蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

パイナップルの居心地

日の昼に食べた酢豚にパイナップルが入ってた。

酢豚にパイナップルが入っているパターンに初めて遭遇したので、そうかこれが、と感動すらしてしまった。

酢豚のパイナップルといえば、なんか文化人を気取った中年タレントのつまらないコラムとか、特に話題のないブログなんかでよく見られる話題で、日常系マンガやアニメにも「なんの心も動かさない話題」のひとつとして登場する機会は多い。

そして大抵そういう場合は、「酢豚のパイナップルは嫌いだ。いらない」というありきたりな答えが待っている。

あまりにも予定調和すぎてこの話題が私は嫌いになった。なんの工夫もない。真四角の紙を見ているような気分になってくる。

「酢豚のパイナップル」の話の結末が仏法説話につながるとか、学生時代にあったちょっとエロいことの話に発展するなら面白いからいいけど、「酢豚のパイナップルの話」をわざわざするような人間に、そんな愉快なことは期待できない。

 

で、まぁ、そんな話はどうだってよくて、そんなわけで私は今日初めて酢豚に入ってるパイナップルを食べたのだった。

美味しかった。

でも、酢豚に入っていなければあと7倍は美味しかっただろうな、と思ったし、酢豚もパイナップルが入っていなければあと5倍は美味しかったな、と思った。

パイナップルが甘すぎたのかもしれない。両者の味が喧嘩して、全然合ってなかった。

美味しかったというのは、嘘なのかもしれない。

 

でもなんか、パイナップルを無視するわけにはいかなかった。

こういう余分な奴がいるからこそ、酢豚の中のパッとしない野菜たちが美味しさを際立たせていると実感できる。

パイナップルに比べたら玉ねぎやにんじんやピーマンの美味しいこと。平生から美味しい野菜だけど、パイナップルのダメさが露呈することで、野菜の美味しさが際立つ。

ふと、社会の中でもこういうことってあるよな、と思った。

自分は仕事があまりできないけれど、私よりもできない存在がいるから私はその人の陰に隠れていられるし、周囲は相対的に「できる人」に見えてくるものだ。

組織にとってそんなパイナップル的人間は足手纏いでしかないが、実はみんなの心の平穏性を保つことに一役買っているのである。みんなはパイナップルと同じように、いらない、とその人に思うけれど、いざいなくなったら困るはずだ。

その人がいなくなったら、また誰か別の人が「パイナップル」になってしまう。

人間社会の居心地の悪さというものは終わりがない。

人間が2人以上集まれば、その集団の行末は戦争か愛の2択なのかもしれない。

我らに救いはないのか?

 

少なくとも念仏を唱えれば、仏は私たちを見捨てないから、パイナップル的人間になったとしても自分自身はどこかで救われて然るべきである。

あるいは過去の良かった出来事に思いを馳せて現実逃避をする術もある。たとえば私の例で言うと、当時住んでたアパートで男女で飲み会やってて、みんな帰ったあとに近所に住んでた後輩の女の子だけ「ちょっと2人で飲み直しませんか」って戻ってきて、(以下自粛)。