スピッツの「渚」を聴きながら思い出すのは、夏の思い出でも広大に広がる海の輝きでもなく、「渚」という漠然としたイメージそのものだ。
本当に美しい曲だけど、なんかうすら怖い気がするのはなぜだろう。
死ぬならこういう海で入水したい、そう考えてしまうのはなぜだろう。
スピッツの歌詞はさんざん議論がなされているけど「セックス」と「死」で大方説明できてしまうし、その二つがテーマになっていることは間違いない。
「セックス」と「死」なんて表沙汰にコンテンツ化するにはタブー視されているものを堂々と掲げて(けれど少し歪ませて)、日本を代表するロックバンドのひとつになるなんて、こういうところがスピッツ的哲学のロックンロールで格好良い。
ちょっと聞いただけではわからないその歪ませ方が絶妙で、意味がわからない言葉の連なりなのだけど、聴いているうちに心に入り込んできて、深いところで共鳴している。
はっとするような、誰もが抱いていた感情や情景を巧みに言葉に置き換えている。そういうところで心をぐっと掴むのだろう。
平易な言葉は連なって実体を帯び、身近な質感を持っている。
たとえば「渚」なら最初の一聯が好きだ。
ささやく冗談でいつも 繋がりを信じていた
砂漠が遠く見えそうなときも
気になってる人にいたずらにたぶらかされているような感覚を、この一聯で思い出す。
相手はそんなつもりが無くても、自分はそのつもりがあるから、ちょっとしたこととかほんの少しの秘密の共有が、嬉しいけどはぐらかされているみたいでくすぐったい。
繋がりの欠片にすがりついて繋ぎとめようとする。
なんか、恋愛の最初の方を思い出す。たった一聯で。
最初の一聯が「渚」における主人公と相手の関係性をほとんど説明している。
初手でぐっと掴んでくる、すばらしい歌詞だとおもう。
↓
歌詞も凄いけど、この曲で真に評価されるのはメロディなんじゃないか。
歌詞自体に海のイメージはあまり出てこない。
サビで「波」「渚」のワードが表れ、2番のBメロで「水」が出てくる。実はそのくらいなのだ。
なのにどうして明確に「渚」のイメージが浮かんでくるのだろう。
たまらなくそれは、サウンド、によるのだろう。
イントロから流れるシンセの繰り返し、鮮烈なギターのバッキングと、シンセにユニゾンするミュートサウンド。ときどき入る歪みのある音は炭酸が口の中で弾けるようで。一番でドラムスが鳴らし続けるハイハットが海の波のざわめきを想起させる。
この「繰り返し」とその変化、サウンドが、波打ち際の泡と、寄せては返すことを止まない海を思い出させる。
その思い出させる「渚」の情景は、いつか見た海ではなく、誰もの心の中にある、漠然とした美しい海であると私はおもう。
その海は広くて、得体が知れなくて、美しいのだけどちょっぴり危険で、羊水みたいにやわらかいけど冷たい。それは水でもあり、砂でもあるような気がする。
どうしてそう思うのか、うまく説明ができない。
ただそんな気持ちになるのだ。
寝転がって「渚」を聴いていると、自分のなかの「海」に会いに行ける気がする。
だからなんとなくうすら怖いんだろう。
たとえば、とおもう。
海を見たことのない砂漠の民が、「渚」を聴いたらなにを思い描くだろう。
「涙」とか「オアシス」か、「噴水」とか、遠くに見える砂漠の丘かもしれない。
私の中で「渚」という名前なだけの、無意識に広がるあたたかく冷たい空間。
それは誰にもあって、私にとって「渚」はそこを繋ぐ曲だ。