蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

西村賢太さんを悼んで

川賞作家の西村賢太さんが亡くなった。

突然の訃報に驚き、たまらず近くの書店へ駆け込み、氏の未読作品を買い漁った。

買ってから「死んでから買っても意味ねぇよ」と言われそうだな、と思った。

私は別に西村さんと交流があったわけでもなく、ただのいちファンなので実際に西村さんのお人柄とかそういったパーソナルな部分はもちろん知らないわけだが、なんとなくそう言われたような気がした。

私は何がしたいんだろう。

 

ここから先は、勝手気ままに書いてるだけで、客観的な批評とかそういうのでもなく、ただただ想いを書き残したいだけです。

 

 

恥ずかしながら西村さんの作品を知ったのは昨年で、芥川賞受賞作の『苦役列車』を読んで見事にハマり、それから書店で見かけるたびに手に取った。

作者自身をモデルにした主人公を据える私小説、なので、作品は主人公(=作者)に着眼点を置いて、人間像を掘り深めていく。

その目線の鋭さはドスそのもの。主人公のはらわたを抉り出すような冷徹さを持ち一切の甘えもなく、主人公がどういった人間であるかを暴露していく。それはたとえば公衆の面前で裸になってさらけ出すどころか、皮まで剥いで骨身まで露わにするようなもので、赤裸々さはまったくなくおどろおどろしい。

しかし悲惨なだけではなくて、大正~昭和初期にかけてのような硬質な文体で難しい言葉遣いでもって徹底的に惨めさを書くことである種の不謹慎的な可笑しさが生まれているのが不思議で、ぜんぜん笑うところではないのにニコニコしてしまう魅力もあった。こういう種類の笑いは町田康さんの作品にも通ずるところがある。

焦燥や反発や惨めな誇りや欲望をかけて奔走したり苦悩したり反省したり暴走したりするさまを、あくまで冷徹に、他人事のような距離間で、しかし肉迫して書いている。自分のだらしがない点を徹頭徹尾卑下しながらも、本来のプライドの高い視点でもって擁護こそしないものの言い訳がましくもありつつ、その文章の圧、氏は原稿用紙に手書きで書いていたというがそれもあるのだろうか、これを書かないと生きていられないとでもいうような力強さは、銃口を口に含んで書いているような覚悟と怯えと震えが混じり合い、どこまでも冷たくありながら煮えたぎるように熱く、そしてどこまでも正直で、私にとって体温を伴った熱量を感じられる文章だった。

骨身を晒すごとく。

最高に、最高だった。

おれもこんな文章を書けたら、と何度思ったことだろう。(そういう人生にあこがれはしないけれども……)

 

とは言えここで亡くなるとは慊(あきた)りない。早すぎる。

人生をかけて制作していた藤澤清造全集はどうなるのだ。

清造随筆集はどうする。かき集めた資料は。

 

近年の作品を読むと、全集制作に身が入っていなかったようで、それをよしとせず身に鞭を打ったら腰痛や白内障など障害に見舞われてうまく事が進まず、出版社ともいがみあうこともあったようで、全集の完成は計画当初から引き続き前途多難なようであった。

制作当初は金の無さに苦労していたが、芥川賞受賞後は違ったようだ。

芥川賞受賞後にメディア出演も増え、作家としての地位を確立していくにつれて羽振りも良くなったのだろう、文章全体から余裕が生まれているのが目に見えた。なにか、自分を無理矢理追い込もうとしているような気配すらあった。

結句、追い込まれた状態でないと、面白い文章は書けないし、藤澤清造への恩こそ忘れないものの全集制作という大仕事には身が入らなかったのだろう。

自信の念願でもありながら気持ちに嘘をつけない素直さ。それがまた読んでいる側としては無責任ながらもおもしろかった、まだまだ魅せてくるのだと楽しみでもあった。

なんとなく、藤澤清造全集を完成させたときが、この人の死ぬときなのだろう、と勝手ながら考えていたのに。

まったく慊りない。

 

いつか見た「王様のブランチ」に西村さんが出演しており、そこで「原稿用紙に鉛筆で手書き。私小説以外の文章にまったく興味を持てない」とおっしゃっていたのをよく覚えている。

ロックだった。パンクだった。

惜しい人を早くに亡くしたものだ。

もっと見せてほしかった。もっと魅せてほしかった。

西村さんの人生の主人公は間違いなく西村さんだった。

 

ご冥福を祈るほかなく、悔やんでも悔やみきれない。