蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

わん

 彼が小学1年生の夏、私たちは出会った。私はもともと彼の母親の友人宅に住んでたんだけど、先に住んでいた二人とそりが合わなくて、半ば追い出されるかたちで、この家に来たの。やんちゃだったのよ。
 最初、彼は私を怖がっていたわ。ほら、私、すこし厳つい顔をしているから。でも、うまくやっていけるかしら、なんて心配をよそに、すぐに仲良くなれたわ。まあ、お互い子どもだったというのもあるんでしょうけどね。一緒に寝た夜だってあったのよ。まあ、お互い子どもだったんだけどね。
 やんちゃざかりの私たちは、プロレスごっこで彼のお尻に噛みついて泣かせたり、私が突き飛ばされ壁に激突して泣かされたり、その調子で調度品を壊してママにひっぱたかれて二人して泣いたり、なんてしょっちゅうのことだった。海に泳げば溺れかけ、迷子になっては二人して泣きわめき、勉強もしない、ピアノも弾けない、雨が降れば傘を折り、雨が上がれば泥だらけ。それも今は昔ね。
 今日まで、決して楽しいことだけじゃなかった。
 パパは家を出ていったし、ママは病気になった。妹ちゃんも学校に行けなくなったときがあったし、おじいちゃんも遠くへ行っちゃった。悲しくて寂しくてしょうがない日があった。
 でも、そんな日は二人で寄り添っているだけで小さな陽だまりを見つけたような気になれた。私たちは一度も喋ったことがないけれど、いつも心を通わせていた気がするの。言葉なんていらない。触れあうだけで、見つめ合うだけで。

「じゃあ、行ってくるね」彼はスーツのネクタイをキュッと締めて、玄関に立った。
「緊張してる?」ママは心配そうに言う。
「大丈夫」ため息をついて、彼は返事をする。
「わん」私は彼を激励する。
「オーケー、ユーアー・グッド・ガール。任せな」彼は私の頭を撫でてそう言うものの、私もママも心配だった。
 今日は4月の最初の月曜日。
「じゃあ、行ってくるよ」
 私がこの家に来て16回目の春。
 彼は社会人になって、私はすっかりおばあちゃんになっていた。