蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「良い文章」ってなんだろう

 は主に純文学と呼ばれるジャンルを読み、次いでSFやミステリや翻訳物を好み、あまりライトなストーリー重視のものは読まなくて、ライトノベルなんてほとんど読んだことがない。『涼宮ハルヒの憂鬱』は読んだことがあるけれど。
 別にお高くとまろうとかそういうつもりはなくて、趣向が純文学寄りなだけだし、それ以外のジャンルを貶めるつもりはまったくない。文章は皆平等に文章だ。
 でも、優れた文章やそうでない文章は明確に異なる。
 ここで例を出しても私のような浅学の者が語っていいものではないのでやめておくが(馬鹿が露呈する)。
 私はできるだけ、素晴らしい文章に浸っていたい。文豪と呼ばれる人たちの作品は必然、そういったものが多い。
 

 良い文章であるから良いストーリーである、とは言えない。「優れた文章」と「優れた物語」は異なる。もちろん、二つを兼ね備えた小説も多くあるが。
 私は川端康成の『雪国』が好きで、たまにパラパラとページをめくってはテキトーな文章を途中から読んで、癒される。谷崎潤一郎春琴抄』もそうやって読むことが多い。
 『春琴抄』はともかく『雪国』はストーリーが面白いかと言うと、私はそうは思わない。物語の前半と後半で設定が違ったりストーリーの整合性が取れていなかったりして、なんか最後もよくわからない。これは『雪国』が期間をあけられて書かれたためとされている。川端本人も書いてるうちに設定を忘れちまってるのだ。ふざけてやがる。
 それでもノーベル文学賞を獲れたのは、この作品の文章が見事だったからだ。
 文章の要諦は簡潔さにこそあり。そう言わしめる名文が『雪国』を構成する。必要最低限にして最大限の広がりを見せる文章を読んでいると、日本語って美しいと思うし、日本人に生まれて美しい日本語を原文で読めることは幸福だと思わせてくれる。
 ああ、美しい、尊い、ああ素敵、と思っているうちに物語は終わり、読後は爽やかな感動の余韻だけが残っていて、ストーリーはほとんど頭に入っていない。


 太宰の『津軽』を先日読んだのだが、『津軽』も『雪国』同様の現象が起こった。
 美しくてリズミカルで太宰独特の文章スタイルに圧倒されているうちに終わってしまったのだ。内容はほとんど覚えてなくて、最後に、なんか育ての親?乳母?みたいな人に会いに行ったんだよね、ってことくらいしか覚えていない。あとは始終酒を飲んでたこと。それからこの名文。「大人とは、裏切られた青年の姿である」素晴らしい。名著には名文がある。これも「素晴らしい文章」に必要なパーツだ。

 石牟礼道子の作品も私はよくわからなくて、文章の質感を追っているうちに本が終わるので、心地よい。
 漱石も似たようなものだ。

 

 ……ふと思ったのだが、もしかしてストーリーが細かく頭に入っていないというのは、単に私がアホだからなのだろうか?(こうして馬鹿が露呈する)


 ストーリー云々ではなく、良いとされる文章の味わいは、質感やリズムや言葉選びのセンス、簡潔さ、比喩、少しの無駄、そういったものにあるのではないか。ストーリーはそれに付随するものなのだ。
 ストーリー重視の作品が優れていないとは言わないけど、弱点があって、ストーリーが少しでもだれると読む気が失せる。
 優れた文章の作品は、ストーリーは二の次なので、ストーリーがおそろしくつまらなくても最後まで読める。私だけだろうか。
 でも、文章の根源的な美しさを読むということは、それって文芸の本来的な楽しみ方なんじゃないか、と思うのだ。章の術だから。ストーリーの芸術とは一つ違うところに置かれている。


 私は町田康が好きで、氏の作品はわけわからない展開が多く、その魅力は音読にこそあり、音読して読むと笑いが止まらなくなる。「文芸」のひとつのかたちだ。読後に面白味の余韻が残っていて、腹筋がひくひくする。


 私も「良い文章」を書きたい。文章が先行する小説を書きたい。エッセイを書きたい。
 それを目指してこのブログを書いているのだけど、なかなか難しくて、だが、とりあえず読後、頭には何も残らないというのだけは達成しているのではなかろうか。
 だから、この記事のことは忘れてください。

 

 

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