蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

無駄な時間を取っておきたい

  く思うのが、みんないずれは死ぬのだなぁということだ。

 これは中学生の頃からよく思っていて、このクラスでいちばん最初に死ぬのは誰かなぁと授業中に考えていたことがきっかけだった。おかげで素因数分解がなんなのか理解するのに周囲より遅れをとってしまった。簡単な事なのに。

 だけど、みんながいずれは死ぬ、ということも簡単なことであるのに、その事実であり真実は理解するのにもっと時間がかかる。

 私たちはなぜか、死ぬもんじゃないと思って生きている。

 

 なぜ私たちは自分の死をまるで他人事のように捉えているのだろう。

 自殺目前の人はひとまず置いておくとして、なんの絶望もなく生きていたら自分の死や愛する人の死はあまり考えない。

 眠れない夜に考えて、よけいに眠れなくなるくらいだ。

 たぶん、私たちが死を他人事と思っているのは、動物的な本能なのだろう。死について考えるほど死に向かっていく心持になって漠然とした不安に苛(さいな)まれるから、死について考えないようにできているのだ。常に死を想っていたら、たぶんすぐに死んでしまう。動物として生きることの目的は「生きること」である以上、死は遠ざけたい。

 

 自分もいつか死ぬ。

 あまり信じられない。ドラマやアニメや映画で「死」はドラマティックなものとして、特別な出来事として描かれるけれど、実のところ死は誰にでも平等に訪れるものであるから、特別なものではない。そうとはわかっていても、死は特別だ。初体験の夜のように。

 気分が落ち込んでいるときを除いて、死にたくない、と思う。あるいは、気分がアガりすぎているとき、死にたい、と思う。

 死ぬことで逆説的に、永遠や幸福を手に入れられるかもしれない。

 

 

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 今日、仕事上で無駄な時間を使ってしまった。電話でユーザ対応をしていたのだが、いろいろあって私の30分は無駄になってしまった。

 今日、会社のエレベータで10分くらい時間を使ってしまった。エレベータがなかなか来なかったばかりか、混雑する時間帯でもないのにオフィスのある上階まで各階停車になった運の悪さがあった。

 

 一日のうち、多くて一時間くらい(あるいはそれ以上)、こういった無駄な時間、無意義な時間は存在する。

 こういった時間を、いつか来る死の時まで取っておきたい。きっと死ぬとき、私は現世が名残惜しくて死にたくないと思い足摺(あしずり)をするはずだから。

 そのときに、この取っておいた無駄な時間分を余命として使えたら、有意義ではないか。

 

 「無駄な時間」を判定してくれる神さまがいて、私の一生の「無駄な時間」を保存しておいて死の直前に受け渡してくれるのだ。

 貰うと、たちまち体が恢復して元気になってきた。

 どういうことだろう。

「お前の人生のすべてが、私から見れば無駄だったよ」

 神さまはそう言って消え、私はまた無駄な時間を繰り返す。そうして手に入れた永遠の生は、死よりも悲惨なのだ。

 

 メメント・モリ。たまには死を想うと生を実感できる。