人間はどうして他の人間のことが嫌いになるのだろう?
クラスのあいつ、会社のあいつ、テレビのあいつ、誰しも気に入らない人間はいるだろうが、どうして私たちは同種族の人間を嫌いになることができるのだろう?(反語ではない)
言い換えるなら、どうして他人の個性を嫌いになるのだろう?
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大学時代、心理学かなにかの授業でその答えは示された。
「人が人を嫌いになるのは、他人の中に自分の嫌な部分を見るからだ」
人は他人を精神の「鏡」として見ており、実は他人を見ながらにして他人という鏡にうつる自分のことを見ているというのだ。
人間は自分自身を嫌いになることはできない。自分に殺意を持つほど憎むことはできない。なぜできないのかというと、その自分への憎しみを他人という鏡に向けることで自分を自分から守っているからである。勝手なものだ。
つまり、私の意見だけど、他人を嫌いになるということは、他人という鏡にうつった自分自身を嫌いになると言えるのではないだろうか。
他人を嫌いになることは、自分の個性の悪いところを認めない精神的敗北だ。自分自身への敗北だ。敗走なのだ。
そのことに気付いてから、私は特定の誰かを憎むことをやめた。そして……全人類を……憎むことにした……。
(こうして蟻迷路大魔王は誕生した)
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でも、そんなこと言いつつも他人を嫌いになることはある。
憎たら〜〜〜、マジ殴りた〜〜〜って思うこともある。
どうすれば良いだろうか?諦めて殺すか、自分が死ぬしかないのだろうか?それとも出家するしかないのか?
私は苦悩した。
どうしても人間の嫌なところばかり見てしまう、ちょっとでも嫌いな奴には徹底的に心を閉ざしてしまう、嫌いな人間の所属する社会や国まで憎んでしまう、苦しい。このままでは私が私自身を憎みきってしまい、私は可哀想な人間になってしまう。同情されるかもしれない。悲劇のヒーローになるかも。でも女にはモテないだろうな。クソだ。
そこで女にモテるにはどうすればいいだろう?と考えはじめ、女の好きなものを調べてみたりしたが、結局のところ清潔な見た目とトークスキルが必要だということで、清潔さはどうにかなるとして、ではどうすればトークスキルを磨けるのか考えてみたが、こればかりは環境と天性のものによるとしか思えず、ならばトークスキルではなく心の表象として行動によって示すしかないと思いその日から老人に席を譲る、老人の荷物を持ってやる、老人にドアを開けるなどして優しさをアピールしたが、女にモテるどころか老人にモテるばかりで右も左もなくなってしまった。どうしてこうなったのか?私のなにが悪かったのだろうか?私は私を憎んで、ようやく本題からだいぶ逸れていたことに思い至った。
ぜんぜん違うじゃないか。
どうすれば私は人を憎まずにいられるだろう?
その答えは、諺(ことわざ)が教えてくれた。
「罪を憎んで人を憎まず」
どういうことか説明しよう。
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物事、という言葉がある。
物事ってよく使う言葉だけど、物事とはなんなのだろうか?物と事……?物と事とはどう違うのだろう?
私は考えた。
「物」とは、物体のことだ。なにか形として目に見えて手に取ることができて、名詞があって、温度があって、触り心地があって、味があって、影がある、物体である。
一方で「事」とは、出来事のことである。原因があって結果がある、時間の流れがあって生き物の営みがあって、誰かが喜んだり悲しんだりすることのある出来事のことだ。
と考えると、物事、という熟語は二つの漢字が対義語の関係にある二字熟語だと言える。それなのにひとつの言葉としてまとまってひとつの意味を表しているなんて不思議だ。こういう熟語はいくつかある。たとえば「緑茶」とか(ちがう。何もかも)。
「言葉」は「物」と「事」のどちらだろう?そんなことを考えても面白いし、言葉の捉え方の視点が変わるかもしれない。
では。
「人間」は「物」か「事」のどちらだろうか?
答えは、両方だ。
個人というものは明らかに物であるけれど、個人が起こす行動やそれに伴う結果、影響は事であり、たとえば人の思い出の中にある誰かの印象というのは出来事によって結びつくものが多いので、人間は物でもあり事の集合体であるとも言えるのだ。
では、他人の「嫌いな部分」というのは「物」だろうか、「事」だろうか。
これは「事」だ。
その人が起こしたある出来事、という「事」。そしてそれがその人という「物」に結びついてその人の印象となっているに過ぎない。そのようにして、その人は「嫌いな部分のある人」から「嫌いな人」になってしまうのだ。
この仕組みがわかれば、人を嫌いにならずに済みそうだ。「物」としての人を。
どうすればいいか?
簡単だ。
ここで「罪を憎んで人を憎まず」である。
要するに、人を「事」として見ればいいのだ。
人間は最初から愚かで醜いわけではないし、生来美しいわけでもない。成長の過程でさまざまな経験をし、そういった美醜の印象を身に付けていくのだ。それら印象が「事」であるというのは、それらの印象はその人の行動という「事」によって発現するからである。
私はこれまでその他人の醜い部分(=自分の醜い部分)を「物」として捉えていたために、その人そのものがまるでヒットラーや毛沢東やポルポトのような極悪人のような、生きる価値もない愚人だと思い込んでいたが、違ったんだ。
これら醜い部分は「事」なんだ。その人のほんの一面でしかないんだ。
だから、たとえその人に悪い部分があったとしても、その一面という「事」でしかなく、一方のまた一面では気さくな良い奴である「事」や家族を愛する奴という「事」の面を持っているのだ。
なにもその人の全てを否定し嫌うことはないじゃないか。
こうして私は苦悩から逃れて穏やかな日々を送るに至っている。嫌いな人はいない。悪口も言わない。誰かの悪事を暴露することはあるけれど。
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他人を嫌うことは自分への敗北だ。
他人を「事」に分割して理解することでその人自体が客観的に見えてくるし、また、自分自身の弱さも見えてくる。
これは、自分への理解と勝利と共存の一歩なのだ。
皆さんも、物事、この言葉についてちょっと考えてみてはいかがでしょうか?
時間が流れます。