藤井くんが棋聖タイトルを獲得した。
史上最年少タイトルということで、たいへんな偉業だ。
どのくらいすごいことかというと、最年少で将棋のタイトルを獲得するくらいすごいことなのだ。
少しでもその偉業の「徳」にあやかりたく、昨晩から5分に一回、心の中で藤井くんの靴を舐める妄想をしている。
彼が年下だろうと関係ない。「徳」にあやかれるなら靴をも舐める。これが大人だ。
これできっと私にも「徳」が舞い降りるだろう。
よろしくお願い致します。
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ところで「藤井さん」でも「藤井御大」でもなく、あえて「藤井くん」と親しげに呼ぶのには理由がある。
藤井くんとは実は面識があって、私も昔、将棋教室みたいなところに通っていたのだが、そこで一度だけ指したことがあるのだ。
当時藤井くんはまだ小学校低学年で私は中学生だったのだが、その読み筋の鋭さと柔軟さには途轍もないものがあり、私は善戦したものの後半の読みに打ち負け、逆転敗北してしまった。
ずいぶん年下の相手だったから油断をしたというのもあるが、後半の読みの深さには目を見張るものがあり、まるで初手からこの筋を読んでいたんじゃないかってくらい隙の無く計算高いものであった。
私が盤上で踊らされていることに気付けないくらい、さりげなく、けれどもしたたかで、子どもながらに冷徹で、策士だった。
「すごいね。きみはプロになるよ」と負けた私は素直に言った。
すると藤井少年は、今と変わらない純朴さでにこりと笑い、「ありがとうございました」と少年らしからぬウヤウヤしさで応じた。たしか握手をしたとおもう。物腰には勝利をひけらかし得意になるような鼻につくところが一切なく、私は負けたにもかかわらず彼が勝ってくれてよかった、とおもったものだ。
藤井くんは将棋教室の年上の高校生までも負かした。先輩は「すごいや」と言いつつも手が震えていて、その日を境に来なくなってしまった。
先生の指南を餅をすするようにするする飲み込んで、すぐに自分のものとするばかりか応用まで効く。
あくまで純朴に、子ども的なある種の天然さをもって、誰もが見落としていた詰みを読むことができた。
そして、誰よりも勉強していた。
藤井くんは幼少からすごかったのだ。
と言いつつ私もやっぱり悔しくて、なにせ相手は小学校低学年なのだ、敗北を認めきれないところはあった。
だけど現実に藤井少年は勝ち続け、たとえ負かされてもその相手に二度負けるということはなかった。
それを見て私は、彼に挑戦するのが怖くなった。
もう一度負けたらどうしよう、という恐れに似た気持ちが次第に、次やっても負ける、に変わっていき、そう思ってしまうことがまた怖くて、悔しくて、私は藤井少年と対局をしない代わりに彼の対局を観戦し、感想戦でああだこうだと言ったり、とやかく藤井少年を褒めたたえたるようになった。
まるで自分の敗北──徹底的な敗北──が天才相手に必然だったのだと自分を納得させるためのように。
私はどこまでも弱かったのだ。
私はすべてにおいて負けていたのだ。
まもなく藤井少年は将棋教室に来なくなった。引っ越しの多い彼の家庭の都合で。
だけど、それでよかった。
もうこの将棋教室で彼に教えられるほど上の人はおらず、下手くそ相手にやっていると彼の指し手の刃を削ぐことになっていただろうから。
私もそのあとしばらくして教室をやめた。
そんな妄想をして少しでも「徳」にあやかりたく、とりあえず「藤井くん」と呼ぶだけ呼んで親密さをアピールすることで妄想が次第に「思い出」にすりかわり、現実だったと思わせしめるために(自己洗脳)、「藤井くん」と書いているのだ。
靴、舐めますよ!
悲しいか。おれのかわりに泣いてくれ。
藤井くん、おめでとう。そして、よろしくお願い致します。
かしこ。