ここ数日、かつて一緒に暮らしていた犬が夢に登場することが多い。
なぜだろう、と思い至ったのが、そうか、お盆だった。
彼女たちにとって2回目のお盆。
夢に犬らが登壇すると、思い出すのは楽しかったことばかりで、どういった夢だったかは忘れてしまうのだけど、起きたときの余韻がやわらかく、あたたかい。
犬を飼うというのは本来大変なことだ。
毎日散歩をしなきゃいけないし、猫に比べて室内トイレで用を足すことが下手くそだし、洗わないと異臭がするし、吠えるときは吠えるし、尻に噛みつかれることもある。留守中に悪戯し、ゴミを部屋中にまき散らされることもある。椅子を引いてダイニングテーブルに跳び乗り、獣のように果物やパンを食べあさることもある(これは猫もやる。この間は残飯のゴーヤチャンプルーや饂飩をばくばく食べていた)。
猫と犬の双方を飼ってみて、明確に、犬の方が手がかかると感じた。
現代の日本人はかなり時間に追われてめちゃくちゃ忙しく(なぜ忙しいのかは不明)、そのせいで都市は無気力化しているので、犬との関りが都心ではどんどん薄くなっている。
散歩の都合もあることなので、都市生活では猫が合っていて、郊外になると犬も伸びやかに過ごせるのだろう。犬にとってもアスファルトやコンクリートよりも芝生や土の上の方がいい。
ともかく犬は手のかかる生き物なので、そのせいで意志の弱く責任感の無い飼い主に簡単に捨てられる。これは犬に限った話ではなく、猫も捨てられるが、犬の方が「飼いきれない」という理由で捨てられる話をよく聞く気がする。
かわいいだけじゃないのだ。どの生き物も。
だけど、私の夢の中では、犬との楽しかったことばかりが思い出される。
本当の幸せって、そういうことでいいのだとおもう。
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だが、昨晩の夢は、胸がチクチクと痛むものだった。
犬たちが「帰ってきて」、私と母は出迎える。たぶん、あの世から帰ってきたのだ。
さっそくお腹を空かせていそうだったので、カリカリのごはんを皿に開け、なぜか私は彼女を椅子に座らせて(椅子の上でお座りをしている)、召し上がれ、と差し出してやる。
しかし、皿に口を付けるものの、一向に減らず、顔を背けてしまう。
「食欲」の業を司っていたとしか思えないくらい普段の彼女は大食いで卑しく、食事を残すことなんて滅多になかったので、こうして残すのはよっぽど体調が悪いとき……。
……この「食べない」ということが、彼女の最期の数日のつらさを思い出させた。
夢の中で私は、残ったカリカリに牛乳を注ぎ、コーンフレーク状にしてやった。ふやけたカリカリがフニャフニャになったところを、彼女は食べようとするが、下を向いて食べると嚥下ができないのだろう、むせてしまうので、私はフニャフニャを手に取り、離乳食のように崩して手に丸め、彼女の口に含ませてやると、ようやく飲み込んでくれる。いくつもいくつも食べてくれる。
私の手はべたべたになり、唾液と牛乳とフード特有のにおいで臭い。だけど、彼女が食べてくれる限り、私は彼女の口にフードを含ませ、背中を支えてやるのだ。
ああ、これは夢だけど、現実にあったことなんだ。
夢の中でも、お前はまだ自由にものを食べれないなんて。この間の夢ではおもいきり走っていたじゃないか。今晩は調子が悪かったのだろうか。
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犬を飼うことは大変なことだ。
けっして楽しいことばかりじゃない。面倒なこと、つらいこと、怒ることもある。
そのことを、昨晩の夢で思い出した。
だけど、こうしてつらい夢でも、出てきてくれるだけで本当に嬉しく、起きたときはあたたかい気持ちになってしまうのだから、本当の幸せってこういうことなのだろう。
今年も帰って来てくれてありがとう。