蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

犬と喋ったことはないが、犬と喋ったことがある

 は去年まで犬二頭と暮らしていた。一頭が初秋に亡くなり(11歳だった)、もう一頭が年の暮れに亡くなった(16歳だった)。
 いまだに彼らの写真を見て、ほろりとしてしまう。でも同時に、笑顔にもなれる。

 まぬけな顔してんなぁとか、おバカだなぁと笑え、その笑みの幸せは彼らがいたときと変わらない癒しを与えてくれるのだから、すごい。悲しみよりも与えてくれた幸福の方で胸が満たされる。
 それでもやっぱり、またいつか会いたいなぁ、と思う。いつか必ず会えると信じてる。なんらかの方法で、どこかの場所で。
 

 湿っぽい話をしたいのではない。
 私は彼ら、犬と会話をして過ごしていたのだ。
 でた。
 飼い主特有の親ばか。そう思われる方もいるだろう。でも、犬や猫と暮らしたことのある人なら、彼らと会話ができるということの意味がわかると思うのだ。


 その会話とは、言葉によるコミュニケーションではなく、言うなれば瞳によるコミュニケーションだ。しぐさによるコミュニケーションだ。温もりのコミュニケーションだ。呼吸のコミュニケーションだ。心のコミュニケーションだ。私たちはその第六感的な力を用いて、お互いに気心の知れた仲になっていたのだ。
 犬がえっちらおっちらと苦痛の後ろ足を引きずって起き上がれば、私はなんとなく、あ、水を飲みたいのね、と了解して水皿を犬の口元に持っていく。すると彼女は(16歳のほうだ)、ぺろぺろと水を舐め、満足すると戻っていき、クッションを丸めてぐーぐー眠ってしまう。
 彼(11歳のほう)と居間で目が合って、しばらく睨み合った後、私が腰を落として「うわぁーーーーーーっ!」と叫べば、彼はニッコニコに笑って私に跳びかかってくる。そうやってじゃれつく遊びをよくやっていた。彼は、遊ぶぞ、と言っていたのだ。


 うちの犬は両方ともフレンチ・ブルドッグという犬種で、鼻が潰れているために豚みたいにブーブー鳴く。わんわん吠えることもあるけど、基本的にはなにやらブーブーしていて、寝るときは爆音のいびきを気持ちよさそうにかく。
 冬の朝、彼女と目が合う。
「どうしたの?」
 そう訊ねると、彼女は私を見てブーブーなにやら訴える。彼女は晩年後ろ足が悪く、意のままに歩くことができなかった。
「ブゥブゥ」
 私はなんとなく彼女の言いたいことを了解する。
「はいはい」
 私は彼女を抱えて、ストーブを点け、一緒に温風の前に座ってやる。すると彼女は私の懐に寄り添うように顔を私のパジャマに押し付け、ぐりぐりやって、「うわっ、汚れるからやめてくれっ」と私は彼女の顔を退け、彼女の首を撫で回して、朝からイチャイチャする。そのうち彼女は眠ってしまう。私も眠ってしまう。学校をサボる。
 どうして彼女が「ストーブにあたりたい」ことを私が理解できるのか、わからない。長年の経験や習慣だろうか。それとも、私の一方的な思い込みだろうか。
 いや、でも確実に、私は長年共に過ごしてきた犬たちとコミュニケーションを取れていたのだ。心の交流ができていたのだ。
 なんとなく、犬たちの目を見たり、しぐさを見ていると、彼らの伝えたいことが頭に閃いてきて、どうしてほしいのかわかるのだ。犬は人間になんらかのテレパシーを送っているのだろうか?
 もちろん、私のテレパシー感度が弱いため、彼らの意志を間違えってくみ取ってしまうこともある。水かと思ったらオムツを替えてくれだったり、散歩かと思ったら庭に出たいだけだったり。
 そういう具合なので、初対面の犬とコミュニケーションが取れるわけではない。幼いころから長年一緒に暮らしてきた仲だからこそ、できるのだ。


 体調を崩して寝込んだり、疲れてソファでくたばっていると、犬が必ずそばに来てくれて、私の頬を舐め、元気出せよ、と言ってくれる。気がする。いや、言ってくれるのだ。その時の頬を舐める感触が、今でも生々しく思い出せる。撫でた毛の触り心地や、あのいびきや、においや、あたたかさや……幸せを……。
 私たちが幸せなとき、彼らも心から楽しそうで、一緒に笑ってくれた。なにがどうして幸せなのかはわからずとも、誰かが幸せなら自分も幸せなのだ。
 シンプルで偽りのない心を持った、あたたかい生きもの。ペットではない、家族。飼っているのではない。共に暮らしていたのだ。

 犬も猫も鳥も虫も、みんなの家族はみんなの家族だ。


 私は死ぬまで一緒に彼らと生きていけるだろう。生きていける。そう思う。

 

 

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