日に読むにはうってつけのエッセイ集だった。

くどうれいん さんの作品を読むのは『氷柱の声』以来で、その小説はかなり気に入ってる。2作目に読んだ今回のエッセイもだいぶ気に入った。作品が気に入ったというのもあるけど、いよいよ作者のことを好きになった。

良い文章って、なんだかとても素直で、文章の向こうにいる筆者が見えてくるんだよな。句読点とかメタファーの陰に作者が浮かんでくる。

それで、読み終わった頃にはもう友だちになったような気持ちになる。次も読もう。こうなったらその作者の作品に裏切られることなんてない。この作者を馬鹿にする輩はお見舞いしてやる。そう思う。

本作は、筆者が一人暮らしを始めたなかで料理をしたりご飯を食べたり食べなかったりするエッセイ集だ。料理についてどんな思い出があるのか、どんなシチュエーションで食べたのか(あるいは食べたいか)、ユーモアを交えて率直な文体で書かれている。タイトルはすべて俳句になっていて、それと合せて味わい深い。

筆者本人が書いていていちばん楽しんでいるな、と思う。そういう文章は読んでいる人も楽しい。

改めて自分がどれだけ書くことと料理をすることに救われているのかわかっておどろく。ワードに向かってキーボードを打つと、胸が高鳴る。ガスコンロに火をつけると、こころもめらめらと燃える。指を動かすごとに、菜箸を動かすごとに、自分自身が救われていく。(くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』p50)

とても共感を覚えた一節を引用する。

書くことと料理をすることでしか救われない部分がある。スタバのフラペチーノでしか救われない部分や子ヤギの動画でしか救われない部分があるように。

私は料理が好きだ。それはたぶん、丁寧に工程を重ねていくことでできあがった御馳走が、これから食べる私を幸福にするとわかっているからだ。料理はちょっと先の未来の自分への慈しみなのだ。

そして、包丁の一切れ、塩の一振り、ガスコンロの一度、それらの積み重ねによって出来上がる、目に見え匂いがして味のある料理という成果物に達成感を覚え、皿の温もりに自分を取り戻すのだ。

 

日曜の夕方、仕事が怖くなって、急いで冷蔵庫を漁った。なにか料理をしなきゃと思った。

豚ひき肉20%引きが息を潜めていたのを見逃さない。ハンバーグにする。本来合いびき肉がいいのだけど、豚ひきでも充分作れる。玉ねぎもある。

干からびかけた人参をすりつぶして肉に混ぜる。こんなのやったことないのだが、干からびてこのまま朽ちるのが憐れだった。きっと大丈夫だろう。

捏ね、形を整え、焼く。

すばらしい手際で8個のハンバーグができた。

これはすぐには食べないで、明日からの、平日の夜に、食べる。

「家に帰ったらハンバーグがある」と思うだけで乗り切れる一日がある。そういう種類の救いについては聖書には書いてないらしい。もちろん聖書を読んだことはない。

 

料理をして救われた私は、続いてブログも書きはじめる。

日曜の夜を越えるにはまだもう少し救いが必要みたいで、出来上がった文章がどうというよりも、ただ楽しんで書くその行為自体に救いがあると知っている。

 

転職すると決めた

月くらいから会社に行く前に吐き気がすごくて、朝ずっとえずいてた。

なんか花粉とか病気とかなのかな、と思っていた。仕事中もずっと続く頭痛に苦しみバファリン中毒気味で近頃は薬が効かなくなってきている。ふつうに病院行った方がいいかもしれない。

今年に入ってからまったく本も読めなくなってしまって、ブログも書けなくなって、家に帰ったら無気力にYouTubeを見る日々が続いた。YouTubeでは馬の蹄を削ぐ動画や自家製ラーメンを作る動画ばかり見ていた。たぶん今なら道具さえあれば馬の蹄をケアできるし豚骨スープを仕込める。それくらい見た。

帰宅すると頭痛は晴れ、不調もなくなるが、無気力のスライムみたいになる。

なんなんだろ、この感じ。

 

いろいろ突き詰めた結果、私は転職したいのだと気付いた。

 

前々から転職をしたいと思っていたけど、業務スケジュールが転職を許さなかったり、いろいろなことがあって転職活動ができていなかった。マイナビやエージェントにも登録だけして放置していた。

この半年くらい働きながらずっと「やめたい」ばかり考えていて、それがたまらなく辛い。

ぜんぜん仕事に身が入らない。

私は仕事のために仕事をしたいのにそれができていない。

 

いまの仕事のなにが嫌なのか、ノートに箇条書きにしてみる。

ところが全然出てこない。場面場面での嫌なところが出てこない。上司の口調がきついとか同僚が面倒くさいとか仕事が理不尽だとか、そういったことが出てこない。自分でもお利口さんに過ぎるな、と思う。

では、今の仕事で好きなところはどこだろう、と逆に考えてみる。

それもまた、出てこない。

ひとつも。

なるほど、私は「好きなところがひとつもない」のが心底嫌だったのだ。

これをとっかかりにして考えていくと自分の溜めこんでいた思いがするすると文章になって出てきた。内容はひどくプライベートなもので誰にも見せないと決めているのでここにも書かないけど、それを書き終えたことでかなりすっきりした。

 

私がやりたいことはなにか?

それはもうわからなくて、はっきり言って労働そのものから逃げて毎日ラーメンを作る動画を見て過ごしたいのだけど、働かなくちゃいけないのなら、私は自分に誇れる仕事をしたい。

私が自分の中で、自分に自慢できていることはなんだろう?

それは片手で数えるほどしかなくて、でもそれが次の道のヒントになっている。

いてもたってもいられなくなって、とりあえず転職フェアに行ってみた。そこでの収穫は、同い年のひとたちが陰鬱な顔をして同じように転職活動を始めている姿を見れてなんだか元気が出たのと、世の中にはいろいろな仕事があり、それなりにどれも楽しそうではある、ということだ。でも楽しそう、だけではよくない。

私は自分に誇りを持てるようになりたい。

 

「転職する」と決めてから朝えずかなくなった。

仕事中に頭痛はするものの、前ほど気分が悪くなることもない。バファリンは一回に半分ずつ嚥むようにした。

久しぶりに本を読んだらとても面白かった。

ブログもときどき書こうと思う。こうして書いてみたらやっぱり楽しくて、書くことは整心になっていたのだとあらためて気づかされる。

最近は毎日が楽しくてこの世界は思いのほか希望に満ち溢れているのかもしれない、と思えるようになっている。希望に根拠など必要ないとさえ思う。

まだまだなんも決まってなくて走り出したばっかりだけど、期間を決めて走りぬきたい。夏までになんとか。

この世界は可能性のかたまりなのだ。よくわからないけど大丈夫だ、と自信を持っている。

ラーメン屋か馬蹄職人になる可能性だってある。

自販機のサムゲタンを食べてみよう!(鳥一代)

日になんもやることがなくて散歩していたら、面白いものを見つけました。

自販機でサムゲタンが売ってたのです。

 

サムゲタン参鶏湯)は、朝鮮料理の一つ[1][2]鶏肉の中に高麗人参もち米松の実等を詰めて煮込んだ料理。薬膳料理や補身料理(ポシン料理・滋養食)ともされている。

 

サムゲタンと言えば私の大好物。実家はサムゲタン屋を営むほどです。

今夜は同居人も出掛けて留守なので、一人前買ってみることにしました。

 

目次

 

買う編

こういうの買うとき、なんかイヤホン外しますね。

こういうの、つまり、よく知らないものに挑戦するとき、手を出すときは、AirPodsを外して耳元でごちゃごちゃ鳴ってたロックンロールを止めます。たとえギターソロの途中であったとしても。

別に自販機が喋るとは思っていないのだけど、いちおう用心した方がいい。初めてのものに手を出すときはなにが起こっても対処できるようにしなくてはなりません。音楽を聴きながらだと判断力が鈍ってしまう。警戒心を持っているわけですね。

いざ千円を入れてみると思っていたとおり音声案内はなく、令和的にタッチパネルに表示が出て商品を選択するシステムになっていました。これならギターソロを止めなくても購入は容易そうです。

/ ガコッ \

 

無事出てきました。自販機の足元には初夏の息吹(雑草)が。風流ですね。

自販機は終始無言。私は喋るタイプの自販機が苦手なので(コミュ障なので)紳士的な態度に好感を覚えました。沈黙は美徳です。

で、これ、買ってたときなんですけど、私が写真を撮っていたのもあるのでしょうが、通行人の数人が立ち止まって私が買うまでを見届けていました。

おばさんなんて自転車を止めてまで見守ってる。

まるで猿山の猿が物珍しそうに飼育員の掃除を眺めているみたいに興味津々なのです。

なにか試されてる?

そつなく取り出し口から取り出すと、人々は再び通りの流れに身を任せて南方へ去りました。

おそらくずっと気になってはいたものの手は出せず、珍しく買っている輩がいたので様子見をしていたのでしょう。

大丈夫ですよ。怖くない。この自販機は喋らない。おばさんたちにも示せたはずです。

かちんこちんに凍ったパッケージです。どうやらこれを解凍して食べるらしい。

大きさはだいたい文庫本2冊くらいでそこまでかさばるものでもありませんが、このとき私はそれが入るほどのカバンを持ち合わせていなかったので、これをそのまま手に持って帰ることになりました。自販機なのでビニール袋をくれないのは当たり前として、行き当たりばったりのノリで生きてるとこういうことに陥りがちですね。

 

当然、手に持ってると衆生の注目を浴びる。

でも大丈夫です。これは中学生の頃に覚えたライフハックですが、恥ずかしいようなことでも堂々としていればなんてことはないのです。周囲も最初こそギョッとされるかもしれませんが、すぐに「まぁそういう人もいるよな」って感じの温かい視線に変わります。あるいは関わるのをよしておこうと思っているのかもしれませんが。

この実践により難を逃れて帰宅しました。中学生の頃よりこういった経験を山のように積んでいるので、羞恥神経はとっくに切れており、ダメージはありません。むしろ注目は快楽になっています。問題ありません。

問題と言えば凍った肉を持ち歩いたので指先がかじかんでしまったことくらいでしょうか。自販機でサムゲタンを買うならエコバッグを持って行くことをオススメします。

 

解凍する編

開封してみましょう。

左側の白い塊がサムゲタン本体、辛味噌、そしてラーメンが入ってました。

こういう「本体」と「その他二つ」の組み合わせを見ると『クロノトリガー』のラスボス「ラヴォス」を思い出しますね。

ラヴォスも本体とその他ふたつのパーツに分かれててね。それぞれ物理攻撃と魔法攻撃と回復魔法を司ってるんですよ。

で、普通真ん中のやつが本体だと思って集中して攻撃するでしょ?そんで真ん中のやつから優先的に倒すんだけど、実はこいつは本体じゃなくて、両サイドにいる「その他」ぽいやつのどちらかが本体なんですよ。真ん中の本体ぽい奴こそが「その他」だったというね。初見の時はしてやられましたよ。

思い出しますね。(個人の見解です)

 

ご丁寧に調理法まで入っていました。

どうやらラーメンも一緒に食べるみたいですが、今回ラーメンは「シメ」として食べることにしました。理由はありません。気分です。

ボウルに熱湯を注ぎ、サムゲタンを沈めます。

こういうの解凍するときのお湯の温度って何度が適正なのでしょうか?ぬるま湯じゃあ意味がなさそうで、いつも湯気が立ち込めるほどの熱湯にしてしまうのですが、ビニールが溶けるのではと不安になります。不安になりますが、溶けたことはないので大丈夫だとも思っています。それってつまり、もう何も考えてないのと一緒ってことですか?

 

2時間くらい放置したでしょうか。漫画を読んでたら2時間なんてあっという間です。

袋の上から揉んでみたら赤子の脳みそくらいの柔さになっていたので、解凍は成功です。

解凍したサムゲタンを土鍋にGO。

ここからどれくらい火を入れればいいのかわかりませんが、感覚です。野生の勘に頼りましょう。食べられると思ったら食べられるのです。

でもなんか、なんでしょう。具が少ない気がします。

とここで、調理法のチラシを見てみると、

なるほど。

カスタム要素があるわけですね。

キャベツとか入れたら美味しそうです。長ネギも入れよう。豆腐はなかったかな。

どれ、野菜室には何が残っているかな。

 

完。

 

腐らないように保存してたコロネではお話になりません。

 

とりあえず胡椒でも振っておきましょう。いいんだ。今回は。

 

そうこうしているうちに地獄みたいにぐらぐらして沸騰し、湯気がもうもうと立ちのぼってきました。

いけんべ。

これにて完成です。おつかれさまでした。

 

食べる編

では食べていきましょう。にんにくと薬膳的な、滋味、の香りがします。じつに食欲をそそります。

箸でまさぐれば、お肉がほろほろにほどける。煮込みまくった肉ってなんでこうも美味しいんだろう。まだ食べてないけど。

いただきます。

 

・・・・・・(黙食)

 

・・・・・・

 

うまぁ~~~

 

思わずガッツポーズをしました。食べる前から分かってたけど、これは勝った。

これでもかってくらいやわらかくなるまで煮こまれた肉にスープのうま味が染み込んでる。噛むと「じゅっ」てあふれる美味しさ。これが嬉しい。「じゅっ」が嬉しい。肉と男はしたたるのが良い。

冷凍なのに、自販機なのに、ちゃんとしっかり美味しいです。

サムゲタンは1回しか食べたことが無いのですが(冒頭のサムゲタン屋うんぬんの話は嘘です)、お店のものと遜色有りません。

骨まで食べられるとのこと。

ほんとうか? 箸で持つとしっかり骨ですね。

かじりついてみましょう。

食べられる!

難なく骨も食べられます。歯のない老人でもいけるんじゃないかな。いや、それはどうだろう。歯はあったほうがいいかもしれない。

それにしても骨を食べられるって嬉しいですよね、なんか、滾る、っていうか。野性味があるっていうか。

骨にも栄養はあるわけで、それを無駄なく食べれてるので得してる気分もあり。

ちょっと高い鮭の水煮缶のやつとかも骨まで食べられるじゃないですか。あれもう、骨食べるために買ってるみたいなところある。高いから買えないんだけど。

骨は普段捨てちゃう部分だからこそ、こうして食べれられると非日常感もあって、骨食はいくつも嬉しいところがあります。もう骨ばっかり食べてやろうかな。こんなに嬉しいなら。

もち米と高麗人参

高麗人参って人参と言うわりに人参のていを成して無い。根です。太めの。

でもほくほくしていてちょっとしたお芋のような食べ心地。こいつに関しては美味しいとかは特にないですね。いつもっ食べないものを食べてるな、って感想です。

 

まぁ、味が濃くてビールの合うこと。

 

具をあらかた食べ終わったので、シメのラーメンいきます。

ぐらぐらッと煮立ってほぐれたら完成です。

言うまでもなく美味しい。

意外と太麺でもちもちして美味しかったんですけど、太麺だったのって、最初から麺を入れちゃってても伸びないようにする工夫だったのかな。

皆さん、好きなタイミングで入れてください。

私は皆さんの行動を制御する権限を持ち合わせていない。皆さんが私の行動を制御できないように。

 

けっこう味が濃くて、これ飲み干したらヤバいだろうな塩分、と思いましたが、飲み干してしまいました。

なぜなら「栄養」だから。

この汁に栄養が溶けているんです。見えないだけでそうなんですよ。

我々はこの汁を活用しないことには元手を取れません。汁を飲み干せないという方はタッパーとかジップロックに入れて冷凍しておきましょうとりあえず。いずれなにかに使えるかもしれない。使えないかもしれない。可能性は無限です。あなた次第。

 

いかがでしたでしょうか?

いかがでしたでしょうか?

 

美味しかったです。

でも野菜とか豆腐とかちょっとだけ具は用意した方がいいでしょう。

けっこう味が濃いのもアレンジの許容範囲を広くしてくれます。

 

ただ、汁をすべて飲むとものすごい胃もたれになるので気を付けてください。

栄養はすべて漏れ出ましたのでほどほどに。

 

さようなら。

 

toriitidai.com

目黒寄生虫館へ行こう

黒にある寄生虫館という施設に行ってきました。

これはなにかというと、目黒という場所にある、寄生虫を展示している、博物館です。

GWに実家に帰省できていないその罪滅ぼしのつもりで一人行ってきました。帰省虫ってか。

 

www.kiseichu.org

 

天気晴れ、風やや強し。

道中、目黒川から猛烈なドブのにおいがして春を感じますね。気温が高くなると水温も上昇して細菌が繁殖し、あたり一帯が腐敗臭にまみれます。「どぶ臭し」は春の季語でもあります。

橋から見下ろすとどす黒い水が流れているのが見えました。流れているというかどちらかと言えば淀んでいると言った方が正しいような川で、生物の気配はなく、いたとしてもきっと中国産の目が溶けてる巨大魚とか誰かが放流したアリゲーター・ガーくらいのものでしょう。

目黒通りを歩くこと10分、角地にひょっこりと博物館は現れました。

この博物館は郵便局の支店くらいの小規模な施設で、入館料が無料なのは魅力のひとつでもあります(寄付もできます)。

なぜ無料なのかわかりませんが、写真を見てみると公益財団法人と書いてあるのでたぶんそのおかげなのでしょう。これからは公益財団法人の施設を回って休日を過ごしたいと思います。

この写真を撮っていたところ、中から中学生風の男子三人がケラケラ笑いながら出てきました。

「・・・・・・っ!」

「・・・wwww!!」

「ってよぉ・・・・・・っしょ!w」

ちいかわの会話?

コソコソ笑っていていまいち何を話しているのかは判然としませんでしたが、その態度がなにか怪訝に思えたのは、すなわちここが「寄生虫館」だからであり、あまり茶化したりふざけたりするような雰囲気のスポットではなく、英国風テーブルセットの展示がされているのならともかく、身の毛もよだつような寄生虫が展示されている施設から出て来てケタケタ笑っているのは「正しくない態度」に映ったし、ヨシ寄生虫を見まくってやるゾとある程度の覚悟をもって臨んできている身からすれば、彼らのコソ笑いとふにゃふにゃした態度は雰囲気をぶち壊していたのです。一文が長くてブチギレてるみたいになってる。こわ。

しかしまぁ、26歳男性が中二の会話に聞き耳を立てているのも不審そのもの。自己嫌悪も募ってきたところで早速入館しましょう。

入り口は階段になっているので足の悪い方には不便かもしれません。

中はホルマリン漬けの検体や寄生虫がズラリ。

写真撮影もOKです。熱心なご婦人がスマホでしきりに寄生虫を収めていましたが、いくら撮影OKとはいえ逐一撮っていると展示を見たい人の邪魔にもなるし、だいたい、フォルダをそんなに寄生虫いっぱいにしてどうするつもりなのか、それもスーパーにでもいそうなご婦人がとなると、寄生虫よりも好奇の目で見られることになります。罪ではないですが、ほどほどにした方が良いでしょう。罪ではありませんが。

 

2階建てにわたる展示のうち、1階のスペースでは寄生虫の多様性や、そもそも「寄生」とはなんなのか、「寄生虫」とはなんなのかを体系的に学べます。

寄生虫はそこらじゅうにいるらしく、種類も昆虫っぽいものから蠕虫(ぜんちゅう)みたいなもの、なににも見えない形態のものという風にさまざまで、じつにバリエーションに富んでいるのだとまず驚きます。

「人間に寄生するものもありますが、すべてに害があるわけではありません」

とパネルに書かれつつも、人体をかたどった展示では「肝臓には肝吸虫!小腸には回虫!ノミ!シラミ!」と容赦ありません。

お魚にも寄生虫はいて、アニサキスなんてのはよく知られています。

アニサキスの特性」として事細かに書かれています。

「60℃以上で熱すること」「魚をさばいた包丁などはかならず洗うこと。まな板をわけること」などなど。

ここでうる覚えの知識を書いてしまっても仕方が無いので詳しくは調べるか足を運んでみてください。私は刺身を食べる気が失せました。

 

2階の展示スペースでは人体に害を及ぼす寄生虫が紹介されています。

寄生虫に蝕まれることで人体が変形したり大変な思いをしたり、最悪死に至ることもあります(死とはあくまで最悪の「結果」であり、そこに至る「過程」は死よりも酷であります)。

Wikipediaで読みごたえがあることで有名な日本住血吸虫も展示されていました。

件の寄生虫も、発端となったミヤイリガイも展示されていました。こんな小さな虫が風土病を巻き起こし人を殺していたなんて。はなはだ恐ろしい。

 

ja.wikipedia.org

 

などと震えていると、その後ろの展示では体長8メートルのサナダムシの標本が。

「ある日肛門から白いヒモ状のものが出ているのに気づいた。博士の指示で虫下しを飲んだところ、この8メートルあまりの寄生虫が出てきました」と解説。出てきました、じゃねぇだろ。

8メートルというと、どのくらいの大きさでしょうか。くじらのペニスよりも大きいことは間違いないでしょう。山手線の一車両よりかは短いくらいでしょうか。規格外に大きすぎて、目の前にしても漠然としています。

「体節は3000以上ある」と解説。

でしょうね。

このサナダムシは特に人目を惹いていました。ツーショットを撮る婦女もいました。

 

ひととおり見て回っておおよそ30分くらいでしょうか。小さい展示です。しかし、どれも興味深く面白かったです。

ミクロの世界に広がる寄生虫の多様性に、生命の強さを感じました。寄生虫と一言に言ってもさまざまな種類がいて、彼らは必死に生きているのです。うまく寄生できなければその先にあるのは死、他力本願・運任せの生き方にも見えますがそれはそれなりにかなりツラいものもあるでしょう。寄生され奇病にかかった者はたまったもんじゃありませんが。

じつに豊かな広がりを見せる寄生虫の世界にひとたび興味を持てば標本もさほどグロテスクには見えませんでした。(個人の感想です)

 

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ところで、どうせ人なんてほとんどいないだろ、とタカをククって昼頃に訪ねたのですが、先ほどの中二や写真婦人のように、老若男女問わず人が訪れけっこう混んでいました。

ファミリーが5組くらい来ていて、男の子も女の子もお父さんもお母さんも時に熱心に、時に顔をしかめてホルマリン漬けを見ていました。なぜファミリーで来たのか。

カップルの比率も高かったです。どちらかというと女性の方がはしゃいでる様子で、男性はムム……と唸ったり首を横に振ったりして、特に肥大化した陰嚢の写真の前では顔を青くしていました。米俵くらいになった金玉を見れば男性は誰だってそうなります。

それにしてもどうしたカップルなのでしょうか。デートに行き尽くしたのでしょうか。

若い女性のお友だち同士もいました。フォトスポットと勘違いしているのでしょうか。

 

怖いもの見たさのアトラクション的要素として訪れるには、そこまで大きい施設でもないし、展示内容もポップなものもありつつ主体は真面目なので、たとえば「人体の不思議展」みたいなものを想像しているのなら期待外れかもしれません。

ただ、どういった理由であれ行ってみればそれなりに発見があり、教養になります。

日本には寄生虫と戦ってきた歴史があり、実績があり、犠牲があります。それを知るいい機会になることでしょう。

まずは知ることから始めて、ひとりひとりの意識を変えることで被害を減らし、またそういった取り組みは生態系の保護にもつながっていくのです。害があるからってむやみに絶滅させればいいものでもないのです。

「この世界に意味のない生き物なんていない」と展示にも書いてありました。いい言葉です。我が家の標語にします。

 

目黒寄生虫館は、寄生虫とその歴史を知るいい機会になる場所でした。

せっかく無料ですから、お近くなら足を運んでみるといいでしょう。

 

 

目黒寄生虫博物館のポイント

・入館料無料(寄付できます)

・写真撮影OK

・意外と混んでた(平日はそうでもないかも)

・けっこうタメになった

 

(JR目黒駅から徒歩10分程度)

 

 

<おまけ>

帰ってからミートソース・スパゲティを作りました。

大腸にびっしりと寄生した線虫を思い出しましたが、美味しくできたのでよかったです。