よくわからない現代アートも、実際に現物を見るとその大きさに圧倒されたり、わけわかんないなりに何か伝わるものがあって、感動することがある。
私の場合、草間彌生がそうだった。
一昨年だったか開催された「草間彌生 わが永遠の魂」展で彼女の作品に触れ、心底震えた。
草間彌生なんて水玉のおばさんでしょ、とタカをくくっていたら度肝を抜かれたのだ。
たしかに、水玉のおばさんだった。
しかし、ただの水玉のおばさんではなかった。
絵画は意味不明だし、理解不能と言っていいだろう、解説がなければ作者の意図を汲むことはできそうにない。けれど、なにか伝わるものがあった。
それは、熱 、だった。
作品に染み込んでいる、草間彌生の、魂だった。
この、非常に細かい網の描かれた『No.PZ』という作品を見たとき、本当に涙ぐんでしまうほどに、感動した。
どれほどの狂気に身を任せて、さらけ出して、向き合えば、ここまでのものを描けるのだろう?
そしてそれを乗り越えた先に顕れる、怒り、混乱、悲しみ、愛はどこから来て、どこへ行くのだろう?
彼女の魂をさらけ出した作品が私の中で「私自身のこと」に変容し、作品が鏡のようになって私の心までさらけ出すような、そんな普遍的で局所的な、深層心理に入り込んでくる作品だったのだ。
むろん、理解はできない。説明しろと言われたらできない。
ただ、了解できたのだ。この腹で。
以来、美術品の楽しみ方が変わった。
それまで知識を先行させて、時代背景や思想を捉えながら鑑賞していたのだけど、彌生ショックを受けてから、知識を捨てて、肉体で楽しむようになった。
見たまま、心にふれたかどうか、それだけを求めて、純粋な子どものように絵画を楽しむ日々だ。
そうなると、本当に気に入ったものはいつまでも見ていられるし、そうでもないものはどうでもよくなる。
以前、横浜美術館で開催されたモネの展覧会にあった、ロスコの絵画にも感動した。もちろんモネも良かったけど。
ロスコといえば、こういうぼやけた、誰にでも描けそうな絵画だけど、実際に見るとその大きさに圧倒されたし、この色彩の、たったこれだけのことで、私は温かい気持ちになったのだ。それは不思議な美術体験だった。
風景でも、人物画でもなく、色彩だけで。
実物を目にしないとわからないことはたくさんあるので、美術展に行くのはかなりオススメだ。
モンドリアンなんかも好きだ。
岡本太郎の『明日の神話』を毎朝見られることは、私の自慢すべき幸福だ。
他にも、好きな画家はたくさんいる。
『現象と多数解』
『状況 No.3』
『現象と多数解』および『状況 No.3』は私が暇なときに5分くらいで描いたものだ。
「ペイント」で描いた。
どうだろうか。
かなりそれっぽいんじゃないだろうか?
こうなってくると、プロと素人の境界はどこだろう?と思う。芸術の境界って?そうなると作品の値段はどうやってつけられるの?
論理や合理と相反する芸術を、きっちりした論理的社会に持ち込むことは、矛盾が生まれるから難しいことなのかもしれない。
なんか、こういう疑問に立ち向かっている強い画家がバンクシーなのかな、と思ったりする。
こういう時代だからこそ、芸術の価値は自分の心に響いたかどうか、その単純で深いことでいいと思うのだけど、どうもそう言ってられないのが人間のつらいトコロ。
もっとシンプルに、自分の好きなものを好きと言って、制作者にお金を出したいものだ。