蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

皆もう『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び(うず いもせやまおんなていきん たまむすび)』読んだ?

 イトル長っ。

 過日の第161回直木賞を受賞した渦 妹背山婦女庭訓 魂結びを読了した。

 

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 全編が関西弁によって語られているという情報を先に頭に入れていたので、やや不安はあった。

 私のようなサザンサザンの湘南ボーイには関西弁は馴染みがなく、読みにくいこと必至であると思われたからだ。

 だが、いざ読んでみると関西弁の難しさはまったく感じられなかったどころか、読んでいるとだんだん文体のリズムに目が慣れてきて、心地よさを感じるようになってきた。

 最終的には、関西弁を母語としている日本人が羨ましいと思えた。

 関西弁に慣れ親しんでいる普段遣いの人にこそ、この本を読んでもらいたい。私にはわからないリズムやニュアンスやイントネーションがあるのだろう。その妙を存分に味わえなかった私は、悔しい。

 関西弁話者に朗読してほしいくらいだ。

 

 関西弁だからなのか、それとも浄瑠璃が話の主体だからか、文体のリズムが心地よい。

 一文の長さが程よくて、声に出して読んでも句読点の位置が絶妙で、呼吸の乱れがおきない。

 そういった文章は黙読であってもすっと文字が流れるように入ってくるというもので、読んでいてぎこちない翻訳文のようなストレスは感じなかった。

 まるで、「聞いている」みたいだった。

 合わない人にはとことん好みの分かれる文体だが、私は楽しめた。

 

 また、関西弁だからなのか、話の舞台が道頓堀だからなのか、クスリと笑えるところが要所要所に散りばめられており、そういったユーモアは登場人物に愛着を抱かせてくれる。

 

 それから、浄瑠璃という「古典」を意識してのことか、風景描写や人物の内面描写は極力控えられている印象を受けた。

 もちろん、近代文学である以上、ここぞという情景描写は欠かせないのだけど、しつこくなくて想像の余地を残しており、関西風の味付けだ。滋味があって、出汁が効いている。それは不足ではなく、必要十分なバランスなのだ。

 

 

 このように、この作品は、浄瑠璃、古典、関西弁に基づいた文体を意識されているのではないかと思った。

 私は何分浅学の身分であり、これらの「読み」はテキトーな感想である。正しさなんて考えていない。そう思った、というだけだ。もっと知識を身につけたいところだ。

 

  ↓

 

 主人公は浄瑠璃作者である。

 作家なのだ。

 作家の作品を書けない苛立ちや苦悩、なによりも喜びが読んでいて胸に刺さる。

 そうそう、そうなんだよね、苦しいんだよね、でも楽しいんだよね、と趣味で小説を書いている私のような身でも思うところがあり、読んでいてときには苦しくもあった。

 

 仲間の浄瑠璃作家たちが「己の分身」の幻を追って死んでいく。

 その幻は、深層心理にいるもう一人の自分である。

 物を書くとは、作品を作り出すとは、深層心理にアクセスすることだ。知らず知らずにアクセスしてその断片を文字に起こしていく。そんな意識をして書くことは滅多にないけれど、文字にするとはそういうことだと私は考えていて、書き出された文字とは己を映す鏡なのだ。

 これは文字書きに限ったことではなくて、数学やあらゆる学問、将棋囲碁、舞台、芸術、などすべてに言えることだ。あなたの日常のささいな行動だってそうだ。

 行動の一つ一つは、無意識を反映している。

 作り出したものは自分自身なのだ。

 そこで本当の自分を真正面から覗いてしまうと、人はおかしくなる。

 どこかの数学者が脳内で一線を越えてしまい、帰ってこれなくなった話を聞いたことがある。将棋の羽生善治もその一線を見たことがあるという。

 表現者はより良い作品を作りたくてその一線を越えてしまうことがある。そこは一度踏み込んだら帰ってこれない世界だ。そうしてぐずぐず壊れていく。

 

 この作品における浄瑠璃作家たちの壊れ方は、そういうことなのかな、と思った。

 

 また、日常のあらゆること、死、他の作品が自分の作品にどれだけ影響を及ぼし、自分のものとして昇華されていくかも書かれていて、おもしろかった。

 

 作品を作る人にこそ『渦(略)』は読んでほしい。