蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

手で食う、ということ

 校生3年生の夏、お昼用に朝コンビニで冷やし饂飩(うどん)と豆乳(調整)を買い、食い合わせ悪いな、こりゃあ皆にバカ受けだな、って一人くすくすして、さていざお昼になってビニルを覗いてみると、割りばしが入っていなかった。

 食い合わせの悪さについては、皆受験生になって切羽詰まっていたからユーモアを楽しむ余力もなかったのだろう、「バカなの?」の一言で終わり(単につまらなかったという説もある。諸説ある)、代わりに箸がないことに爆笑していた。人のセックスを笑うな。いや、セックスじゃないけど。不幸を笑うな。

 饂飩はあくまで白く、ビニルはかさりと音を立て、嘲笑。

 私は途方に暮れた。

 箸を貸してくれる人なんていない。えんぴつを箸代わりにしてやろうかしら、と思ったけど、シャーペンしかない。メカニカルペンソーで饂飩は食えるだろうか?否。無論、シャー芯で食べれるはずもないし、もし食べれたとしても鉛中毒で死ぬかもしれない。えんぴつとてそれは同じことである。

 万事休す。

 私は飢えて死ぬのだろうか?

 最後の晩餐は豆乳(調整)だけだろうか?

 いやだ。

 この時の私はまだ童貞であった。童貞のまま死にたくなかった。

 

 どうしたかというと、そのまま手で食った。

 

 これによりユーモアが発生し爆笑を回収できるかと目論んだが、普通に、ドン引きされただけだった。

「頭、おかしいんじゃないの?」

「勉強しすぎだ」

「今年は記録的に暑いからな」

「蟻迷路の友だち、やめます」

「そこ私の机なんだけど。どいてくれるかな」

「あっちで食べて」

「バルコニーで食べて」

 罵声の嵐だった。

 一方で私は饂飩を手で食べることに感動を覚え、そんな罵声は耳に入らなかった。

 

 手で食べる。

 なんて行儀が悪いのだろう。あの頃の私は今よりも尖っていて、パンクだったからそのような愚行をできたものの、社会人としての自覚を持った今ではかなわないだろう。

 ほんとうにあの時は感動した。

 饂飩と魂の交流ができた気がしたのだ。

 

 普段、我々はサンドイッチやおにぎり、菓子類を除き、ほとんどの食事を食器を使って済ませてしまう。それは文明の人間として正しい行為だし、食器を使うからこそ人間が人間たる所以であるとも考えられる。

 『吾輩は猫である』において猫は、人間の歴史とは何の歴史であるかというと、衣服の歴史であると語っている。

 

 「単に衣服の歴史と申したい位だ。だから衣服をつけない人間を見ると人間らしい感じがしない」

 

 それと同じく、人間の歴史とは食器の歴史でもあると申したい位だ。

 

 ただ、食器の使用により、私たちは大切なことから一歩引いてしまっているのではないだろうか?

 それは、すべての食べ物は加工されたものであれなんであれ、もともとは命であったということだ。

 食器という文明を介在させることによって、食べ物を自然から引き離し、文明に染め、命を食べているという本来の感謝を忘れがちになってしまっているのではなかろうか。そんなことない?まあ、諸説ある。

 ともかく、だからだね、手で饂飩を食したとき、ああ、これは元々小麦粉だったんだな、大地に根を張り、お日様を浴びて生長した、命の恵みだったのだな、と心底感じたわけです。自分が文明を捨てて、一歩、自然に歩み寄ったことによって。

 インドの人たちはこの根本的な感謝を忘れないために、手でカレーを食べてたんだな。そんなことない?

 諸説ある。

 

 

 皆さんも、機会があれば素手で食べてみてはいかがでしょう?

 自然に一歩踏み込んだ分、社会から離れ、罵倒されます。