高校三年生のときは毎日小説を書いて、ギターを弾いて、世界史だけを親の仇のように勉強していたため、世界史の偏差値だけは学校で1、2を争うほど高かったが、それ以外はおざなりにもほどがって、自分でもこりゃダメだなどこにも受かるわけないと冗談半分に思っていたのだが、本当にダメで、どこの大学にも受からなかった。
父がお金持ちでよかった。私は予備校に通わせてもらえた。
うちの家庭がお金に困らなかったのは、離婚して別居して母親から私と妹の親権を無断で剥奪した父のおかげだった。私は汚い金で予備校に通ったのだ。
そんなことはいい。
私が浪人した年は、ソチオリンピックの年だ。
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某W大学の第一志望を受ける日の前日、金メダルを期待されていた浅田真央がショートの演技で大失敗し、銅メダルすら絶望的、というか絶対無理、はっきり言って終わった、って感じになって翌朝の日本の雰囲気が最悪になっていたことをよく覚えている。
最悪だった。
2月の雲がこれでもかってくらいどんよりと下がっていて、冷たい湿った風が吹き、それでかなり寒いのに、雪ではなく細かい雨が降った。朝食のパンは異様に硬く、サラリーマンの顔は暗くて臭い。いつものことか。
ニュースでもまるで「日本は米国に宣戦布告をした」なんて雰囲気で、内閣も総辞職したくてしょうがない様子であった。
私も暗かった。なにせ、第一志望の日だったのだ。ただでさえ緊張しているのに、浅田真央すらあれでは、もう無理だと思った。
浅田真央さんのためにいちおう弁明しておくが、私が浪人したのは決して彼女のせいではない。彼女が金メダルを取っていたとしても、私は浪人していただろう。なぜなら、根本的な努力が足りなかったから。世界史しか勉強してなかったから。
試験はどうだったかというと、世界史以外は目も当てられない有様だった。
英語も国語もズタボロで、途中で自己採点をやめて、赤本を尻に敷いて放屁した。なんだこんなもん。すべて自分のせいである。
その晩、浅田真央のフリーの演技があった。
フィギュアスケートは演目がショートとフリーに分かれており、フリーは5分以上演技をするし高度な技を多く繰り出さねばならないので難しい。
日を分けるため、ショートの敗北を引きずらないで臨むこともできるが、プロでも前日の失敗を引きずってしまうことも多い。
その日の浅田真央の顔つきは、完全に前日を引きずっている感じだった。
もうだめだと思った。
金メダルを期待され、最大のライバルのキム・ヨナも今回の大会には出場していない、選手年齢的にも成熟に達しており、世界ランクは最上位、金メダルを獲ってもおかしくない、いや、獲らなきゃおかしい、なんて連日メディアで報じられており国民の期待も大きかったのに、前日のショートはかつて見たことないほどの凄惨さだった。
その期待が彼女の小さな双肩に重くのしかかり、氷上を荒れ地に変えてしまったのかもしれなかった。
もう私は彼女に期待していなかった。
ただ無事で、笑顔で終わってくれればいい。
これまでたくさん勇気づけられてきたし、国民に笑顔を与えてくれた。もう彼女は充分にやったのだ。
オリンピック前に彼女の最愛の母を亡くし、だいぶ落ち込んでいたし、きっとソチにかける想いは並々ならぬものだったろうが、もういいんだ。充分にやった。
僭越ながら、勝手ながら、そう見切りをつけて私はその日の演技を見守った。
見たくなかった。
けれど、見て良かった。
これ以上に素晴らしいものはないというほど、彼女は全身全霊の演技をし、過去最高得点をたたき出したのだ。
その演技を見たとき、私は初めて「神がかり」というものを見た。
本当に神様が乗り移ったかのようだった。これ以上先へ行ってしまったら、もう人間に戻れなくなるのではないかと畏れを抱かせるほどの。
演技が終わって、彼女が涙を流したとき、その涙の重さが完璧という言葉の軽さを思い知らせてくれた。
もしも前日のショートでも良い演技ができていたら……そう思わずにはいられないけど、フリーまでのすべてが、彼女の人生のすべてが、前日のショートの失敗が、フリーで彼女に翼を与えたのかもしれない。
彼女の涙はどんな言葉もあてられないものなのだ。
あの感動を言葉で表すことは私には難しいし、言葉にしたら何かが失われてしまう気がする。こう書いておいてこの場は逃げることにしよう。思い出すと、涙が出そうになるのだ。
泣きたいのに泣けない夜、私はこのフリーを観る。
重い枕に沈みながら眺めていると、無理なく、自然に、涙を流さしてくれて、枕を軽くして眠ることができるのだ。
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蛇足的に書いておくと、私に神がかりなんてものはなくて、その年の受験は失敗に終わった。
でも、失敗があったから現在の幸せがあるのだ。