蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

くず人間を見た

 朝の電車はいつもより余計に混んでいた。ライヴでもあるのだろうか。観客全員スーツで参加するライヴがあっても面白いかもしれないけど、あいにくライヴではなく、ただただ混雑していただけだった。最悪だ。

 

 満員電車はストレスだ。

 混んでるというだけで殺気立つし、殺人者のような目で吊り広告を睨みつけている人も珍しくない。混雑率100%を超えて生きていける生き物は人間だけらしい。豚はストレスで死ぬという。

 混乱に乗じて痴漢が出るし、冤罪が出る。汚いおっさんの呼吸を肌に感じなければならないし、どこかから確かな人糞のニオイもする。

────地獄。

 満員電車は輸送式の地獄だ。そして職場という地獄に我々を送り込む。

 強制収容所へ向かう汽車よりかはマシだけど、その次くらいに朝の満員電車はきつい。なによりも救いがない。

 

 私の後ろに立つ大男は今朝の私を苛立たせた。

 彼は乗り込むや否や、投げるように両サイドの網棚に荷物を載せ、私の背後に背中合わせで仁王立ちした。そして腋に挟んだ分厚いハードカバーの本を広げ、読み耽った。

 なんだろう、こいつは。

 かなりピシっとした青いスーツを着ているのに、その挙動の細部は一般的な人間ではない。

 電車の揺れで私が少しでもその男の背中に触れると、奴は肘鉄で私を突いた。もぞもぞして、私が止むなく触れてしまうことを「拒絶」した。そういう絶対的な態度である。

 満員電車において、人に触れないでいることは不可能である。それだからストレスが溜まるのだし、仕方がないから我慢しているのに、こういう大男みたいな神経質な輩は困る。じゃあ乗るな。満員電車に。

 ただでさえストレスなのに、ちくちく刺してくる肘鉄が私を苛立たせた。神経質な割に体格は傍若無人で仁王立ち、しかも大きい本を広げて読んでいる。あるいはこいつは神経質なのではなく、自己中心的で利己的な動物的人間なのかもしれなかった。前世が虫の類であることは間違いない。こうなっては虫に失礼だ。

 

 背中が触れるくらい仕方がないじゃないか。

 それなのに私はこんなやつに怯えて、身をできるだけ小さくして揺れに無理に抗おうと努力しているのだ。褒めてほしい。だからちょっとくらい仕方がないじゃないか。

 と思っていると、また小さな肘鉄を食らった。

 いいかげん頭に来たので、少しく振り返って、男を睨んだ。ギッと恨み節に睨んでやった。

 驚いた。そして慄いた。

 男もまた、私を睨みつけていたのだ。

 一触即発。鎧袖一触。そんな四字熟語が浮かんだが、大男の目は明らかに殺人者そのもので、激情というよりもむしろ冷徹でさえあり、私を人として見下しその瞳の奥には呆れと諦めと、悲しみを湛えていた。

 そんなもの、独りよがりな同情である。いったい何を同情されたのかわからなかった。まるで、これからゴキブリを叩き殺すというその瞬間に人が一寸に見せる殺生の悲しみだった。

 私はゴキブリではない。

 そう、奴はまったく、私を見下していた。くず人間。そう言われたかのようだった。

 

 駅に到着すると、私の前に座っていた女性が立ち上がり、席が空いた。

 よかった。これで座れる。

 満員電車の暗黙のルールとして、自分の目の前の席が空いたら座って良いことになっている。むしろ座らないと周囲で「誰が座る?」ってなんだか気まずい空気になってしまうので、よっぽど体調の悪い人や年寄りがいなければ、空席の目の前の人が座ると安寧を得るだろう。

 私もルールに則り、座ろうと動いた。と、次の瞬間。

 背後にいた大男が巨躯に似つかわしくない素早い動きをして、私と周りの人を押しのけ、網棚の荷物を掴み取って、その空席にまさに一目散、着座したのだ。

 座らないと死ぬ。そう言いたげな様子だった。

 これには私も周りの人も驚いたし、なによりも無理矢理押されて痛かった。ぽかんとした呆気の空気で車内は静まりかえった。

 それなのにこの男は周囲の空気と平和を願う人々の気持ちには一瞥もくれず、「俺様が座って当然なんだ。馬鹿どもが」と言いたげな目できょろきょろし、あの分厚いハードカバーを惜しげもなく広げた。

 そのときまた目が合った。

 「ざまあみろ」そう言われた気がした。

 

 こういう人間は、生きていちゃいけない。

 社会の秩序を乱す反乱分子だ。

 

 そう強く思ったのは本当だし、嘘でもあった。心底私は男の無言の罵倒にムカついていた、言ってしまえばそれだけだったのかもしれない。

 私はリュックサックの中からやにわに乾いた刃物を抜き、さっと音もなく、男の顔を刺した。

 男の目には──乾いていく驚嘆に満ちた瞳の底には──、くず人間を睨む私の正義の相貌が歪んでいて、一寸の悲しみを湛えていた。