蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

閏年の「うるう」ってなに?

は1995年12月生まれなので、同学年の早生まれには、数名、1996年2月29日生まれがいた。

そいつらは4年に一度、示し合わしたように、たとえば12歳の年には「いやぁ、今日でようやく3歳ですよ」なんてことを言ってはクラスで注目を浴び、閏年生まれの恩寵を得て、出生そのものが特別なことであるかのようにしていた。心底羨ましかった。

今日、その人たちは7歳になる。

私と同じく28歳でもあるから、おそらく社会人になっていて、会社に勤めたり、パートナーと同居していたり、誰かと仕事をしたりしているだろう。

やはり、あの頃と同じように、「今日で7歳なんすよ」って言っているだろうか?

言っているのだろうし、話題になるだろう。

羨ましい。あの頃とは違う意味で。

この年齢になって、生まれたことそのものが特別であると認識できる機会があるのが、羨ましい。

 

ところで、閏(うるう)はどういう意味なのだろう。

「潤い」と音もつくりも似ているけど、さんずいがないだけで、異様な雰囲気を纏っている。

調べてみた。

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暦の調整、そのままの意味らしい。

「暦の上の季節と実際の季節とのずれを調節するため、一年のうちの日数・月数を普通の年より多くすること」という意味の漢字が「閏」だ。

「暦の上の季節と実際の季節とのずれを調節するため、一年のうちの日数・月数を普通の年より多くすること」という意味を一言で表す漢字があるのだからすごい。

やっぱりなんか、特別だ。

 

旅行の本質

今週のお題「大移動」

 

行の何が好きかって、移動がとにかく好きだ。

移動が好きなので、目的地に到着してしまうと、あーあ、着いちゃった……と肩を落とすこともある。

目的地にそこまで興味はなくて、私はただ移動がしたいだけであり、どこかへ行けるならその移動、過程にこそ旅情があると思っている。

移動しながらの食事はなんて美味しいのだろう。

移動しながらの読書はなんと退屈なのだろう。本を閉じて目を向けた車窓は、なんて特別なのだろう。

鉄道のシートのにおい。飛行機の音。レンタカーのハンドルの触り心地。キャリーケースの重さ。リュックのポケットに入ってるお菓子。絶対に使わないと思いながら忍ばせたサングラス。

移動過程で最も好きなのは、駅ですね。

新幹線の駅で出発を待っているときの、ああこれから移動をするのだ、慣れた土地を離れてどこかへ行ってしまうのだというワクワク感が最高潮に達する。

駅の売店でなんかその土地の食べ物を買ったり、慌ただしくNEW DAYSで飲み物やランチパックやガルボを買ったりする時間が好きだ。

今考えただけでもそわそわしてきた。楽しくて。

 

空港、大好き。

空港のチャイム?ピーンポーンパーンポーンってやつ。

「ANA752便 新千歳へお越しの皆様は15番搭乗口へ〜」

早口で唱えられるスタッフのアナウンス。あの声ってたいがい女性だけど、いつ聞いても同じ声な気がする。

旅の声。大好き。

あれを録音して聞いていたい。

空港って大理石だからキャリーケースを引っ張りやすくて嬉しい。そんなことを思いながら、お昼ご飯を食べるお店を探してうろうろする。

機内で食べるお菓子を買ったり、ペーパーバックを買ったりする。へ〜羽田空港ってありとあらゆるお土産があるんだな、とか思ったりする。

搭乗前の、ゲートで待ってる時間も好きなんだよな〜〜〜!!

これから乗る飛行機が、賢い執事のように、そこで待っている。

飛行機ほど美しい乗り物はないと思う。

人間が空を飛ぶために、徹底的な科学と論理で作り上げた鋼鉄の塊。空を飛ぶ夢の実現にはこれほどまでの現実的な科学が必要なのだ。

飛行機について思いを馳せる。

まったく惚れ惚れする乗り物だ。

おれはこれから、この鋼鉄のロマンに乗って、空を翔けるのだ。

 

旅行は移動が好きというよりも、厳密に言えば移動する前の待機時間が大好き。

到着してしまうと、もうワクワクはしなくて、あとはもう終わりを迎えに行くだけの時間になってしまう。

旅先のグルメで東京のものより美味しいことってあまりないし、美しい海もいいけど地元の海のほうが心落ち着く。

「家に帰れない」ストレスが若干ある。

でも温泉宿は好き。

私の中で旅行の本体は、移動なのだ。

 

ただし、帰りの移動は嫌い。

ここに論理はなく、もう心の問題。帰るころになって旅先の雰囲気に慣れるのもある。

 

 

 

激・辛・甘・痛

昼に激辛のグリーンカレーをタイ料理屋で食べた。

初めて行くタイ料理屋だったのでとりあえず一番辛いものを食べてみようと思ってのことだった。

結果、当たりの店だった。ココナツミルクと鶏肉のコクがしっかり溶けこんだスープに、青唐辛子の痺れるような辛さがとてもよく効いていて、本格派であった。タイ米も程よい炊き具合。スープとよく絡み、口の中でぱらりとほどける。辛くてビリビリするのに、スプーンが止まらない。これは夏に食べてもスリリングで涼しげなカレーになるだろう。旨かった。

それにしても辛かった。

食後はずっと口周りがヒリヒリしていた。

 

口直しというか、こうなると甘いものが食べたくなる。

タイ料理屋から程よく歩いたところにクレープ屋があったので、そこでホイップクリームとチョコバナナのクレープを食べた。

ところで私は無類のクレープ好きとして、知られていない。

自分でもびっくりしたのだが、私はどうやらクレープが大好きらしい。

実はこのクレープ屋には前々から来たいと思っていたのだと妻に告げ、食べてる最中も私はずっとニコニコしていたらしい。

28歳、冬。

クレープを店頭で食べてご満悦。

生地が好きなんすよね。パリパリもちもちしてて、素朴で。素朴なものが好き。

あとさ、クレープの、一番最後のお尻の尖ったところ。あそこ大好き。生地をぐっちり食べられるし、チョコソースとか甘いものがブヨヨと詰まっていて、あそこがクレープの腸(わた)だと思う。クレープのレバー。最も美味なるところ。

ホイップクリームをまとったバナナはずしりと重く、私は大満足だった。

 

帰宅後、昼寝をしていたところ、激烈な腹痛に襲われた。

トイレから離れられなくなり、20分ほど格闘。ベッドに横になり、しばらくしたらまたトイレに、というサイクルが結局5時間くらい続いた。

今はお腹に懐炉を貼り、邪悪を出し切ったことで幾分落ちついている。

食い合わせが悪かったのだろうか?激辛のあとに糖質爆弾みたいなクレープを食べて…。

たしかに、クレープを食べていたときから、お腹に不穏な気配がなくもなかった。でもそれは微々たる異変で、問題とすべき様子ではなかったのだ。ひと昔前の地球温暖化問題みたいな扱いだった。だれも気にしていなかった。

もう私の腸(はらわた)は、10代の頃のように、いくらでもクリームを摂取できるようにはできていないのだろう。

それもそうだ。10代なんていつの話だ。

いつまでもteenageを引きずるなんて、まるで若者から嫌われているおじさんではないか。

 

またお腹が痛くなってきた。

いま、平気だろうと思ってスーパーカップのバニラ味をちょっと食べたせいかもしれない。

どうしても食べたかったのだ。

ノスタルジックSFの世界

和だったからこそ生み出せた「未来の姿」があった。

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「昭和少年SF大図鑑」 夢あふれる未来予想図のオンパレード|好書好日

 

空にはクルマが走り、人々はやけにピッタリした銀色の服を着て、物理法則を無視した高層ビルが立ち並ぶ、未来の世界が昔あった。

この、昭和期に「思い描かれた未来」の世界にはロマンがある。

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空飛ぶクルマ|やんぢのブログ|熱狂的シトロエニストのBMW生活(笑) - みんカラ

 

今なお達成されていないこの「未来」はどこか懐かしく、滑稽で、そして愛しい。

このように昔に描かれた未来像を「ノスタルジックSF」と勝手に名付けて呼んでいる。

ああ、懐かしき未来よ。

ぼくたちの夢見た未来は、もう過去のものだ。

 

ノスタルジックSFには2種類あると考えられる。

ひとつが「昭和物」だ。上記にも画像を載せたような、少年科学雑誌に掲載されていた類のもの。

チャージマン研!』をSFに分類するのには抵抗があるが、まさしくこのアニメで描かれている未来像は教科書的といってもいいほど「昭和の未来」だ。

昭和200年はこんな世界かもしれない。

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第35話「頭の中にダイナマイト」#チャージマン研!〔リマスター&超字幕版〕#ChargeManKen - YouTube

 

もうひとつが「クラシック物」で、こちらは『月世界旅行』に代表される、とくに西洋の20世紀初頭あたりに製作されたものを指す。

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映画は宇宙を目指す。 vol.1『月世界旅行』 | 宇宙編集部

 

月世界旅行』もまたSFと言ってしまっていいのか果たして微妙なところだが、この映画に描かれているのはノスタルジックSFの「クラシック物」の姿としてひとつ基準としたい。

「クラシック物」はそれはそれとしてジャンルを確立できるような気もするが、「新しさ」を感じるというよりは「懐かしさ」の感覚に入ると思うので、一分野として枠組みの中に入れた。

スチームパンクともジャンルを分けているのだけど、こちらは私のインプットが少なくて類例を出しにくい。

 

ノスタルジックSFについて、どの時代のSF作品をノスタルジックと呼ぶか、という区切りは一体、熟慮すべき課題だ。

たとえば『AKIRA』(1988年)を作品として古いとできるかというとそうではなく、今なお新鮮な気持ちを呼び起こす作品だし、『2001年宇宙の旅』(1968年)も同様にノスタルジーを感じられる古い作品かというとそうではない。今『2001年宇宙の旅』の映画を調べてみてそんなに古いものだとわかってびっくりした。

一方で市村昆の『竹取物語』(1989年)はノスタルジーの方面だと私は思う。

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竹取物語【市川崑監督作】 | TELASA(テラサ)-邦画が見放題

 

「今から見てそれが古いかどうか」はたしかにノスタルジックSFの価値観のひとつだけど、これを基準として客観的に判断することはできない。

今という時間は常に動き続けているし、古さは人によるからだ。

どんなに古い時代の作品でも見る人の心によっては新鮮に映る。

AKIRA』を私は毎回新鮮な気持ちで見るけれど、それは私の主観で、人によっては「古い」と言っててもおかしくないし、それは悪いことではない。

ノスタルジックSFの「古さ」を「古臭さ」と言い換えてしまうのも横暴だ。古臭いわけではないし、その言葉には愛がない。

ノスタルジックSFを客観的に定義するのは難しい。

 

ノスタルジックSFに含まれる要素として、「希望」があるのではないかと思う。

それは作品の内容に関わらず、なんというか、「ぼくたちの未来はきっと明るい」みたいな、オーバーテクノロジーに対するワクワク感、目を輝かせる感、ある種の烏滸がましさすらも抱いてしまうドキドキだ。

すべてのノスタルジックSFにこのワクワクドキドキがあるわけではないだろうけど、その要素がどこかに入っていると、感情は懐古し、ノスタルジックSFをそこに見出すような気がしている。

ノスタルジーとはそもそも、感情なのだ。

 

今摂取している「未来像」もいつか古くなってしまうかもしれない。

私はディストピア的な未来小説ばかり読んでしまうのだけど、楽しい未来が待ち構えてくれたほうが、めっぽう嬉しい。

今思い描く未来が、古くなってしまいませんように。

『将太の寿司』を読破したら妻の気が狂った

『将太の寿司』というマンガを、全国大会編と呼ばれるところまで読み終わった。

連載が終わったのがこの全国大会編で、このあと時間を空けてからWorld Stage編が始まる。しかしまぁ、World Stage編は一旦置いとこう。

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このマンガはそのタイトルの通り、将太という男の子が寿司職人になる話だ。

16歳(15歳だったかも)の将太は上京して鳳寿司(おおとりずし)で下働きから修行を始める。同じ下働きのシンコ君や、大政さん、小政さん、そして佐治さんといった先輩に揉まれながら、一人前になり故郷の寿司屋を盛り立てることが目標の、人情寿司バトル漫画である。

 

寿司バトル、という聞き慣れない言葉に驚きを覚えた人もいるかもしれない。

寿司バトルとはとどのつまり、寿司コンテストである。

寿司コンテストで優勝すればこの世の財宝をすべて手に入れることができる。テンションとしてはそんなかんじだと思っていただければ差し支えない。

将太は寿司コンテストに新人として出るかたわら、鳳寿司で修行を積んでいく。

寿司コンテストでとんでもない天才みたいなやつが現れたり、ツケ場(寿司屋のキッチンのこと。カウンター席の前で寿司握ってる職人いるでしょ。あそこのこと)での経験値が格上の相手や、人格が破綻している悪の寿司職人、殺人未遂を起こすような凶悪犯などを寿司バトルで相手にしながら、片や日中は鳳寿司で客を相手している。

この情報だけでも、きわめて忙しいことは伝わるだろう。

将太はたいへんな努力家でコンテストの課題が発表されると(試合の前日〜1週間前に「シャリ」「光り物」「貝」などの課題が発表され、各々仕込んでから試合に向かう。当然、仕込みの段階での妨害は常套手段である)数日間は不眠不休を続ける。若さがなせるワザだが、いつか体を壊しそうだ。

このような、常にボロボロみたいな状況でありながら、敵からの妨害を受けたり、ときには迫害まがいの人権侵害まで行われる。

それに加えてこの作品には「人情噺」的な側面もある。

つまり、コンテストとは無関係の人間同士の繋がりや、別れや、決意や、挫折や、喪失や、成功の話で、無論、そこで振る舞われる将太の寿司はお話のキーアイテムとなる。

こうした人情噺と寿司バトルの交互浴が『将太の寿司』の魅力だ。

 

話の流れはまぁ、世間でもよく言われているようにワンパターンと言えるかもしれない。いくらなんでもやりすぎだと思えるような展開も多分にある。リアル路線に見せかけてファンタジーな要素もある。たとえば、シャリを炊いた水の違いを当てたりもする。天才なのだ。

でも、人間同士のつながりが寿司によって成され、誰かが救われるのは、時として私の涙腺をワサビのように刺激したし、この作品を読んで寿司をより好きになったのも事実だ。

寿司のテーマで展開がパターン化しないわけがなく、それは多くの料理マンガがたどる道でもある。そんな中でよくもまぁこんなに、ネタの引き出しがあるものだと感心すらする。寿司なだけに。

名作だと思う。

よい意味で、少年マンガらしいマンガだ。

 

将太の寿司』で語られているテーマは3つある。

・喪失と再生

・憎悪と赦し

・父殺し

そんなバカな、と思われるかもしれないが、私が読んだかんじこの3つがテーマとして物語全体を流れていて、これらを「寿司バトル」「寿司人情噺」の枠組みで繰り返している。

登場人物たちの多くは、大切な人を喪っていたり、挫折をしたり、破綻していたりする。そんな胸にぽっかりと空いた穴を将太のさわやかな人間性と寿司が救い出す。かく言う将太自身も母親を亡くしている。

将太の母親が亡くなったのはライバルの寿司店のせいと言っても過言ではない。憎き相手、笹寿司をはじめとして、将太の前には凶悪な敵が現れ、将太や仲間を妨害し、ときには命すらも奪おうとする。これらの凶悪に対する将太の反応は、頭に血を上らせるものの、最後には寿司で屈服させることで自身の成長点とし、赦しを与えるパターンが多い。

そして父殺し。この作品における父とは、師匠である「親方」だ。

ツケ場に立つには親方を納得させる、つまりは親方をある点において「超越」しなければならない。親方は回りくどい方法で新人にヒントを与え、基本的には言葉ではなく「背中で語る」ことが多く、そこからなにも学べないのなら寿司職人を辞めろとでも言わんばかりだ。

Z世代にこれをやったら確実に3日で辞める。

将太はいかにして「父殺し」を果たすのか。

物語は意外な展開に進むことになる。

 

私は『将太の寿司』のすっかり虜になり、この数か月は寿司のことばかり考えてすごしてきた。

必然、妻との会話の内容も『将太の寿司』ばかりだ。

将太の寿司でさ、佐治さんと将太が序盤で戦うけど、あれってさすがにちょっと無理があったよなぁ。将太をどうしても勝たせなきゃいけなかったから、将太を天才にするしかなかった。でもこの作品は『天才』を描きたいわけじゃないと思うんだよね」

「いや、サジさんって誰?ってかわたし、読んでないし」

「ああ、佐治さんってのは将太のライバルで、物語全編を通しての──」

「いや知らんし。興味ないよ」

「興味持ってよ」

「持たないよ。ていうかさ、わけわかんないよ。知らないマンガの話ばかりされても」

「じゃあ、読むといいよ。面白いよ」

「やだよ」

 

妻に毎日のように『将太の寿司』の話をしてしまったことを、今では後悔している。

私はことあるごとにマンガの考察を話し、時には何か起こった物事に対して、『将太の寿司』の作中での出来事やセリフを引用して批判したり、意見を述べたりもした。敬虔なキリスト教徒が、子どもへ説教をするときに聖書を引用するように。

私は狂っていた。

たとえば妻が会社でこういう嫌なことがあった、みたいな話をしたら私は、

「あ〜『将太の寿司』でも似たようなことがあったな。マンガの中でも再三言われているように、寿司を握るうえで最も大切なことは、お客様のことを第一に考える「おもてなし」の心なんだよね。あなたの同僚がお客様に対してどういう対応を取ったのか些細はわからぬけれども、まず第一に客商売なのだから、おもてなしが行き届いていたのか今一度はっきり確認するのがいいだろうね。そのうえで、自分はどうするか、お客様が悪かったのか、考える必要がある。全国大会編の前にさ、武藤鶴栄っていう"料理人キラー"が出てくるんだけど、そこの話で──」

「もうやめて!!!!!!」

このような有り様で、私は『将太の寿司』の文脈を半ば妻に押し付けていた。

ハラスメント。

不名誉だがそう言われても仕方がない。

その結果、「将太」「寿司」という言葉に妻は異常に過敏になり、まったくマンガの話じゃないのに私が「寿司でも食べたいなぁ」とでも気まぐれに言うと、「ぐ、ぐぃぎぃぃぃいいいいい!!!」と苦悶して頭を掻きむしるようになってしまった。

将太の寿司』とフルで言葉にすると、ローキックで足元を崩されてからハイキックで顔面を潰される。

私が妻を狂わせた。

完全に私の過失だ。

私のせいで『将太の寿司』というマンガそのものを毀損する事態にもなってしまった。

妻に対しても申し訳ない気持ちだし、この作品に対しても申し訳ない思いでいっぱいだ。

私は、そんなつもりはなかったのだ。

 

私がここまで『将太の寿司』の話をしてしまったのは、周囲にこのマンガの話をできる人がいなかったからだ。20年以上前に連載が終わっている作品なのだ。

もう妻に『将太の寿司』の話をできないので(二度と、永久に、その機会は損なわれた)、こうしてブログに書き起こした。

妻を狂わせた私を狂わせたこのマンガを、皆さんにも読んでほしい。

そして私と、会話してほしい。

にんじんを育て、腐る

い先日まで、にんじんを育てていた。

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にんじんのヘタを器に入れ、少しの水を張ってやると、ヘタから芽が伸びてにんじんの葉が茂るというのだ。

これはかなりポピュラーな、家庭でできる栽培の一種で、ネットで調べるとやり方はいくらでも出てくる。

野菜室でカラカラになったにんじんが不憫だったので、ここはひとつ、こいつを再起させるのも酔狂と思い、年末から育て始めた。

栽培1日目にして、私は実家へ3日ほど帰省をしたため、その間にんじんは放置された。

そもそもここから間違っていたのだろう。

 

水は毎日替えねばならないらしい。

 

実家から戻ると、にんじんはカピカピに乾いてしまっていて、つるりとしていた表面は年老いた未亡人みたいにしわがれて、ところどころ黒くなってしまった。

急いで水を張る。

10分おきくらいに様子を見たが、植物ゆえのスローな時間を過ごしていて目に見える変化はない。

大丈夫だろうか?

死んでてもおかしくない。なにせ、毎日替えるべき水を、替えられなかったのだから。

 

それから3日くらいしたら、ヘタから芽がニョキニョキ伸びてきた。

ひょろっとしていて心許ないが、たしかに生きているらしいことはわかる。

なんて簡単なのだろう。植物は伸びていく様を見るのがおもしろい。その生命力に励まされる。なんか、ちゃんと生きてるんだなとわかって、可愛い。

 

今思えば、このときが最後の元気だった。

 

日中は仕事に行って、窓のシャッターもすべて下ろしているので、にんじんに陽が当たることはない。その状態でよくぞ芽を伸ばしてくれているが、ある程度伸びて以降はぜんぜん長さが出なくなってしまった。

水に浸かっているあたりから黒くなり始めてもいて、というか、全面的に腐ってきていて、よくないかんじではある。

だが芽は出てきているわけだし、たしかな生命はここにあるわけで、私はどうにかしてやりたい。

にんじんには圧倒的に陽が足りていなかった。

そこで、日中はベランダに出しておくことにした。

 

今思えば(パート2)、これがにんじんへのとどめになってしまった。

 

冬は植物を外に出すべきではない。

その日、朝のうちは晴れていたのに、夕方から雲行きが怪しくなり、関東ではみぞれのような大玉の冷たい雨が降った。

深夜に帰宅し、ベランダのにんじんを見る。

生命力が抜けていて、なんかこう、漠然と、死、を可視化したような様相だった。

黒ずんでいたところがもはや白くなり、あれだけ未来への躍動を感じさせていた芽も萎び、水にはどこからか飛んできたゴミが浮いている。

たった1日でこのザマ。

悲しみに暮れる間もなく、妻に「捨てろ」と言われた。妻はこのにんじんを、もともとよく思っていなかった(嫉妬していたのかもしれない)。

私はにんじんを、生ごみに捨てた。

もともと2週間前に捨てられるはずだった場所に、2週間後に捨てられただけのことだった。

 

にんじんを殺したのは、私だったのだろうか。

 

今でも自問自答を繰り返しては、可哀想なことをしたと、袖を濡らしている。

もう少し暖かくなったらリベンジしたい。

しんどいときの予兆

事が忙しすぎて、ほんとうに心を亡くすような日々を送ってしまっている。

束の間に聴くハロプロの楽曲や、ラジオ、そのほかコンテンツを眺めているときしか頬が緩まない。ヒーリング・アイドルだ。

会社の人全員がいま猛烈に忙しくて、職場では独り言やすべてを諦めたときにため息と共にこぼれ出る笑い声が絶えず、奇しくも職場の雰囲気は明るい感じになっているが、仕事に向かう全員の背中から少しずつ覇気が抜けていってる気がする。

ため息の数だけブーケを束ねたなら、職場は棺桶のように華やかだろう。

でも好きな仕事なので、しんどいけど、まぁしょうがないわな、って感じでかなり割り切っている。

だから不幸とか鬱とかそういうかんじではない。

それはそれとして疲れが溜まっている。

 

しんどくなってるとき、こころが余裕をなくす。

たとえばYouTubeで15秒の広告が出てきただけでスマホを叩きつけたくなる。

15秒の広告には日頃から辟易しているが、おそらく憎しみを向ける矛先として最も手近なのだろう、憎悪はすぐに増大する。

私は素人が作った動画を見たいだけなのに、どうしてプロの作った何の面白みもない動画を15秒も見なければいけないのか?これからたった20秒の動画を見るために、どうして15秒の広告と5秒の広告を見なければいけないのか?

腹が立ってしかたがなくなり、重いため息を吐いてしまう。

たったこれだけのことでこうなっているとき、自分の疲労と余裕のなさを自覚する。

 

あと、頭の中で汚言がとまらなくなる。

汚言というか、ちんちんとかおっぱいとか、そういった類の猥雑な言葉。

ちんちんの歌とか即座に作曲して、ヨーデルみたいに頭の中で歌ったりする。

その歌はいつも最後に奇声に変わる。頭の中で小さなハエみたいな狂気が渦を巻いて飛び交う。

 

そんな日々。

たまには早く帰りたい。